妖怪の国

2010年1月頃

飯場に入ってひと月経ったくらいだったか、社長と一緒に二人で現場に向かう機会があった。最初に仕事の説明などをしてきた60代くらいの白髪の男性は会長で、オヤジイと社長に呼ばれていて社長の宇野さんはその時30歳だった。今のぼくと同じくらいだ。角刈りの、祭りが似合う男で深澤さんよりはるかに爽やかで、うしろぐらさの無い人だった。
「まつもとお、この会社はよお、妖怪ばっかりだから気をつけろよお」
車を運転しながら宇野さんが言った。心なしか、肩が左右に揺れているように見える。
当時20歳過ぎ。なんとなくかしこまりながら、建築の右も左もわからないので緊張し続けていたぼくは、え? となって、「みんな妖怪なんですか?」とつまらない反応をした。
「おう妖怪だよお」
快活に、祭りのように宇野さんが返事をした。
「深澤さんもですか」
名前を出して訊いた。
「おう妖怪だよお」
祭り口調はある種機械的ですらある。
ちょっとまともそうな人の名前を出してみようと思った。
「元白水さんもですか?」
「おう妖怪だよお」
また、判を押したように宇野社長が楽しげに答える。
もっと更にまともな人、鳶で、職長などもやっている人を、と思い、「辺見さんもですか?」と訊くと、
「当たり前だろお。通いであんな早い時間から出勤してよお、現場終わってからも会社でパソコンいじって9時とかまで仕事してるんだぞお、あんなん妖怪よお」
「じゃあ、宇野さんもですか?」
「おう妖怪だよお」
爽やかな人だった。せめて道中の会話でなごませてつまらない気持ちにさせないようにしようとしているのだろうと思った。仕事の話や、狭小な人生論みたいなつまらない話などを一切せず、深澤さんより好印象を抱いた。
現場に着く少し前に宇野さんが平らかな喋り方でぼくを諭し始めた。
「きのうよう、藤村さんって人が入ってきたんだけどよぉ、今別の車で同じ現場に向かってんだけど、あの人はやばいなぁ。あれは妖怪の中でもかなりの妖怪よぉ」
まったく笑わずそう言った。建築の話も足場や鳶の話もまったくせず、妖怪を見る目だけは養ってきたんだよ、と言う宇野さんの態度はとても心地よいものだった。
現場に着いて少しして、宇野さんの予告じみた前置きはそのまま現実になった。
「藤村さあああん、そんな妖怪みたいな動きしちゃダメだようっ。バレねーようにしねーとお」
宇野さんが叫んでいた。
藤村さんという50前後であろう、見た目落武者っぽいおじさんは、ファミコン以前の低解像度のゲームで火の玉を避ける棒人間のような姿勢で足場の材料を受け取り、「もらっとぅわぁ!!」と大声で叫んでいて、変わり者ばかりいる建築の現場の中でもかなり目立つ存在で、それまで1度も一緒に現場に出ていなかった宇野さんの読みは正しかった。たしかに、注意しておかないと、雰囲気だけで帰らされそうな妖怪だった。

後日、別の現場で宇野社長がぼくをその現場の現場監督に「こいつぁ哲学系の妖怪なんだよぉ 」と紹介して、その時ぼくは宇野さんのことを少し嫌いになった。妖怪の部分はいい。決してぼくが哲学系ではないということを、現在40を過ぎた祭り系妖怪の宇野さんは、そろそろわかっているだろうか。
忘れてるか……。

基本的に無駄遣いします。