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逃れられない

結局はプライドの問題。

この前同窓会に行って、「就活も仕事もこれからの人生全部、逃れられないな〜」と思った。私の母校はお勉強ができる子が多かったから、もうすでにギラついている人がいた。何とか商事が、OBのお偉いさんが、とか夜中に飲んでる時に聞こえてきた。反対に、文転して偏差値の低い大学に行った子は、伝わらない声量で大学名を言っていた。ぎらつくのも自信をなくすのも個人の自由だけど、まあどちら側に行きたいかと言われたらギラつきたい。いや、ギラつきたいというより、萎縮したくない。

「はいはい、プライドとかエゴね」と片付けてしまえば自分のせいにできるけど、私は他のせいにもしたいのでこれをちまちま書いている。成功とか幸福ってまあまあ相対的なもので、それを比べる上で影響力を及ぼす範囲がかなり限られている。極端な例だと、お金がなくて自分だけがランチに参加できずコンビニのおにぎりを食べる時、私だったら小さな不幸を感じるが、貧国の子供からすれば、お昼にまともなものを食べられるだけで幸せだと思うだろう。かと言って、私が貧国の子供と自分を比べることによって、自分の小さな不幸を否定することも自分の幸福を認めることもできない。どっちが上でどっちが下とかじゃなくて、私の視野や想像力には限界があるから、近い人と比べてしまうのは仕方ない。私が同窓会から感じた例で言うと、有名大学に受かってすごいとか、知ってる企業に入ってすごいとか。日本にそれを達成できる人が何人いるのか知らないけど、その達成率が高い環境なら、平均年収を稼いでいても劣等感を感じるかもしれない。中学の時、恐ろしい教員が成績不振の生徒に向かって、「ここで自信をなくすぐらいなら自主退学しろ」と言っていたのも、そういう理由からだと今は思う。

優秀な同級生より成功してやる!という野心はないけど、その人たちと比べてある程度“大丈夫な自分”を維持したいとは思ってしまう。それだけを目指しても、きちんと学んで働いて稼ぐことから逃れられない。もちろん根本は考え方の問題(プライドやエゴ)だけど、環境のせいで“きちんと”のレベルが爆上がり、プレッシャーは増大、結果こんな文章を書いている。

ただ、周りと比べて“大丈夫な自分”を維持するために、みんなの目指す成功や幸福を闇雲に求めていいのか?という怖さもある。だってみんなの言う成功や幸福が正しいとは限らないし、私にとって正しいとはもっと分からない。現に、“恵まれている”みんなは、とりあえず有名大学や有名企業を目指して、プレッシャーを与え合ったり、プライドを傷つけあったりしている。それで無意識に馬鹿で貧しい人を不幸だと決めつけたり、〇〇商社だけを崇敬したり。この沼にハマっていくのは面白くなさそう。

比べるのも程々にして、自分なりの成功や幸福を見出せば良いわけだけど、私にはまだ分からない。ただ、多分〇〇商社ではない。いや、けど、今書いたこと全部、頑張れない自分のために予防線を張っているだけなのかもしれない。こうやってブツクサ言っていたら、10年後には同窓会に参加できない“大丈夫じゃない”自分が形成されてしまいそうだ。怖い怖い。

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