20190907_夜桜の星_表紙

夜桜の星

その桜色の星は、太陽から数えて三番目のところに浮かんでいる惑星です。
 惑星ですから、自分で光ることもなく、ある日突然どこかへ飛び去ることもありません。ひとつきりの衛星といっしょに、楕円に伸びた軌道の上を、規則正しく巡っています。
 ふちの毛羽立った手毬のような、小さい丸い惑星です。宇宙の暗闇から見てみれば、縁日の袋からはみ出たわたあめ、弾けた綿の実にも見えてきます。
 この愛らしい姿を見つけた人は、どんなにか写真に収めたがったことでしょう。新種の星にふさわしい学名をつけるため、わざといかめしい顔をつくって、喧々囂々やりあったかもしれません。
 けれどもそうして喜ぶ人は、桜色の星にはもういません。この星に暮らす人間は、みんな滅んでしまったのです。

 この星が青かったころ、人間は「あらゆる願いを叶える装置」を作ったことがありました。完成を知っていたのは、小さい大学の小さい研究室にいた、四人の学生だけでした。
 装置ができたのは偶然でした。しかし実験を繰り返し、長い間装置とつきあってきた学生たちは、出来立ての装置がまぎれもない本物だと知っていました。しばらく装置に触れ続け、脳裏に思い浮かべるだけで、願いはたちどころに顕れるはずです。
 学生たちは両手を上げて快哉を叫び、肩を叩いて互いの健闘をたたえました。彼らの声はだんだんと小さくなって、囁き交わすほどになり、ついには鉛の沈黙が訪れました。
 ほんとうに装置は動くだろうか。ひとりがつぶやきました。
 どうせ失敗するよ、とひとりが吐き捨てました。今日の夕飯でも出してもらって終わりにしないか、とひとりが笑いました。誰も返事をしませんでした。
 出来上がってしまったこの装置を、いったいどうしたらいいのかと、誰もが頭を巡らせていました。人は便利なものなら試したがるし、たとえ仕組みがわからなくても使い続けるのだということを、彼らは知っていたのです。
 誰に渡しても、きっとよくないことが起こるでしょう。この場で壊して見なかったことにするには、あまりに惜しい出来上がりです。
 話し合いは続きました。日が沈んで星が昇っても、結論は出てきませんでした。
 とうとう学生たちは、結論を明日の自分に任せることに決めました。じゃんけんに負けたひとりの学生が、装置を持ち帰ることに決まりました。忘れ物を取りに来る学生や、守衛員が見回りに来ることもある研究室に、装置を置いていくなんてことは、誰も考えていませんでした。
 気の毒な学生は震えながら、自分のかばんを空にして、四角い箱の形をした装置をいちばん底に置きました。ハンカチを重ねて、教科書とファイルを積み上げて、装置の銀色がまったく見えなくなってから、ようやくファスナーを閉めました。
 誰が乗っているかわからない電車には、怖くて乗れそうもありません。学生はふくれたかばんを小脇に抱えて、夜道をとぼとぼ歩きます。
 普段は通らない道を抜けるうち、学生は公園のそばを通りかかりました。
 交差点の角に沿って植わった、山茶花の生け垣の切れ目には、しろい光を撒く街灯が、同じだけの距離をあけて立っています。
 人の姿はありません。歩くのに慣れない足はくたびれています。学生は公園に入りました。
 公園の広い芝生には、ところどころ桜が立っていました。今が花盛りの小さい花は、青白くぼやけたかたまりとなって、学生の頭上を覆っています。
 学生はふらふらと縁石を越えて、芝生の上に踏み込みました。乾いた地面がむき出しの、一本の桜のそばに座り込みます。
「どうして完成しちゃったんだろう」後ろ頭を幹につけて、学生は不平を漏らします。「完成してほしくなかったわけじゃない。僕がいないときに出来上がったんなら、おめでとうと言うだけで済んだのに」
 くすぐるほどの風が動くたび、枝からこぼれた花びらが、次々と落ちてゆきます。空を仰いだ学生の顔に、ひとつ、ふたつと降り落ちます。
 学生はぞんざいに頭を振りました。花びらは顔から浮き上がって、学生の足の隣に置かれた、かばんのところへ落ちていきます。
 かばんの上にはいつの間にか、爪みたいなかたちの花びらが、いくつも模様を作っていました。
 ……触れ続け、思い浮かべさえすれば、今の装置は願いに応える。
 学生の体に冷たい汗が噴き出しました。学生はかばんをひったくると、公園の入り口までのほんの十数歩を、死にものぐるいで駆け抜けました。
 街灯の明かりの下で、肩を上下させながら、かばんをめちゃくちゃにはたきます。
 ファスナーはしっかり閉まっています。かばんの上にも両側にも、花びらの姿はもうありません。
 馬鹿なことを考えました。学生の頬に苦笑いが浮かびます。
 桜は人間ではありません。花びらの一枚が、人間のように願いを思い浮かべることが、いったいどうしてありましょう。
 学生は鞄を脇に抱えて、今度こそ家に向かって歩き出しました。

 学生はかばんのファスナーを開けられることを恐れていましたが、かばんの底のことは忘れていました。何年もの間教科書やレポート用紙を運び続けて、傷んだかばんの底には、繊維のほつれが出来ていました。
 装置の尖った角は、ほつれの隙間を突き抜けて、桜の根に突き刺さっていました。
 桜は人間ではありませんが生きものです。生きて仲間を殖やしたいという願いを、桜もきちんと持っています。挿し木で生まれた木でしたから、自分だけで仲間が殖やせることもわかっています。
 人間のようにはっきりと、桜がそう考えたのかはわかりません。わかっているのはそのあとに、星の上で起こった出来事です。
 初めに羽虫が地面に落ちて、木片の音を立てました。魚は絡まる根の塊になって水面に浮かび、地をゆく小さい動物が、震えて花びらをまき散らしました。あらゆる生きものの体から、手と言わず足と言わず、桜が生えてきていました。
 人間も大騒ぎしていました。頬の破れた子どもは泣きわめき、母親は半狂乱で子どもに生えた枝をむしります。モニタの向こうのニュースキャスターは唇に蕾を並べて、何度も言葉につっかえます。
 この有様を知ったなら、装置を運んでいた学生は、仲間に連絡をとったことでしょう。けれどもそのとき学生は、アスファルトの地面に転がったまま、喉を押さえてのたうつばかりでした。こわばった指の間からは、喉のなまじろい皮膚を破って、みずみずしい若葉が二枚、いましも開こうとしているところでした。
 そうして星が一巡りするころ、世界じゅうのあらゆる場所は、桜で覆われておりました。
 風の強い氷の土地では背を低くして、網目のように地面にはりついています。海の上には根を絡ませあって、互いの幹を支えています。姿こそ違えど、どれもが桜でした。
 そこで生まれた生きものを苗床に、桜は生え育ったのです。いったいどうして、その土地にふさわしい生き方を間違うでしょうか。

 公園だった場所の桜は、今や女王蜂の役目を務めていました。世界中の桜が王女であり兵隊であり、殖えゆくための手足でした。
 桜が人間だったなら、繁栄を祝いだかもしれません。星が埋め尽くされたとき、娘が互いに食い合うことを嘆いたかもしれません。
 ですが桜は桜です。今も昔も変わりなく、ただ殖え続けることを願っています。星は花の色に埋め尽くされながら、変わらぬ春を顕し続けています。
 母なる桜の棲む星の、遠目に柔い輝きは、今も宇宙の暗闇にぽっかりと浮かんでいるのです。

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