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百年の孤独 文庫化に寄せて

はじめに

 Twitterが今年だけで三回凍結された。もう二度とアカウントをつくらないかもしれない。イーロンありがとう、俺の穏やかな居場所、楽しい駄弁り場、一番足の速い情報ソースは役立たずのゴミ溜めになって死にました。
 そういうわけでちょぼちょぼとした情報しかインターネットは僕に与えてくれないわけだが、ここ数日『百年の孤独』に関して非常に盛り上がっている一部の奇特な人たちがいるようで、ちょっとよく見てみると『百年の孤独』が文庫化されるらしい。マジで?ゼミのたびにカバンに投げ込んでボロボロになっているあのデカい本が?小さく軽くなって読めるのか、ありがたい。やっぱり出先で急に読みたくなるときあるしね。ところで妙な話だけど僕は『百年の孤独』の文庫本をこの目で見た記憶がある。他にもそう言う人はいるようだ。
 
 Twitterで盛り上がってる人たちや読書noteとかブログ書いてる人たちが随分と浅薄な読み方をしたりつまらないの一言で片付けたりしているのが目についた。『百年の孤独』をゼミで読み、ガルシア=マルケスについて卒論を書いているこの俺がお前らを正してやろうみたいな間違った正義感がむくむくと勃起してきたので提出期限ギリギリで規定文字数の半分に満たない卒論を放り出してこれを書き始めた。

ガルシア=マルケスとは?

 まずガルシア=マルケスのことをマルケス、マルケスと気軽に読んでいる人が散見された。これはスペイン語の姓名ルールで父方の苗字(父姓)と母方の苗字(母姓)を共に名乗るというルールを無視しているのでよくない。片方しか名乗らない人も最近は多いようだけど、ガルシア=マルケスは古い世代の人だし特に気をつけたほうが良いと思う。彼の生まれたコロンビアは南米新天地では最も正しくスペイン語が残っている土地でもあるし、作家だし言葉の扱いにセンシティヴであるのが読者としての良いアティチュードであるように思う。(これは出典を失念しているので眉唾で記憶に留めておいてほしい程度の話だが、わざとそうやって片方の姓しか呼ばないのは「片親」という侮辱になるらしく、褒めたくて言及している人が対象を侮辱しているというのもおかしな話だ)
 では肝心の作家の話に移ろう。
 ガブリエル・ガルシア=マルケスは1928年誕生の、コロンビア出身の小説家だ。今回話題にもしている、架空の都市マコンドを舞台にした『百年の孤独』をはじめとする、様々な作品によって20世紀を代表する作家として知られ、数々の作家に多大な影響を与えている。ノーベル文学賞を1982年に受賞。活動の拠点はカラカス、パリ、バルセロナ、メキシコ、ボゴタなど複数箇所を転々としている。
 多くの作品の舞台となっているのは出身地であるコロンビア。特に両親と離れ幼年期を過ごしたコロンビア北部の温暖な村、アラカタカで、退役軍人の祖父から聞いた戦争体験や、話好きの祖母や叔母から聞いたその土地に伝来する神話や不思議な話の類いがある。その下地の上に独裁者や戦争といった南米の史実の文脈を踏まえた設定があり、コロンビアの砂漠、ジャングルや沼沢地、高山地帯や大河沿岸といった多様な地形的要因の入り組んだ風景描写が混淆することで強烈な風景を持った読書体験を作り出している。そして奇想天外な出来事が起こることで幻想的な読書体験をもたらす。
 作家の友人も多く、フィデル・カストロとの関係も有名で、社会的に強い影響力を持つ人物であった。コロンビア社会のご意見番みたいな扱われ方もしたそうだ。日本にもそういう作家いましたね。
 ガルシア=マルケスと日本の関わりで言うと、映画好きのガルシア=マルケスは黒澤明が大好きだったそうで、来日した時の第一声は「いつクロサワさんに会えますか?」だったそうだ。ガルシア=マルケスと映画の関わりでさらに話すと、寺山修司が『百年の孤独』に感動して映画を作っちゃったんだけど、本人が嫌がったのでエージェントを通してから申し立てがあり、タイトルを『さらば箱舟』に変えて上映したそうで。まあ詳しくは調べて見てください。
 ちなみに高卒。後年名誉学位を受けてはいるものの、若かった当時通っていた大学は辞めている。ボゴタ暴動との関係もあったけど基本的には作家を志望してぶらぶらしていたそうで、なんとも……
 ガルシア=マルケス、それは「マジックリアリズム」とかいう面妖なジャンルというか文学用語との関連でよく語られる名前だ。正直なところ「マジックリアリズム」って「シティポップ」とか「マックのJK」とかと同じレベルの観念な気もする。カッコ付きで扱いましょう。詳しくは後述します。
 新聞や雑誌に記事を書いて生活していた時期が長く、不遇の長かった人だ。午前2時か3時に仕事を終えてから執筆をする、といった日々だったようで、しかも煙草を1日40本吸っていた。特に泣けるのは『大佐に手紙は来ない』という作品を出した頃で、本当に貧乏で地下鉄の切符も買えなかったしゆで卵をめちゃくちゃ寒い窓辺に吊るして保存して、何回もスープの出汁を取るのに使ったりしていたらしい。

