海風の悠かに遠く

おじいちゃんが枕元に現れたのは、私が鬱状態に陥り、初めて会社を無断欠勤したときだった。

新卒で入ったその会社は広告代理店で、営業で入った私は昼夜を問わずにかかってくる上司からの怒声と、どう考えても期限内に終わらない作業と、接待でクライアントから受ける執拗なセクハラと、牽制しあう同僚からの駆け引き沁みた嫌味と、そんななんやかんやを休日もなく抱えつづけるのが仕事だった。

でも体育大学を卒業した私にはおあつらえ向きの仕事だと思っていた。とんでもない会社だよと文句を言いながらも、修行だと思って笑っていた。私がどんな状況でも笑ってジョークを言うと上司もクライアントも同僚も笑った。それは自分の才能なんだと思っていた。3〜4年したら営業でつけたコネクションを生かして、小さいけど創造性のある広告制作会社を立ち上げようと夢見ていた。みんなを笑顔にする広告を仕事にしようと思った。

それがいつの間にかひとり限界に達していた。
体調が崩れる日が多くなり、それに伴って周りからのあたりが強くなり、頭が回らない日が増え、普段ならしないイライラが増した。できたはずの仕事でミスが続いた。最初、上司も同僚もクライアントも、そんな私を笑った。そして仕事が回らなくなると、罵声を飛ばした。やる気が足りない。主体性が足りない。性格が曲がっている。笑いで誤魔化すな。

どうにかしようと躍起になればなるほど、周囲の人々のことを憎む自分がいた。そんな自分をどうにかしようと今度は躍起になって、イライラはどんどん肥大して、もうどうしていいかわからないほどになった。

ある日、イライラがスッと心から消え、静かな悲しみが私を包んだ。

優しい、本当に静かな悲しみだった。そして途方もなく大きかった。
砂漠にゆったりと、真っ黒な霧がかかり、雨がシトシトと降り注ぐような悲しみだった。そして砂漠の光景が私の頭に浮かんだとき、私は安堵し涙を流した。泣いたのは数年ぶりだった。これはきっと救いだと思った。

しかしそれを境に、私は部屋でひとり動けなくなってしまった。

会社に欠勤連絡をしようにもなぜか怖くてできず、昼頃から上司の着信が何度も何度もかかってきたが、携帯電話を横目でちらりと見ることしかできなかった。

私のなかの砂漠の雨は、どこまでも広がり続けていった、海を超えて鯨を溶かし、大陸の土を汚泥に変え、巨大な森の木々を包んでは枯らせた。雨はいつまでもシトシトとすべてを濡らし、すべてを冷やし、すべてをゆっくりと腐らせた。腐敗には痛みがあった。物理的ではない、しかしたしかな、耐え難い痛みが私の心をじゅくじゅくと腐らせ、そして刺した。

気づくと携帯の電池はきれていて、窓の外は夜になっていた。どれくらい時間が経ったのだろうか。2日?3日?わからない。とにかく今は深夜なのか、あたりは静かだ。喉が乾き、心臓はずっとバクバクと脈打っており、そしてまったく眠くない。たぶん一睡もしていない。しかし身体は鉛のように重い。動けない。

やらなかった作業と、今週打ち合わせるはずだったクライアントへの迷惑と、怒りが浸透して同僚に八つ当たりしているであろう上司と、そんなことが頭を巡った。リカバリーするにはどうするか。そこまで考えてまた思考は停止した。

おじいちゃんが枕元に現れたのは、そのときだった。

いつのまにか私の頭のところに座り、ずっと向こうを見つめていた。おじいちゃんが見つめる先は海だった。エメラルド色の水平線がのび、そこから大きな入道雲が顔をだし、真っ青な空のカンバスに悠久の時間が描かれていく。潮風が頬にあたった。たしかに夢ではなく、そこには海があった。いつのまにか私は海を見渡す丘の上にいた。

私は寝巻きのまま立ち上がり、おじいちゃんに「どうしてこんな所にいるの?」といって横に座った。おじいちゃんはこちらを見ると、ふむ、といった顔をしてまた海の向こうを見つめた。

