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第32号『観た人によって感想の変わる映画、天気の子の話をしよう』

個人的には新開テイストたっぷりで自分好みの良作映画でした。相変わらず丁寧に描きこまれた背景や演出は圧巻の一言。雨をテーマにして精霊馬という季語を入れる事で毎年夏が始まる季節に観たくなる、そんな映画です。ただ、これは地上波で放送する場合だと色々物議を醸し表現規制やら色々カットされそうだなとか、地域によっては過去にあった災害の自粛ムードで放映できなさそう、そして人によって好き嫌いが凄く分かれそうな映画だと同時に思ってしまいました。今日はそんな映画の話をしましょうか。


一言で言ってしまえば『天気の子』は中二ファンタジーです。

離島から東京に家出してきた少年と、“祈るだけで晴れにできる力”を持つ少女が出会い、自らの生き方を選択していく物語

『君の名は。』が大ヒットした為、新開監督の名前も一躍有名になりました。それからファンになった人達の次回作映画に対する期待値は当然高くなる訳です。なのでよくTwitterで目にする感想では”『君の名は。』と比べてどうだった”という感想が多いように感じます。設定が似ていたり『君の名は。』のキャラが登場したことでそういう感想になったんだとは思いますがこの記事では『天気の子』を連作ではなく、一つの作品として観ています。

個人的に評価したいところ

大ヒット作の次の作品作りって凄く怖いと思います。だから『天気の子』は守りに入るのかそれとも攻めるのか、どっちなんだろう?と「監督の腕の見せ所だなぁ」なんて事を考えながら、楽しみにして映画劇場へ足を運びました。

そして上映された映画『天気の子』は新開監督の”攻めの作品”だった事に万雷の拍手を拍手を送りたいです!流石!

それは何故か?それは『天気の子』がエンターテイメントにおける表現のギリギリを攻めた作品だからです。物語の展開の中で主人公やヒロイン、または登場人物が御法に触れることもする。街が水没するなど場合によっては自粛を求められる表現を入れる等。不謹慎だと言われるかもしれないけれど、この表現の攻め方を評価したいのです。

例えば不良漫画で喩えるなら、ノーヘルでバイクを乗りまわし煙草をくわえる不良などを描く表現は、現代だと青少年の教育に悪い影響を与えるかもしれないとクレームを入れる人もいるでしょう、行動に責任が求められる時代なので。だけど、どこの世界に法律をキッチリ守る不良が居るんだ?って話です。そこをカットした不良漫画って面白いですか?フィクションの中でぐらい描いたって良いじゃないですか、フィクションなんだから。そういう表現の幅が狭まらないように攻めるギリギリの表現を描く、個人的にはそこを評価したいのです。

それ故に万人受けはしないかもしれない、それでも刺さる人には刺さる映画になってたような気がします。商業的にそれが正しいかどうかはさておき。

楽しめた人と楽しめなかった人の境界線を考える

楽しめなかった人と楽しめなかった人の境界線を考えた時に、この作品が描いた色々な境界線が見えた気がしたのでその事について書いていきます。

観る人によって感想の変わる映画『天気の子』。その差異はなんだろう?と先日2回目を観て来ました。

◆境界線その1 視点を切り替えて観れるかどうか

この映画は主観(主人公たちと同じ10代の目線)で観るか、俯瞰(常識的な大人目線)で観るかで面白さが反転する作品なのかなと。

視点を変える事で違った絵に見えるトリックアートみたい

なので後者で観ると楽しめません、むしろ場面によってはドン引きします。面白くなかった。と思った人は精神的に大人なだけなので問題ないと思われます。

だからこの映画は10代の目線で楽しめるかどうか?10代じゃ無かったとしても10代だった頃の目線で楽しめるかどうか?それがこの作品を楽しめるかどうかのボーダーラインの一つなのかもしれません。あと過去に中二病を患った人は問題なく楽しめるので安心して観てほしい。

というか10代の目線で作品作れる新開監督凄いな、例えば夏美さんとか10代男子が考える”理想のちょっぴりHな年上のお姉さん像”だものなw

そしてここからは映画のネタバレを含みますのであしからず。

◆境界線その2 選択と責任について

高校一年生16歳という年齢は子供でもなく大人でもない微妙な立ち位置です。そして思春期真っ盛りでもあるので、世の中のルールより自分ルール優先なのです。例えば法律より惚れた女の子優先とかね、その判断が間違いかどうかはとりあえず置いておいて、それを許容できるかどうか?も楽しめる境界線なのかなと。10代は目の前の事に一生懸命で視野が狭いのです。

