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永遠のときにはなにもしない 時間がないときは全部できない

ふとした瞬間に、時間は永遠にあるような錯覚におちいる。

たとえば、土曜日。なかでも、三連休のさいしょの日。

次の予定(大抵は夕飯)まで何もすることないなー、なんて考えて、ネットサーフィンとか、FBを一週間前の投稿までさかのぼって全部みたり、ときにはトイレットペーパーみたいな補充品をやすい店まで買いにでかけるみたいな、有意義なこともする。でも大抵は、時間をむだに使う。

ただし、休日が有限であることも、あたまの片隅では解っているので、少し諦めモード。何にたいして、といわず、諦めモード。

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日常生活のなかで、時間はだいたい、有限すぎるくらい有限。私の日常生活では。

一日8時間仕事して、だいたいは8時間におまけがついて、あの人は子供のお迎えがあるからって毎日早く帰ってて、でも文句も言われなくていいなー(自分が早く帰ってもたぶん文句は言われない。けど、仕事が間に合わなかったときのことを思うと、小心者で、つづきはまた明日!と切り捨てられない。子供がいたら、天秤にかけて、子供をとるだろうに)なんて考えて、夕飯たべたらいつしか就寝時間10分前なのにまだお風呂入ってなくって、寝不足だから翌日も体が重いのに、8時間以上椅子に座って、翌朝はまた、ドリップのコーヒーを淹れる時間すらなくて、お弁当詰める余裕もないから、少なくとも健康に資することはなさそうな炭水化物をランチに買いに出て…

平日の朝からコーヒーを粉に挽いて淹れてる人なんて、しょせん、住む日常がちがうのよ。

と言いたいところだが、

有限なる永遠の休日だってきみは、毎週のように経験するくせに。

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休みの日にどれくらいやすむか、平日のスキマ時間にどれだけ頑張るか、決めるのは難しい。

仕事おわったら、試験の勉強とかそこまで頑張らなくていいでしょ、仕事自体は頑張ったんだから、と言われれば、そのような気もして、プライベートな時間を好きなようにつかうのは労働者の権利だ、とビール片手に深く納得してしまう。

正社員なんだから、職務に誠実になるのは当然でしょ、休みの日だろうがサービス残業だろうが、職務をまっとうできなかったらおしまいだよ、と言われたら、そんなふうにして皆生きているのか、と自分の危機感のなさに恥じ入り、さらに努力して、でも頂点に辿りつくこともない。

どのくらいの経験者にどれくらい仕事を任せるかだって、その会社によってぜんぜん違うし、上司によってもちがう。大抵の善良な会社なら、平社員が仕事をまわせなくなったらその責任は、仕事の分担を決めた上にあると考えるだろうし、それでも自分だけがわるいと罪悪感にさいなまれる平社員だっている。

どれがどのくらいできるか。自分はどれくらいやればいいのか。

どれくらい努力したらどれくらい休んでいいのか、そんなこと、もう本当にどうでもよくなるようなことに、先週、出くわした。

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仕事柄、ハローワークに出向くことがけっこうあって、求職している人とは呼ばれる窓口がべつではあるものの、広くもない室内だから聞こえてくることもある。

もう80になろうという旦那さんの仕事を、奥さんが探しにきていた。パートタイムで、事務職を。勝手な想像だが、足腰をつかう力仕事はもうできないのだろう。応募しようとしていたのは、時給800円台の仕事だ。

1時間はたらいて、800円をもらう。

一週間働いて、20時間なら、16,000円。

食費を、一日、夫婦ふたりで1,000円まで抑えても、16日分。たった16日。入用なものは食べ物以外にもたくさんある。人は1年に365日も生きるのに。

このご夫婦は、2千万円が溜まるまで、あとどれくらい働けばいいのだろうか。

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生きることも、仕事も、食べることも、ある地点までずっと流れつづけるものだから、風のように、一カ所をぐいっと掴んで安心することができない。不安定なんだ。いつもグラグラしたなかで、生きていて、心が休まるはずはない。

だから、つい、甘えのほうに偏ってしまう。みんなそんなに頑張ってないよ、そこまでキツキツでやってないよ。そうは言うんだけど。

800円でいいんだったら、私にもまだ、できることがあるんじゃないかって。とても単純な理屈なんだよ。80歳になって、800円を稼ぐために1時間がんばることの、どんなにつらいことだろう、って思ったんだ。さぼりたいんじゃない、義務感もある、でも、息切れがして動けない。

だったら、永遠だと錯覚するほど長い時間の、しかも、体力のある若い時代に、その800円を、80歳の私の代わりに稼いでやろう、ってそう思った次第なのです。

いつか終わる週末だ、って、諦めている時間はない。



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