おじいちゃんは沖縄の漁師だった。母が沖縄の漁村出身で私は小さい頃、おじいちゃんに会うのが大好きだった。真っ黒に日焼けした肌と、無骨な腕。寡黙な人で海を愛していた。毎日のように真っ青な海へ漁に出ていた。伝統漁法に通じていて、小さな小舟で自分の何倍かある魚を捕らえてきたこともあった。そして生命を尊敬していた。

おじいちゃんが漁から帰るころになると、私は港に座って待っていた。海を見ては水平線のあたりに船が現れるのを待った。

漁から帰ったおじいちゃんは、魚を降ろし、漁の道具を片付けると、いつも私の隣に座ってくれた。私たちはなにも話さずによく海を見ていた。私は海とおじいちゃんのゴツゴツとした手とを見て、すっかり安心していた。そして夕飯の時間になると手を繋いで帰った。

おじいちゃんと一緒に過ごす間、海と空は仲の良い兄弟のようにくっついては、潮を満ち引きさせ、雲を遠くへ流し、魚達に糧を与え、太陽と月を交互に送り出していた。繰り返されるリズムの中に私もいると考えると、とても不思議な気持ちになったのを覚えている。

「私、弱いのかな」

ふと口から言葉が出た。
私が喋るとそれに合わせて海風がぼぉと吹いた。

「そうだな」

おじいちゃんは海を見つめたまま、静かにそういった。私はなぜか心がきつく締め付けられた。目の前の景色が滲み、そしてぼやけてしまった。おじいちゃんが私の頭をなでた。私は結局、悪い子なんだなと思った。

「おじいちゃんも弱い」

優しい声でおじいちゃんがそういった。おじいちゃんが弱い?と私は思った。寡黙で真っ黒な大きな手で、自分の何倍もある魚と獲る彼が弱いとは考えたこともなかった。彼は静かな声で続けた。

「みんな弱い。だから噛み付いたり、身体を大きくしたり、攻撃したり、逃げ足を早くしたり、知恵をつけたり、泣いたり、そんないろいろなことをして、弱いのを誤魔化すんだ」

「ねぇ強くなりたい」

おじいちゃんは少しだけ悲しい顔をした。

「欲張って心に直接触ろうとしないことだ。心は脆く柔らかくて、それでいてマグマのように熱い。生きものが触っていいもんじゃない」

「私、どうしたらいいの」

「生きなさい」

遠くで岩場に波が打ち付けられる音がした。それは私に向けて何かを喋っているように思えた。おじいちゃんは続けた。

「海の先、空の先、そして星の先。悠か遠くをいつも心のなかにとどめなさい。どの今もすべて自分のためにあるのがわかる」

「私、鬱なのかしら」

おじいちゃんはふふと優しく微笑んだ。かまいやしないじゃないか、と言われたような気がした。おじいちゃんが、さて、といった風に立ち上がった。私に真っ黒で無骨な手を差し伸べてくれた。私は嬉しくなったおじいちゃんの手を握り、夕飯の待つ帰り道を歩き出した。

気づくと病院のベッドで点滴を受けていた。連絡がつかなくなってから4日目に、上司から連絡を受けた母親が家を訪れ、脱水症状で意識を失っている私を見つけたらしい。すぐに救急車で病院に運ばれ処置を受けたのもあって、幸い命に別状はないそうだ。体調不良ということで精神的なところは診断されなかった。
上司は両親に罰が悪そうな表情で、心配した風にこちらを見ていた。「ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません」と私が上司にいうと「気にするな。どうにかするのが上の役目だ」とよそよそしく答えた。

おじいちゃんは私が中学生のときに、海難事故ですでに亡くなっていた。夢枕に出るなんて、何か伝えたいことがあったのだろうか。それとも私のこんな状態を見てられなくて、わざわざ天国から来てくれたのだろうか。

病室の窓から外を見る。
ここに海はない。窓の向こうには普通の街があり、普通の家並みがあり、そして空が見える。私の頭のなかには心配そうな両親をどう安心させるかと、仕事のリカバリーをどうするかと、誠実ぶった上司への憎しみがグルグルと回りはじめていた。

また始まった。これはきっとまた同じことを繰り返すのだろう。おじいちゃんのように、簡単にはうまくいかない。どうしたものか。

「おじいちゃんも弱い」

おじいちゃんがふふと笑ったような気がした。
海風の懐かしい香りが一瞬、鼻先を通りすぎた。

私は目をつぶり悠か先にあるものごとについて、静かに考えはじめた。

end.

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