JR九州階段_編集後

すきなほうを選べます 夜型人生 or 朝型人生

ねむいのに、せっかく時間があるんだ、と思ってテレビ見たりネット見たりしてしまう。

すると、翌朝がつらくなる。

朝がつよい人はいいなあ、得してるなあ、とくやしさがこみあげる。

平日、激務というほどの生活でもないのに、「休日は寝ています」という人がいて、あそんだり、勉強をして次につなげたりできるのに、もったいないなあ、と思う。

よほど楽しみが少ないのでは? と疑う。

だから資格がとおらないんじゃない? と、もっともらしい因果関係を見つけてみる。

眠いから、眠る。それなのに、その眠さによって、唯唯諾諾とベッドへつれていかれることを、「怠惰なんじゃないか」と蔑みたくなる。

生命活動としての、からだの要求をやすやすと認めることを、「人として正しくない状態」と評するむきは、割とある。

ただただ要求にしたがい、生きることは、なぜ避けられがちなのか。

一度、病が生活の中心となれば、生理現象が最優先、これは絶対だ。トイレを我慢したり、口渇にもかかわらず水を飲むのを後回しにしたら、どうなるか。「だから、悪化したんだ」という結果をもたらさないために。

じっさいの因果がなくとも、注意をはらう。

からだの要求を後まわしにする思想の、背景には、どうも、かつてのスポコン的なものを垣間見る。体育の時間に水をのむことや、授業中にトイレにいくことは、現在となっては当然に認められる。むしろ人権の一種。

根性的な教育で培われたものも、もちろん、あっただろう。けれど、踏みにじられてはいけない要求が、踏みにじられていた。

さて、精神論は愚昧でしかない、という結論がでたところで、眠い人間は、どうすればいいのか?

唯唯諾諾と、睡魔におそわれれば、それでよい。

バッテリーがきれてもなお動きつづけるスマホやPCは、ない。充電が必要なんだ。充電すれば、もとのように活動できる。

それなのに、まだ時刻が早いから? やりたい事があるから? 連れが起きているから? いろいろな理由をつけて、睡魔とたたかう。

右手で戦いながら、左手で自分のやりたいことをしていては、勝てない。両手でおこなう者が、強く、正確にやれるにきまっている。

それに、翌日が休日ならいいけど、起きなければいけない日なら、「朝型の人間は、いいなあ」と不満がつのる。

昼間になって、あたまの回転が鈍く、効率があがらない。

夜になって、元気になり、あしたのことなんか念頭にものぼらず、活動する。

朝、起きられない。「自分は夜型人間だから、しょうがない」

つまり、

「からだの要求に唯唯諾諾としない=不満だらけの人生の第一歩」

と、心得よう。夜だけが、自分の時間、とうきうきして、よくばりすぎないことが、肝要。

仕事のせいで、眠くても、眠れない?

「仕事とは、作業ではない。作業をへらすことである。」

と、本に書いてあった。


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