ハート

掴まってから 自由にうごく 雲梯世界

愛をテーマにした展覧会をやっていて。愛がテーマっていうより、自己の美術作品がいかに愛を具現化したものか、の説明、みたいな。

言葉にできないものが、この世には、たしかに存在する。

胸のうちに浮かぶ、うにゃうにゃしたもの——平常ではない、けれど、激変でも激情でもない。そんなもの。喜怒哀楽のどれにもあてはまらないし、かといって、無視していいような些末な感情かといえば、そうでもなく、とにかくこちらを惹きつけてくる。こっちを見ろ、との訴えかたがすごい。

それで、とりあえず「愛」と名付けてみる。

ある対象物のことを見たり、思ったりしたとき、「愛」は生じる。決して、全力で優しさを傾けよう、とは思わない。もっと、相手を慮らない、勝手な感情だ。そして、全力で否定することもしない。自分の世界から締めだしてどうにかなる感情ではない。

ああ、この、うにゃうにゃとした感情。色もかたちもわからない、とらえどころのない、けれど、そこにあることだけは確かな、この感情。これは、愛だったのだ。

そうして、一日のうちたびたび、「あっ愛だ」「これは愛だ」と自覚するようになる。その自覚が重なって、まるで、日々が愛でみたされているような錯覚に陥る。

そうだ、これは、「錯覚」。たしかに愛があるという認識こそが、幻覚なのだ。

それまでの世界に、愛が欠けていたから、愛にあふれる日々は、より魅力的に映る。こんな自分の、こんな人生なのに、愛にあふれる日々に変えることが、できるんだ。今まで幻想やフィクションの世界と信じていた、これは、実際にここに存在する。

心は、現在のありようを評価する。そして、次第にこの状態から抜け出すことを恐れ、現状にぶら下がるようになる。最初のうちは、いままでの人生こそが現実であって、愛になど、なにをされるか、いつ裏切られるか、わかったものじゃない、という認識でいるから、それほど愛に頼ろうとしない。

それがだんだん、愛なしの日が意味をなさなくなってくる。愛のあるこちら側が現実で、愛のなかった過去の日々こそが、幻想だったか、さもなくば努力や運のたりなかった日々。人生とは、その運、努力をも得てこそ、このように花開くのだ。

そう信じてしまったら、たとえ、経験豊富だとしたって、愛のなかった時代に戻ることは、死ぬを越えて地獄へむかうのとそう変わりない。

それを、人は、「依存」という。依存は、いい響きがあまりない。だが、この状態こそが、人が本来置かれるべき状態だ。

心には、元来、掴まるところがない。

この社会は、真面目な人がたくさんいて、制度化されきっていて、法整備も充実していて、人々のモラルもあって、人間にとって非常に整備された世界のように見える。

世界に住むまともな人々は、ルール通りに動き、エチケット通りにふるまう。それが不文律であっても、そう振舞う。

すべての人が、そのルールにのっとって、たがいの関係を結んでいるように、そう見える。

けれど現実は、その「ルール」の不在。ルールが存在しないのだ。ルールが存在しないことを証明するには、ダーウィンの進化論を読まなくてもできる。世界にはもともと人間がいなかったのだから、絶対的なルールもまた、なかった。

ふたりの人間が生じ、お互いに、こうしましょうという合意を得る。それが、ルール。法律やら説明書やら、学者やら政治家やらが、ルールだといって紙に書いても、賛同する人がいなければ文字列にすぎない。

はい、「愛」に心がしがみつきました。これで一件落着……?

うにゃうにゃした感情は、どこへ行ってしまったのかしら。そう、その感情は、「愛」ではなく、仮に「愛」だと置いてあるだけだ。初めは、愛ではなかった。仮名が愛なのだ。

では、次の作業は、仮名をはずして、正式な言葉を付すこと。けれど、なんてつける?

もう、なんでもいいや。名前をつける、その行動こそが「仮」なのだ。物には名前などなくて、単なる「呼び名」として人間がつけるだけなのだから。自分の名前すら、絶対的、と信じているものの、一個人、一個体の、その名称にすぎないのだ、と思うときの、崖から落ちるような不安。高いタワーから地上の人々を見下ろすような、傍観の感覚。それが終わる日は、こない。

しがみつく場所を、決めることだ。

趣味やハマるもの、この上なくマニアックになれるもの、熱中できるもの。それらは、天から啓示のように降ってくると思ってはいないだろうか。ハマっている人をみて、他人事に「楽しそうだな~」と思い、自分にはそういうものはないな、とあきらめる。いつかは何かにハマるかも、と期待を持ってみたりする。

そういう日は、来ない。

自分からハマりに行くしかない。そこで、心はうにゃうにゃと言い出す。わたしはそれに「愛」と名付け、すると、対象物をくりかえし見せられた心は、それが「愛」あふれる日々だと錯覚し、しだいに依存していく——

そういう仕組のようである。だから、ある小説の「掴まるところが欲しいだけなんだよ」と言った少年の言葉をみて、孤独な少年の悲嘆をちょっとでも感じてしまったかつての自分は、やはり、人生を他人や他物に預けすぎていたのかもしれない。

ほんとうに、自分の人生のすべてを、感情までもを、自分で背負い、艱難辛苦と快楽の、そのすべてをまるっと、隅から隅まで、しっかり舐めとる覚悟はあるか。そういうの、若いころからしっかりわかってる人って結構いて、わたしはいつも怖気づいている。

その本は2007年頃に買い、年に一度以上かならず読むほど好きだったのに、ホルモン治療をした2017年、性格や趣味が変わったせいで売却してしまった。なぜこんな本が好きだったのか、信じられない!という気持ちで売りに行った。今では、すこし後悔している。



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