三顧の礼は史実か1

三顧の礼は史実ではない?

近年、三顧の礼は史実ではなかったと疑う論者が存在する。以下4つの論拠が挙げられている。


①当時すでに著名な将軍であった劉備が、二十歳も年少の何の実績もなく書生に過ぎない孔明を三度も訪ねるであろうか。
②逆に孔明も劉備のような著名な人物に三度も訪ねさすような無礼をさせるであろうか。
③孔明にとって劉備は自分の才を十分に発揮させてくれる人物であり、孔明が劉備に仕えたかったのは明白である。それなのに孔明が単に待つだけという行動をとったのは不可解である。自分から劉備にアプローチしたはずである。
④話がうまく出来すぎていて虚構の匂いがする。

以下それぞれ論じる。

①劉備の動機


①の劉備の動機から考察する。劉備の側に三顧の礼をとってまで孔明を迎える動機があったかどうかである。当時の劉備の状況を考察する。裴注の『九州春秋』に次の記述がある。

劉備が荊州に居住するようになって数年たったころ、あるとき劉表の酒宴の座から立ってかわやへ行き髀に肉がついてきたのを見て悲嘆にくれて涙を流した。席に戻ると劉表はいぶかしんで、劉備に質問すると、劉備は「私はつねに馬の鞍から離れませんでしたので、髀の肉はみな落ちておりました。いまはもう馬に乗ることもありませんので、髀に肉がついてきました。月日はあっというまに過ぎ去り、老年も近くなりましたのに、何の功業も立ててはおりません。それゆえ悲しんでいるのです」と言った。
『蜀書』先主伝引注『九州春秋』ちくま学芸文庫

いわゆる有名な髀肉の嘆である。劉備は二百一年から二百七年にかけて劉表のもとに居候であった。かなり長い期間である。類推適用を行うと、劉表のもとにいる期間、劉備は同じ内容で常に悩んでいたと推測できる。状況を考えればある意味当たり前である。

その時期、ライバルの曹操は袁氏を追討し中原を平定し、覇道を打ち立てている時であった。それに比べて、自分はもう年なのに何の功業もなく劉表のもとに居候になるだけで、無為に時間だけが過ぎていく。劉備が悩んでいたというのは当然ですらある。

後世の我々とその時代を生きた人々との決定的な違いは歴史の結果を知っているかどうかという点である。我々は歴史の結果を知っているため、該当の髀肉の嘆の記述を読む際も、その後の劉備の飛躍を予想しながら読む。しかし劉備はその時、自分の後の飛躍を当然ながら知らない。自分は何の功業も立てずに人生を終えてしまうかもしれない、と本気で深刻に悩んだはずである。

その数年間、おそらく曹操と自分を比較して自分に何が足りなかったかを真剣に考えたであろう。比較の相手は覇業を打ち立てつつある曹操であったはずである。そして劉備が正しく反省しえたとすれば、結論は当然、知者を用いるかどうかという点であったであろう。知者を多く抱える曹操が着実に大業を打ち立てているのに対し、劉備の事業は一貫した戦略が欠如し失敗の連続であった。

実際この時期以降、劉備は徐庶、孔明、龐統ら知者を重用するようになっている。書生に過ぎない孔明を三顧の礼で迎えるというのは、確かにそれまでの劉備ではありえない行動であり、劉備の動機という点から三顧の礼を疑う論拠には一定の理由があると考える。しかし髀肉の嘆以降、劉備の考えは大きく変化しているのである。劉備の考えの変化は劉巴伝からもうかがえる。以下引用する。

劉表がなくなり、曹公が荊州を征討し、先主が江南に出奔したとき、荊・楚の士人たちは、雲のごとく彼に付き従ったが、劉巴は北方曹公のもとへ赴いた。曹公は召し出して掾に任命し、長沙郡、零陵郡、桂陽郡に帰順を呼びかけさせた。ちょうど先主がこの三郡を攻略したため、劉巴は復命することができなくなり、遠く交趾におもむいた。先主はそのことをひじょうに残念がった。
『蜀書』劉巴伝 ちくま学芸文庫

劉巴が自分に仕えず交趾におもむいたのを残念がったという記述である。
裴注の『零陵先賢伝』に次の記載がある。

劉備は成都攻撃にあたり、軍中に命令を発して、「劉巴を殺害する者があれば、三族に及ぶまで死刑に処す」と述べ、劉巴を手に入れると大変よろこんだ。
『蜀書』劉巴伝引注『零陵先賢伝』ちくま学芸文庫

注目すべきは劉備が知者である劉巴を重要視している点である。それ以前の劉備ではそのような記述はほとんどない。それ以前にも陳登・陳羣とも交流があったようである。確かに例えば劉備と陳登はそれぞれ評価しあっていたという資料もある。しかし劉備が陳登・陳羣を重用したという記述はない。陳登・陳羣のがわでも劉備を慕って仕え続けようとしたという記載もない。劉備が彼らを失って残念がったという記載もない。彼らは劉備に重用されなかったと考えるべきである。やはり髀肉の嘆以降、劉備の考えは変化しているというべきであろう。

当時、劉備は自分の人生が終わるという深刻な悩みが骨の髄までしみていたはずである。そして智謀の士の必要を深く認識していたはずである。孔明を訪ねた時に「天下に大義を浸透させようと願っているけれども知恵も術策も不足している」という劉備の発言があるように、智謀の士が必要だと劉備は深く認識していたと考える。さらに孔明が劉備に仕えた後について諸葛亮伝に次の記述がある。

こうして諸葛亮との交情は、日に日に親密になっていった。関羽や張飛らは不機嫌であったが、先主がなだめて、「わしに孔明が必要なのはちょうど魚に水が必要なようなものだ。諸君らはもう二度と文句を言わないでほしい」と言った。
『蜀書』諸葛亮伝

天下三分の計を説いた後の状況であるが、類推適用を行うと、おそらくその間孔明は劉備に対して、天下三分の計を発展させた内容、要は長期的戦略やそれを実現するための中期的戦略さらに具体的な戦術を語っていたのではないかと思う。そして「知恵と術策」を渇望していた劉備は孔明の戦略が魚にとっての水のように貴重だと感じたのである。


劉備が髀肉の嘆の時期を通して、いかに智謀の士と一貫した戦略の重要性を深く認識していたかがわかる。以上のように考えると劉備の側では書生であっても評判は高かった孔明に対し三顧の礼を尽くす動機は十分にあったと考える。


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