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「日本初の英語教師」ラナルド・マクドナルド

大河ドラマ「青天を衝け」第三話で思いがけない人物が紹介されてびっくりしました。「日本初の英語教師」ラナルド・マクドナルドです。

彼のことは吉村昭の『海の祭礼』を読み、興味を持ちました。

ラナルド・マクドナルド(1824〜1894)は鎖国中の日本に自分の意思で密入国し、日本人に英語を教えた人物です。

アメリカを「開拓」していたイギリス人の父と、ネイティブ・アメリカンの首長の娘の間に生まれたラナルドは、白人社会になじめずにいました。いつしか憧れるようになった日本をめざし、捕鯨船に乗りこみます。日本に近づくとその場で小型ボートを購入、北海道の焼尻島に一人上陸しました。そこでは人に会えず利尻島へ移動、和人にみつかり松前、次いで長崎に送られます。長崎では幽閉の身でありながら、アメリカ船に引き渡されるまでの半年間、オランダ通詞たちに英語を教えることになりました。ラナルド24歳のことです。そこで学んだ28歳の森山栄之助は、のちにペリー来航時に通訳を務めるなど日本の開国に貢献しています。

私がラナルドに親近感を抱いたのは、生き辛さを感じた新興国アメリカから日本をめざすきっかけでした。

マクドナルドは、白人の蔑みにみちた視線を意識するにつれて、日本は崇高な地として夢みるようになった。自分たちインディアンを差別する白人たちは物欲に左右されているが、それとは対照的に多大利益をもたらす西欧人との交易をかたくなに拒みつづけている日本人が、精神生活を至上のものと考え、自分を差別することなく温かく迎え入れてくれる人種にちがいないと思った。(吉村昭『海の祭礼』)

180年近く経っても状況が変わっているとは言えません。アジア人差別がさらに助長されていることは悲しいことです。

ちなみにマンガ『風雲児たち』にラナルドは登場しませんが、ペリーやプチャーチンに対応する通詞たちの活躍の裏にラナルドが関わっていると想像すると痛快です。徳川幕府も決して無為無策で右往左往していたわけではなく、英語を学ぶ必要性を感じ、努力はしていたのです。

『海の祭礼』では、ペリーの貿易要求に対して幕府の責任者林大学頭が応える場面もしびれます。

「たしかに、交易は、国に利益をあたえるものではありましょう。しかし、元来、わが国は、自国に産出する物のみによって十分に足り、外国から物品を運び入れなくとも、少しも事欠くことはありませぬ。それ故、交易はいたさぬ定めになっており、この国法をただちに廃することは到底できませぬ。使節がわが国に参られた御役目は、人命を重んじ船を案じて航海をさせることにあり、それらの儀が、ここに解決したのでありまする故、御役目は十二分に果たせられたはずと存ずる。交易の儀は、利益うんぬんのことであり、人命とは縁なきこと。これで御談合はすべて相済み申したのではないか、と存ずる」(吉村昭『海の祭礼』)

焼尻島へ

歴史上の人物に惚れて縁の地を訪ねる「風雲児たび」。もちろんラナルドもおっかけました。

2018年春に訪れた長崎では諏訪神社近くで顕彰碑をみつけました。ラナルドと森山、師弟仲良く並んでいました。

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そして2009年に小説を読んでから十年越し、2019年夏に焼尻島へ行くことができました。雑誌やネットで見ていたのですが、上陸の場所にトーテムポールがあるはず。港で自転車を借りて早速向かいました。

ところが、その地にトーテムはありませんでした。

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看板はありました。その横に不自然な石が。柱状のものをさす土台に石の蓋がされていました。ここにトーテムポールが立っていたのでしょう。

看板の地図にあった上陸地点も行ってみました。180年前から変わっていないであろう景色でした。一人上陸したラナルドは何を思ったでしょうか。

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羽幌町焼尻郷土館(旧小納家)に寄りました。風呂場にトーテムポールの残骸らしきものがあるではないですか。

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郷土館の人に話を聞きました。トーテムポールは地元の小学校の行事として作られたもので、これが上陸地にあったものではないであろうと。

旅館の人も言っていました。以前はトーテムポールが立っていたが、木が腐って倒れそうなので撤去したはずだと。

記念碑を作るなら石かブロンズにしてほしいですね。

いずれにしても焼尻島でロマンを感じることができました。冒険心を持った若者が海を越え、北の小島におり立ち、その人物のルーツを象徴するオブジェを後世の人が立てた。時を超えて精神を受け継いでいく意思が尊いです。

彼の記念碑は利尻島とオレゴン州アストリアにもあるとのこと、いつかそこも訪れたいものです。

アメリカに帰国したラナルドは、米議会で日本には高度な文明社会があることを報告し、のちの対日政策に影響を与えたと言われています。ペリーが来航し、日米が和親条約を交わした五年前のことです。

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