マジックリアリズムとは?

 マジックリアリズムについて話をしよう。
 まず日本で、文学におけるマジックリアリズムという言葉が知られるようになったのは60年代の欧米(特にフランス)におけるラテンアメリカ文学の一種のブーム、それに呼応して大江健三郎、安部公房、寺山修司や筒井康隆などが大きく影響を受け紹介する流れがあったところからだろう。

 パイオニアとしてキューバのアレッホ・カルペンティエールやグアテマラのミゲル・アンヘル=アストゥリアスなど、欧州での生活の中でシュルレアリスム(超現実主義)、ノイエザッハリヒカイト(新即物主義)といった表現形式に触れて帰国した作家によって前衛的モダニズム(モデルニスモと呼びたいところだけど別物)の運動としてその表現が南米に持ち込まれ、それがカリブ沿岸地域の土着性や旧宗主国から現在(当時)に至るまでの時間的流れ、途絶えることのない独裁者といった南米に特有の歴史的諸現象と融合して、いわゆる南米文学のマジックリアリズムは形成されたと言えるだろう。
 ボルヘスは違うの?と聞かれれば違うというのが答えになる。ボルヘスの活躍はこの成立よりも古いので、マジックリアリズムの作家としてというよりはその下地になるような作風の確立という方向性で評価するべき人だ。
 より後発の作家でナイジェリアのベン・オクリやインドのサルマン=ラシュディ(最近頭のおかしい人にナイフで刺された)といった名前も魔術的なリアリズムを駆使していると言われるが、このことはマジックリアリズムが南米に固有の表現形式やジャンルではないこと、しかしその源流として今日の世界文学に大きな影響を及ぼしていることなどが明らかだろう。それでもやはりマジックリアリズムというのは南米の、あの暑い風、ムンムンとする土の香りと不可分だろう。メキシコに吹く熱風!とか。

 そんなマジックリアリズムを特徴づける要素を以下に述べる。
 まずは現実的なトーンの中に空想的な出来事を描くこと。寓話、民話、神話を現代の社会と関連付けること。登場人物に与えられる異常に長生きだったりめっちゃでかつよだったり気が狂ってたりする非現実的特徴は、幻想的な現実を包含する。現実世界に非現実の要素が存在することが、その基礎となる。そうした表現の中で、魔法のような出来事は作者によって作り出されたものではなく読者のいる世界にすでに存在している。「非現実が当たり前に起こる」南米だからこそ描かれる光景だ。
 そしてそれは詳細に記述されたフィクション内部における現実的出来事が、非日常そのものの出来事と相対したときの(読者の)反応を前提としつつ、それを無視することで作り出される。つまり筆者は「架空の世界(作品内部)」での非現実的出来事についての情報付加や説明を、意図的に行わない。説明の欠落によって強調される非現実的出来事はあくまで普通の出来事として提示され、読者はそれを受け入れる。