◆境界線その3 現実とフィクションを分けて観れるかどうか

冒頭で登場する街やお店が現実でも実在する名前だったりします。これは舞台だったり出資するスポンサーの関係なのですがそのせいで、現実感が増してしまい純粋にフィクションとして楽しめない人も居たのかなと。その割に凪先輩のようにお前のような小学生が居るかwあれかな黒の組織に薬を飲まされて人生経験豊富なイケメンが小学生に戻ったのかな?とか今時リーゼント頭の刑事が居るのかよwなど現実とフィクションのギャップが大きい所も人によっては受け付けないのかなと。

◆境界線その4 膨大な情報の中から伏線を拾えるかどうか

この作品はあえて十全に説明を行わない事で、足りない部分を想像したり推測したり、結末について意見を交わし議論して楽しむ作りになってます。考察厨や映画好きなんかはこの辺の感想を言い合うのが楽しいんです、自分もその一人。だからこのnote記事を投稿したら他の人が書いた天気の子の感想を読みまくろうと思います。ただ一般の人からしてみれば説明不足で判り辛い作品となってしまうかもしれません。万人向けじゃないと言われる理由はこの辺もありそう。2週目で初めて気付いた伏線やワードもあったのでやっぱり情報量が多いなと。

例えば主人公とヒロインについて少しだけ話をしましょうか。あくまで自分個人が感じた感想であり、推測から補完してる部分もあるので他の人と意見が違うかもしれません。けれど自分はこういう楽しみ方をしています。

■帆高について

最初に自分が帆高に抱いた第一印象は”想像力豊富(妄想強め)な承認欲求に飢えた少年”でした。そして多分、”運命論”とか信じちゃうタイプの無自覚型中二病です。なんだか放っておけない危なっかしさを持ってる、基本的には良い子。

何故そう思ったのか書き出します

彼が家出した理由は「あそこには戻りたくない」としか言っていませんが推測する要素はあります。そしてここが重要なんですが、帆高が家出して東京にいる間、ある違和感を感じませんでしたか?自分は強烈に感じました。

それは家出した帆高の携帯電話に親からの連絡が一切無いんです。着信もメールも。捜索届けは出ていたみたいですが、これは世間体を保つためじゃないか?と邪推してしまいます。普通子供が心配なら親は着信履歴埋まるほど掛けたりしません?ちょっと無関心すぎないか。「あそこは息苦しい」と言っていたのもこの辺なのかなと。好きの反対は嫌いではなく無関心だということを知らないのだろうか

東京に向かう間にバイトを探そうと知恵袋にもアドバイスを求め書き込みますがそこでも否定的なコメントばかりが並びます。

この日食べたハンバーガーは忘れなれない味になった

そして泣きながらハンバーガーを頬張るシーン。この場面、なぜ泣たんだと思います?東京に来て初めて人のやさしさに触れたから?

それもあるでしょうが、きっと彼は無意識に誰かにずっと”承認”して欲しかったんじゃないかと思います。「3日とも同じメニューじゃん」と自分を見ていてくれた人がいた事が何より嬉しかった。精神的にも金銭的にもギリギリのタイミングで差し入れは彼にとって特別な味になったんじゃないかなと。ややブラックな須賀さんの会社の編集のバイトが決まった時も彼は嬉しそうな表情したりするので以上の事から彼は承認欲求に飢えていたのかなと思ったわけです。

そして理解されずらい中二思想部分。平凡で何も無い田舎から東京に出て来れば”何か”が変わると思っていた、けれど孤独感は増す一方でその”何か”はやってこない。

そんな中偶然ハンバーガーがきっかけで知り合った少女陽菜。

ねぇ、今から晴れるよ

天気の巫女の力を行使し雨天を晴れ間にしたことで、探していた都市伝説が実は彼女であり偶然に偶然が重なっただけなんだけれど、彼の中では待っていた”何か”が来た!って運命的なものを感じてしまったんじゃないかな

