二人静1

玉三郎と児太郎の「二人静」

日本舞踊にも能楽にも詳しいわけではないが、あえて素人談義を試みよう。歌舞伎座の10月公演で、玉三郎と児太郎の「二人静」を観たからである。もちろん、ストイカの番外編である。

覚えていますか。「難破船」や「Desire」などで燃え尽きてしまった中森明菜が、市川昆の映画『天河伝説殺人事件』の主題曲(松本隆作詞)をカバーして「二人静」と題して歌っていた。主演の岸恵子の二面性、美女と般若を匂わす「あやめたいほど愛しすぎたから」「添い寝して永遠に抱いてあげる/いい夢を見なさいな、うたかたの夢を」という歌詞が耳に残っているが、作詞家がオリジナルの能の曲「二人静」を知っていたとは思えない。

無理もない。映画で「二人静」を舞うのは、能の宗家の跡目を争う異母兄妹が稽古しているシーンだけで、あとは「道成寺」の釣鐘落としなどだから、市川昆も単に能を意匠として採り入れただけで、とりたてて「二人静」を土台にした脚本を考えていたわけではなかったろう。むろん、玉三郎と児太郎の「二人静」は能が下敷きである。

しかし、こちらは源義経に吉野で別れた静御前の霊が、若菜摘みの里の女に憑いて、二人で「相舞」を舞うという曲だけに、能面をつけた演者二人が呼吸を合わせるのが難しい(能面の小さな目の穴から見た視野は狭く、どうしても所作がずれる)ため、明治の宝生九郎知英が廃曲にしたこともあるという。そこで「相舞」をできるだけ減らそうと、静御前を橋掛かりの前で床几に座らせ、静が憑いた里の女にひとり舞わせて、最後に二人で「相舞」するという「立出之一声」という江戸中期に観世元章の演出がよく行われる。

歌舞伎座では1963年12月公演で、七代大谷友右衛門と二代中村扇雀が演じているが、こちらは萩原雪夫原作で、頼朝役に八代目沢村宗十郎や侍女が大勢出てくるなど、かなり歌舞伎化した演出だったらしい。歌舞伎公演データベースで見るかぎり、これは一度きりであり、今回は原曲にもっと近づけ、能舞台の鏡板を思わせる老松の背景や囃子方をそろえている。ほかに竹本や長唄囃子連中、さらに舞台途中で背後から筝曲方がせりあがってくるなど、邦楽総出のような凝った音楽を奏でていた。

玉三郎も児太郎も面をつけるわけではないから、歌舞伎版は存分に「相舞」ができるはず、と思ったが、おそらく二人も感じたであろう難しさは、静御前の霊が、里の女にとり憑くという霊肉の交感を、女形が「相舞」でどう演じるかということにある。おそらく女形の芸を後代に伝えようと意識し始めた玉三郎が、自ら児太郎にとり憑くかのような重ねあわせがそこに生じ、観客もそれをスリリングに感じられるかどうかが試されている。

能の原曲では、神事である若菜を摘む里の女(児太郎)に、だれとも知れぬ女(玉三郎)が声をかけ、「わらはが罪業のほど悲しく候へば、一日経を書いて、わが跡弔ひてたび給へ」と社家に頼んでくれと迫る。名を問い返すと、「もしも疑ふ人あらば、そのときわらははおことに憑きて、詳しく名をば名のるべし」と言いおいて、かき消すように消えてしまう。

里の女は神社に帰って、神職にことの次第を説明するが、「まことしからず候ふほどに」と口にした途端、声が変わる。「なにまことしからずとや、うたてやな、さしも頼みしかひもなく」と静御前が憑依しているのだ。ここが難しい。ここからは『ブレドランナー2049』のように、Kの家庭用AI、ジョイと別の女が重ねあわされながら微妙にずれることになる。

神職は「言語道断、不思議なることの候ふものかな、狂気して候ふはいかに、さていかやうなる人の憑き添ひたるぞ名を名のり給へ」と問い返す。しかし児太郎はどうみても狂気のトランスに囚われたようには見えなかった。後ろにいつのまにか現れた玉三郎が控えているからで、「つつましながら我が名をば、静かに申さん恥ずかしや」とこたえてはじめて、静御前の名をほのめかす。それなら静御前は舞の名手だから、ここで舞を舞ってみよ、と言われ、先に舞台袖に音もなく退いていく玉三郎を追うように、白拍子の衣装を捧げ持つ児太郎も退いていく。ここが問題だった。歌舞伎座の舞台は幅広すぎて、能の橋掛かりより距離がある。能では義経が落ちて行く次第が語られて間遠に感じられないが、歌舞伎はそこを端折っているから、児太郎はしずしずと退いてはいられず、どうしても小走りに退くかに見えてしまう。

そこで観客は憑依のトランスを破られる。琴などのサウンドでもそれをカバーできない。やがて現れた白拍子姿の二人は、能よりもはるかに息の合った「相舞」を舞うのだが、扇を返す手や、袖をふりあげる腕の動作などどうしても年季の入った玉三郎に目を奪われて、二人には見えない。児太郎は所作が固く見えて、師匠に手取り足取りで懸命についていくかのように見える。能では二人の名人の所作が微妙にずれるのを楽しむ演出もあるというが、ここではあまりに玉三郎が圧倒的で、憑かれて操られる里の女の二重写しが浮かんでこない。立出之一声で「相舞」になった二人が相対し、縦に並んで静が里の女の肩にそっと手を置くように、玉三郎が片手を児太郎の肩に触れた瞬間、ようやく二人が一人になった気がした。

二人静2

つくづくこの曲は難しいと思う。

これは役者が役に乗りうつられ、他者を演じるというより、いつしか他者を演じさせられることに通じている。児太郎もおそらくそう思ったろう。能の「二人静」の最後は、こんなリフレーンで終わる。

静が跡を弔(と)ひたまへ、静が跡を弔ひたまへ。








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