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祈りは答えられる(追記あり)

ラファエルに教えてもらってから、目的(願望)を明確にし、時間が来るたびに祈ることを繰り返している。

以下、その後の知覚の変化などについて、記録を残しておきます。
(闇が取り消されるために湧き上がる時も、こういうのを読み返すと、信頼と希望を思い出せるので、積極的に記録しておきたい)

五井先生からの「よくやったね、ありがとう」を受け取って、感謝にまみれて以来、
「聖霊からのありがとうを受け取ります。」というのを忘れずに一時間に5分間の祈りのなかで伝えるようにしています。

他にも祈りはあり、その時々で「私がほしいのはこの感覚です」をJesusにお伝えしていますが
「ありがとう、よくやってるね」を感じたいです。
というのは毎回忘れずにしつこく言い続けています。


これのやつ。

数日前にSくんと散歩に行った時
途中差し掛かった橋から見下ろした川に流れ込む水音が【ありがとう。ありがとう。ありがとう…】と絶え間なく語りかけてくる
という感覚がありました。

また、シャワーを浴びているときに
体に触れる水の全部が「ありがとう、ありがとう」と言いながら降ってくる感じで
シャワー浴びてるだけなのにうれしくなりずっと笑っている
ということが起きました。

そういうとき、
肩の力が緩んで体の力が抜ける。

さらにそれが深くなると
体の境界線が無くなりそうな感じになります。
これは、圧倒される感覚で
ちょっと言葉で説明するのは無理です
(言葉の解像度の粗さに体験が追いつかないというか、とにかく本当じゃない感じになる)
もしかして、奇跡講座仲間の人たちがあんまりブログを更新しない理由のひとつは、体験が圧倒的すぎて言語化できない(する必要がない)からなんじゃないか?
と思っています。
嘘書けないからなのかな。

とはいえ私は闇落ちしたときの自分のために、「この喜びは本当だった」と思い出させるために、なるべく書き留めておきたい。
自我は、苦痛の記憶ほどよく覚えておこうとするから、喜びの記憶をなかったことにしようとする心の誘惑を防ぐ手立てになるかもしれん。

……

お料理ファンクションのときも
揚げ物なので油ハネが気になるなと思っていて、Sくんにそれを伝えたら
その前日に「油ハネ防止の網蓋」を買ってくれて、

鶏肉約2キロ分も揚げたのに、キッチンがほとんど汚れなかった!

何より、その日は彼に奇跡講座の概要をなぜか話すことができました。

彼は映画インセプションが好きなので、ひと通り私の話を聞いた後
「インセプションやね」
とコメントをくれました。

「私の人生のテーマは一貫して『赦し』だったし、昔書いた小説も赦しがテーマだったけど、以前の私は『被害者と加害者が世界には存在して、被害者が加害者に「私はえらいからあなたを赦してあげます、でもそっちも反省しろよ」とどこかで思いながら赦す』のが赦しだと思っていた。

でもホントはそれはちがう。

被害者も加害者も全員、【夢を夢見るもの】である、ひとりの私の心から投影された演技をしてる映画なんだ。
あなたは私の夢の中の登場人物で、私はこの夢から覚めたい。

そのために、毎回『私はももこではない、夢を夢見るものなんだ』というアイデンティティに立ったところから、イエスに助けてもらって、これが間違った知覚だとわからせて欲しいって赦しを祈るんだ。
これは机上の空論ではなくて、本当に怒りの記憶がとぶんだ。
そういう神秘体験みたいなやつを、私は何度も体験してる」

と言ったら、Sくんはふふふと笑っていた。

私は映画の登場人物であるSくんを納得させる必要は全く無いけれど
彼の奥にいる神の子に誠実でいたい。

自分が何を考えて生きているのか、
家族に秘密を持たずにいたい、という気持ちが日に日に増していて
五井先生からありがとうと言われた話も、献身滞在の翌日に興奮して彼に話している。

この日も、彼が否定せずに聞いてくれたことがありがたかった。

「全部noteに書いてる。250記事以上、心の遍歴について書いたやつをこないだフォルダ分けして整理したとこ」
と言ったら、
「読みたい」と言うので

「私は君のnoteをフォローしてるんだから、そこからとんでよ」
と返したら
「わしのフォロワーたくさんおるから、探すの大変だもん」
と言われた。

積極的に「このnoteだよ、読んでよ」と言うのもなんだか違う気がしたから
本気で読みたけりゃフォロワー遡って探すだろうと思って、それには返さなかった。
(防衛かもしれない。ガイダンスを感じたら教えることになると思う)

実は、「信仰(自分が一番大切に感じていること、本音)について夫に正直に話す」というのは、私にとってひとつの癒やしのシンボルだ。とても勇気が要る。

子供時代、母は教会の奉仕活動にのめり込んでいたけれど、父からそれを止められないためにかどうかわからないが、私たちに「教会の悪いところを言わないように」と口止めしていた。
私はどんなに教会でしんどいことがあっても、父に対して教会に関する耳障りの良い話だけを語っていた。

私はそれ以来、「本音(信仰)の話を父(夫)にしても、私を理解してくれない。否定されて止められる。相手にとって不快でない情報を選別して伝える必要がある」とどこかで信じているようだ。

要は不信感だと思う。

家庭内で、長期単身赴任していた父だけが、どこか「外の人」だった。

私は父のことを「本当の情報から遮断されないといけない、家族から忖度され嘘をつかれている人」として見ていた。

親友たちには、なんのストレスもなく奇跡講座の話もどんどん話せたのに

信仰についてだけ、パートナーを自分の外に置いておこうとしてる自分の心の動きは、そのまま父との関係が投影されていると思う。

真ん中のフライパンのフタね。大活躍


ブルーベリー煮る、クツクツ音も感謝に聴こえる。


寝る前、みっちゃんが真剣な顔をして私にやってきて、

「ママは今日、世界で一番よくやったんだよ。
赦しをやって、たくさんお料理して、とってもえらいんだよ。
世界で一番だよ。
みっちゃんが、ありがとうって言うね。
いつもありがとう」

と言ってくれました。

世界一とは大きく出たね。
と思ったけど
よく考えたら
「私しかいない」なら、と思い直して、ありがとうにありがとうしました。

みっちゃんからの手紙はその翌朝にもらったやつ

お祈り立てに入っていた


この数日に感じてたことをまとめてみた

【追記】
Sくんのnote(写真アカウント)にある写真を、次の記事のタイトルにしたので、彼はそこから私の祈りや他の記事を読むかもしれない。

彼がウクライナ出張中に撮った、美しい聖堂の写真です。
なお、彼はそのときJesus(読みはヘスス)という名前の上司のもとで働いてて、親しくなった同僚には元牧師がいたらしい。なんだかおもしろい。

私のお祈りの文章は机の上の写真立てにも書いてあるし、今更家族に隠す必要はない気がしてきた。

自我は、隠されたものを恐怖で支配することは出来るが、あらわにされたものには力を与えられない。

彼との間に、秘密を持たないでいたい。
神との間に、恐怖を挟みたくないから。

私は彼を愛しながら、同時に恐怖(見棄てられる、嫌われる、拒絶される可能性)を感じる、という矛盾から、可及的速やかに自分を救いたいと感じている。

私と彼との関係は、私と神との関係のシンボルなのだと思う。


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