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Vtuberが終わる日、落伍者から見た世界

Vtuberが終わる日というのは、私達がVtuberを名乗る価値が消えた時だ。

*前置き*これは個人Vtuberの話であって、企業Vtuberとは概ね無関係です

先日、このようなツイートがあった。

Vtuberとは何なのか、という定義の問題から始まり、
「自分はVtuberなのだろうか」という不安が現れる。
「Vtuberを名乗る意味はないのでは?」といった疑念が持ち出される。
一方で引用元は「君はそこに存在しているから大丈夫」だと述べている。

実際のところ、これは2020年半ばのVtuberの縮図だ。
一言で「Vtuber」と表したとき、そこに過去のような共通認識は存在しない。
2Dも、3Dも、ただの一枚絵も、プロフに「Vtuber準備中」と付いた只のツイッタラーすらも今ではVtuberだ。そこに二次元キャラクターがあり、簡単なプロフィールがあればすべてはバーチャルだ。「意識低い系」と揶揄される存在が跋扈し、バーチャルとそれ以外を区別して今の世界がある。
バーチャルという肩書きは、既にただバーチャルというムラ社会に入るための通行手形と化している。

どうしてこうなってしまったのか?答えは簡単だ。
界隈はバーチャルと名乗るものを全て「うんうん、それもバーチャルだね」と認めてきた。狐娘の皮を被ったコンビニのおじさん、天使、悪魔、神、その他諸々。やがて属性では飽き足らず、バーチャルという概念すら飛び越えた存在も、名乗るだけで「Vtuber」となった。
たきゅーと氏などが最たる例だろう。
このサムネイルを見て、普通のYoutuberと区別できるだろうか?私には出来ない。

しかし彼が登場した当時、賛否はあれど声の大きい人々に「うんうん、それもバーチャルYoutuberだね」と認められたのだ。
それが悪い事とは言わないが、そうやって様々な「Vtuber」を認め続けて今の界隈がある。

人がVtuberに変わるとき

何故人々がVtuberという肩書きを付けるに至ったか?
これは諸説あるだろうが、私は次の二点だと考えている。

・Vtuberと「リスナー」の壁を飛び越えるため
・「Vtuber」というムラに入ることで注目を集めるため

Vtuberとリスナーの間にある深い溝

Vtuberは基本的に、Vtuber同士でしかコラボを行わない。
場合によってはVtuberでなければリプライに反応しない。フォローを返さない。いいねを押さない。友人として接しない。
これは「Vtuber」と「それ以外」が、「アイドル」と「それ以外」のように隔たれた存在であるべきだという不文律が浸透しているからである。
Vtuberと深いコミュニケーションを取ることに憧れを持った層が「Vの者」「バーチャルツイッタラー」を名乗り出し、あるいはVtuberになった。

Vtuberというムラのメリット

Vtuberになるメリットはもう一つある。

「Vtuberであるだけで、Vtuberファンが寄ってくる」という点だ。

絵と設定を用意してVtuberになれば、宣伝の為に走り回らなくとも数百から数千のフォロワーを得ることが出来る。同じVtuberをフォローすればフォローが返り、新人Vtuberの発掘に精を出す無数のVtuberファンが駆け寄ってくる。同じような一次創作イラストを置いていたとして、Vtuberとそうでない人のフォロー数の差を見た時など悲しみすら覚える。
数ヶ月間ずっと「準備中」と付けているVtuberを見たことは無いだろうか?
例え何も生み出さないとしても、Vtuberであるというだけで価値を得られる。
それがVtuberというムラのメリットだ。
「君はそこに存在するから大丈夫」というのは、そういうことだ。

Vtuberは本来、何らかのクリエイターだった。
雑談が上手いとか、イラストが上手いとか、声が面白いとか、歌が上手いとか、言葉を綴れるとか、ゲームが上手いとか、世知辛いけれど技術はあるとか。

そこに何も生み出さない存在の居場所は、無かったはずだ。
価値のない存在は淘汰されて消えてゆく、そのはずだった。

しかしそうはならなかった。

私達はそういった存在に承認という餌を与え続けた。
無言でゲームをするのを眺めていた。
酒を飲んで友人と無駄話をするのを「てぇてぇ」と呼んだ。
ただただ長いだけの生配信を眺めて、面白さが降ってくるのを待っていた。
「今日は出かけたよ」と切り抜かれた只の日常にいいねを付けた。
「それでいいんだよ」とありのままを受け入れた。

そうして生まれたのが今のVtuberという混沌だ。
Vtuberとそうでないヒトに、一体何の違いがあるのだろう?
そんなものはとっくの昔に無くなってしまった。
ただ皮を被ったオタクが居るだけだ。

もちろん、それが悪いと言っているわけではない。
ただ皮を被るだけで認められる優しい世界は、多くの人を救っただろう。
だからVtuberという肩書きにはまだ価値がある。
Vtuberはまだ終わらない。今はまだ。

Vtuberが終わる日

では、Vtuberが終わる日はいつ訪れるのだろうか?
それはやはり、「Vtuberという肩書きに価値が無くなったとき」だ。

例えば、どこかの雑誌が「Vtuberになれば簡単にヤれる!」なんて書いたとする。そうすると無数の面白くない気持ち悪いおじさんが界隈に溢れる。
そうなれば、きっとVtuberという肩書きは無価値になってしまう。

Vtuberという肩書きの価値は、私達リスナーとVtuber本人が保証している。Vtuberの価値が無くなるのは、Vtuberという肩書きを使う人々からモラルが失われた時だ。それは仮面を被った犯罪であったり、自己顕示欲の暴走だったり、性欲の塊として現れる。

そうなった世界で生き残るには、悪いものと良いものを区別するしかない。Vtuberという肩書きではなく、本質を見るしかない。

Vtuberの本質は創作物だ。最初はそうだった筈だ。
だから切り抜かれた動画は面白いし、絡みから生まれたイラストは尊い。
企業箱を推す時、そこに見ているのは恋愛やコメディやサスペンス、その他諸々の娯楽だ。
私達は無価値に時間と金を使っているのではない。創作物にコストを支払っている。そうあるべきだ。

Vtuberが終わったあとに残るもの

Vtuberという肩書きに価値が無くなったとき、私達はVtuberと呼んでいた存在と対等になるだろう。ネット上の友人だったり、他人だったり。それはそれで健全だと思う。
友人と語り合って、誰と誰が恋をしたなんて噂に心躍らせて、一緒にゲームをする。漫画の感想を共有したり、描いた絵を見せ合ったり。
それをするのに、特別な肩書きなんか何も要らなかったはずだ。だって私達は等しく同じヒトなのだから。

おわりに

私はバーチャル世界の落伍者だ。恥の多い生涯を送ってきた。
私の見ている世界はあなたから見て歪んでいるかもしれない。
だから、これを読んで思ったことは何であれあなたの真実だ。
どうかその真実を大事にしてほしい。

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それでは次の動画でお会いしましょう!

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