あと彼は自分の主観のみの話し方をするので、大人目線だと「何言ってんだこいつ」と言ってる事がわからない感じに聞こえそうです。この辺の中二部分も理解出来る人出来ない人に分かれそうだなとw

■陽菜について

100%晴れ女にして天気の巫女。家族(母や弟)、他人(帆高)を思いやれる優しさを持っている少女。良く言えば献身的、悪く言えば自己犠牲が強い子。この娘はこの娘で帆高とは違った意味で危なっかしさを持ってる。基本的には良い子。

母子家庭で育ち、子供の為に頑張る母親を見てこういう性格になったのかなと思いました。そして大好きだった母親は晴れの日が好きだったのかなと。

映画の中ではそういうエピソードは描かれていませんが、”彼女の祈りの内容の変化”からそれをうかがい知ることが出来ます。

例えば冒頭の雨が降る風景のワンシーン。けっこう見落としがちですが、神社で無数に並んだ絵馬の願い事が映し出される場面。その中に陽菜が書いたんじゃないか?と思われる願い事が書かれた絵馬を見つけました。

お母さんの退院の日 晴れますように

そして廃ビルの屋上で最初に鳥居をくぐりながら祈った時の願いは

雨が止みますように。お母さんが目覚めて、また3人で青空の下を歩けますように

この2つの祈りの内容の違いから母親の病状が徐々に悪化している事がうかがえます。そしてその願いが叶うことなく彼女は一時的に晴れにする力だけを授かります、天気の巫女として。晴れを見せたかった母親はもう居ないのに。

そしてほんの気まぐれで力を使い、帆高に晴れた青空を見せたときに見た表情やその後始めた晴れビジネスで見た人々の笑顔が、彼女にもう意味が無いと思っていた能力に拍車をかけてしまった。その代償を知らずに・・・

結果としてここから彼女の自己犠牲とそれを否定しに行く主人公のストーリーが生まれる訳です。映画の中で見つけた主人公とヒロインの情報の断片だけでもこれなのでやっぱり情報量が多いですね。鑑賞偏差値の高い上級者向けの作品なのかなと思いました。考察するには面白くて良いんですけれどね。


最終的な結末について考える

陽菜が帆高や弟達と一緒に現世に留まりたいと願った為、天から人柱が居なくなり、その結果3年雨が降り止まず東京は殆ど沈んでしまいます。そしてその結末については賛否両論になってます。

「世界の形を決定的に変えてしまった」と帆高が冒頭と最後に言ったことでそう感じる人が多いと思うのですが本当にそうでしょうか?

これは主人公が思い込みで勝手に結論つけているだけで、実際はどうだったのか知る由はありません。こう言い切ったのは「だとしても自分は世界より陽菜と生きる事を選んだ」という覚悟の表れなのかなと。

「世界」か「好きな子」か選択を迫られ「好きな子」を選択したらそれは間違いですか?それは正しくありませんか?そう問われた気がします。

もともと異常気象で雨が降り続いていた訳なので、天気の巫女の力を私欲で使った反動や天気の巫女が人柱を拒否したため東京が沈んだのか?仮に彼女が人柱として犠牲になれば東京は沈まなかったのか?それは結局解らないままなのです。

映画を観た後で、主人公たちのエゴで多くの人達が住む所を追われたり、場合によっては命を落としたかもしれない。そう思うと純粋に楽しめないと思う人の気持ちも解ります。

たった一人の犠牲で済むならそれでいいじゃねぇか?

皮肉交じりに言った須賀さんの台詞。大を生かすため小を殺す案。大人の判断ではそうせざるを得ない立場だったり場合もあります。だからこの意見も間違いではない。けれどその選択を選ぶには主人公たちはあまりも幼すぎるんです。

まるで「トロッコ問題」を考えているような感じでした。どっちを選んでもキツイというジレンマ。

この”『天気の子』問題”を解決するには上記の問題同様に「第三の回答」を探すのが良いのかなと思ったり。その辺も好きな人達と話がしてみたいです。

結局、悩み抜いた結果、自分で出した答えなら、それが正解だろうと間違いだろうとこれからも前を向いて生きよう。それが監督がこの映画に込めたのメッセージなのかなと。そういうところも含めて自分はこの作品が良い映画だと思いました。

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