 読者が架空の物語を読みながらその中に入り込むことと、テキストの作中世界が読者の世界に入り込むことが同時に起こり、相関的にフィクションとリアルが実際に溶け合う。 超現実的な領域が詳細に設定され丹念に記述されることで、作品内部に作り出された現実と二元的に融合する。
 マジックリアリズムは半ば必須的に「社会、特にエリートに対する暗黙の批判」を含んでもいることも南米の様式として考えるなら重要な要素だろう。主要な産品はコーヒーと麻薬と独裁者、というような土地だから。

『百年の孤独』とは

 ガルシアマルケスは数々の長編を残しているが、その中でも『百年の孤独』は他と比して別格の存在であるといってもいい。その理由はその圧倒的文量と完成度、また発行部数とそれに付随する知名度だけでなく著者自身の、ひいては南米文学の世界的な知名度と名声を高めたことにあるだろう。その商業的成功を以って1960年代の南米文学ブームの火付け役とする見方もある。 筆者が『百年の孤独』執筆を開始したのは17歳の当時に遡る。作品の根底にあるのは祖母から聞いた昔話であり、その文体、筆致は祖母から聞いた昔語りのそれを継承しており、筆者は自分が聞いたように我々読者に語る。 
 マコンドはどこにでもなり得てどこにもない場所として、全て読者の前に現れる。舞台となるのはカリブ海沿岸地域の新天地マコンド、一族の開拓した土地だ。特にアウレリャノ=ブエンディア大佐と関わる場面で繰り返し言及されるが、自由党と保守党の内戦とマコンドが無関係でいることはできなかった事実は、史実においてコロンビア全土を包んだその激しい対立が作品に織り込まれているし、アウレリャノ・ブエンディア大佐が自由党のゲリラとして戦ったことは作者自身の祖父ニコラス・リカルド=メヒーア大佐を彷彿とさせる。
ユナイテッドフルーツ社のバナナ農園建設による好景気とそれが去っていく様、そしてそれによる町の没落はアラカタカに起こった史実をそのまま作品に書いている。

 ともかく長いこと(僕の持っている版で431ページある)や、登場人物の名前が分かりにくいことくらいはこのnoteをわざわざ読んでいる人なら承知のことと思うが、その家系図の整理はここでは行わない。アルカディオが5人、アウレリャノが20人以上も出てくるのでそんなことをしていたら気が狂ってしまう。ウルスラ=イグアランというおばあちゃんが最初から出てきてかなり終盤まで生きていることとアウレリャノ=ブエンディア大佐が重要なことくらいを頭に入れておけばだいたい大丈夫だ。
 登場する女性たちの、ウルスラ=イグアラン、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダ、フェルナンダ・デル=カルピオといった名前は筆者の祖母や叔母の名前を解体して作られた名前で、複数人登場するホセ=アルカディオとアウレリャノたちは作品の円環的時間と、同じ名前の人間が何名もありふれている南米の現実を同時に示している。つまりマジックリアリズムなのだ。現実との溶け合いでマコンドの人たちは作られている。
 ガルシア=マルケスの名前はガブリエルなのだが、彼の弟にもガブリエルがいる。つまり一家に2人ガブリエル・ガルシア=マルケスがいたのだ。南米とはそういうところなのだ。そもそも我々の東洋社会と彼らの西洋社会では名前の意味というか重みがずいぶん違う。だから人物の名前と行動を一致させることよりも今読んでいるページで何が起こっているのかに向き合った方が良い。その方が面白い。そういう、作品のグルーヴに身を委ねるような読書体験ができる作品は多くはないと思う。
 男と女の物語という側面も持っているこの作品では、男はいつも動き回り、こだわり、何かをしようとしている。世界をどこかへ動かそう、明日に何かを働きかけようというエネルギーがあり、女たちは家を、居場所を作り守っている。これは始まりの夫婦にその役割分担が端的に表現されているが、『百年の孤独』の世界ではそんな風にして男女が生きている。どちらが正しいんだろうか。現実にもそうだろうか。

