信仰心の 神聖性

とくにこれといって信仰する神様はいない私である。

シッダールタ、イエス両氏しかり、ビジネス界にも政界にも、これといって信仰する神様が、いない。

「うち一応、仏教だけど、信仰っていうほどなにもやってないよ。お経の種類が決まってるくらいかな」と言うのが挨拶がわりになっている、昨今である。それを人から言われると、相槌をうつ。

「うち、実は○○教なんだけど、この話題だすと友達でいてくれなくなるかもしれない。ぜったいに秘密!」と思わなくて済むことに、安心する。

そのことを、幸福であるとは、格別おもわない。

そのことが、幸福なのかもしれない。

宗教を信仰する理由はさまざまにある。うまれた家の宗派にのっとって、自分もまた子へ受け継ぐという人もいれば、自分の代から入信する人もいる。

両親から受け継いだものの、自分には必要ない、と信仰をすてる人もいる。必要を感じないながらに、出費だけかさむのは割りにあわない。

訪問で宗教入りませんか、(とはっきり言ってくる人はいないが、配布物を渡されたりした)とき、あーほんと、世の中いろんな人がいるなあ、と感じる。

感じながら、まあ、入信する可能性は1%を切る。かんたんに考えるなら、「この人たち、暇だなあ」という結論をだす。けれど、それは多くの場合、誤りだと想像する。たしかめることは、できないけれど。

必要のないものは、捨てられてしまう。パンフレットのように。

必要のあるものは、だれかが担ぐ。その人が死んでも、受け継ぐ人が担ぎつづける。

つまり、信者というのは、必要があって信仰している。

必要とされる事象は、必ず、どこかで人々を助けている。反対にいえば、その事象なしには生きられない人がいる。そんな人々を生きながらえさせるという大事業を、その事象は、行っている。人を生きさせることほど、すごいことはない。

宗教はそれを、物理的なエネルギーではなく、あくまで、イマジナリーな世界で成し遂げている。そこがすごい。飢えている人にご飯を与えれば、生きながらえる。病気の人に治療を与えれば、生きながらえる。けれど、考え方を与えることだけで、だれかが生きながらえることは、めったにない。

どの宗教にも、生きながらえさせている民がいる。

宗教(思想)がなくとも平然と生きている人ばかりのこの国は、やはりどこかで、宗教に頼らざるを得ない国よりも優位に立っている。それが、空気を読むことや、自己主張しないことや、なにか他のものを犠牲にすることで成立しているとしても。

「ありがたいお経で、三日三晩唱えると、体が軽くなり肌も白くなっていきます」

という勧誘に対して「うち、○○教信仰しているんで」と反論できぬままドアを閉めた。なんだか少し、虚無を感じる。


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