 さてこの物語の主役たるブエンディア一族は〈この一族の最初の者は樹に繋がれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる〉とされ、待ち受ける滅びまでの百年の孤独を宿命づけられた人々として描かれており、家族としての慈しみや縁を互いに持つという以上に、婚姻や恋愛をめぐる諍いや豚の尻尾(近新婚で生まれた子は豚の尻尾が生えていて家を滅ぼすことになっている)への恐怖からのぎこちなさを抱えている。それでもなお一族がバラバラにならなかったのはウルスラ=イグアランが屋敷を手入れし皆の食事を用意するからであって、家を守る女性の存在が非常に重要になっている。事実彼女の死からブエンディア家の屋敷は急激に劣化していく。ところで作中での経過時間は本当に正確に100年なのかは作者もわからないらしい。

 ブエンディア一族は何度か言及している一家の支柱ウルスラと、錬金術にハマったり地球が丸いことを発見したりと数々の奇行で知られ、後に完全におかしくなったので栗の木に縛り付けられることになるホセ=アルカディオを始祖として生まれてくる子供達と婚姻によって広がった家族だが、この血縁について考える際はその出生に注目する必要がある。愛を持って生まれてきた者は悲劇に逢い、そうでない者は愛が手に入らない孤独の苦しみと共に生きている。人間一般に敷衍できる根幹的苦しみとしての愛と孤独を一手に引き受けるかのような一族だ。
  一族はその内部で孤独なだけではなく、ジプシーのメルキアデスをはじめマコンドの住人など友人や親しい関係の他者との地縁も描かれる。しかしそれもマコンドと共に崩れていく絆だ。

 繰り返し描写されるマコンドの地理描写は実際の地図や写真を見ながら想像することでよりそのリアリティを増して現前するし、継承されてきた南米の歴史そのものと呼応するようなマコンドの歴史には、筆者の個人的な交流に基づいて造形された人物が過剰なほど多数登場するが、彼ら彼女らは皆カリカチュアされた通俗の人間であり、読者はそこに身近な誰かの影を見出すことができる。

個人的に

 もう内容がとかマジックリアリズムがとかどうでもいいんだよね。この小説はともかくカッコいいしグルーヴがやばいから。まずみんな名前がかっこいい。これは重要なことだ。
 ブエンディア家の背負う宿命は誰もが共感できる悲哀で、つまりこの小説はごくありふれたテーマに基づいた作品だ。それは要するに、愛されたいということだ。なので『百年の孤独』が長すぎるという人はフィッツジェラルドの『ギャツビー』とか『バビロン再訪』とかを読んでもいいと思う。
 一番欲しいものは手に入らない、それがわかったときには全てはもう手遅れ、それがこの小説の骨子だろう。
 その太い骨組みの上で短いエピソードがどんどん展開されていく。長い小説だけど無理して一気に読む必要はなくて、だいたいどこから読んでも大丈夫だ。
 好きではない人もいるだろう。もっと落ち着いた作品が良いとか、内面への深い試作が読みたいとか。

 僕が今思っているのは文庫本になって手に取りやすくなったら、ただこれをたくさんの人に読んでほしいということだけだ。うだるように暑いマコンドのどこか暗く埃っぽい屋敷を見てほしい。不眠と忘却に犯されたマコンドでのメルキアデスとの再会、アウレリャノ・ブエンディア大佐の30回を超える内戦と敗北、レメディオス・モスコテの愛らしさ、プルデンシオ・アギラルとホセ・アルカディオ・ブエンディアの再会、ホセ・アルカディオの血痕の行く末、ウルスラの愛ある母としての強さ、いじましく強かなピラル・テルネラ、レースを編む死の予感、内乱のマコンド、歩き回る幽霊、昇天する小町娘、どこまでも続くバナナを運ぶ列車、蝶に包まれた美女、終末のアウレリャノが読む羊皮紙に記された恐るべき歴史を、もっとたくさんの人が読んでほしい。


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