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タモツの憂鬱

 タモツは1,2ヶ月前に思い立ってAmazonで気になった本を10冊近く買ったものの、通勤電車で彼が読み進める量は少なく8冊は積ん読本となっていた。
 このまま一生読まれないかと思われた本たちの1つが『スタートアップ的 人生戦略』という本だ。
 リンクトインの共同創業者であるリード・ホフマンらが書いた本は、購入時の興奮を失っている今の彼にとっては近寄りがたかった。

 しかし彼もようやく、週に1度の休日に積ん読本を読み始める気になったようで、いつも持ち歩くトートバッグに『スタートアップ的 人生戦略』を入れて外に出た。
 彼は引っ越し先検討のため会社近くを散歩するついでに、カフェでその本を読もうと考えていた。
 数ヶ月前に新しく始めた仕事に慣れてきたこともあり、彼は一度戻っていた実家を出て引っ越すつもりだった。

 カフェの隅っこの席で読んだ『スタートアップ的 人生戦略』の第1章には以下のようなことが語られていた。
『3つの歯車を噛み合わせて自分の強みを培う必要性について。
 3つの歯車とは、
 ①資産ー特にソフト資産を築き上げることが重要。差別化につながるのはニッチ分野のエキスパートスキルの研鑽。また時代を超え変化に左右されない非認知能力も重要。
 ②大志ー自分の将来の望み、アイデア、目標、ビジョン
 ③市場環境ー顧客や雇い主からのニーズはあるか、その市場で自分が目立てるか』

 それらの文章は彼を途方にくれさせることとなった。
 その歯車の一つ一つが、彼の手に届かないもののように感じられた。資産を築き上げること、大志を持つこと、市場環境に適応すること。
 
 カフェの外を眺めながら、タモツの心は暗い影に覆われていた。30歳を超えて友人も恋人もなく、孤独な人生を歩んできた。何度か仕事を変え新しい環境に飛び込んできたが、どこに行っても彼自身は自分が間違った場所にいるように感じられたし、自分には何もないという思いは消えなかった。

 彼は心の中で叫びたかった。「どうすればいいんだ?この先、どう進めばいいんだ?」

 しかし、答えは彼には見えなかった。週に6日働き、給料をもらう。それだけが今の彼の人生だ。しかし、その先には何が待ち受けているのだろうか。彼は自問自答するものの、答えは見つからない。

 カフェの中はいつの間にか静かだった。彼の心もまた、その静寂に包まれていた。そして『スタートアップ的 人生戦略』もまた、机の上で息を潜めていた。

 闇が彼の内側から広がり、身体を覆い尽くしていた。彼は自らを見失い、何もかもが虚無に溶け込んでいくようだった。
 
 「資産、大志、市場環境……」。彼は本の中で語られる言葉を繰り返した。しかし、それらの言葉は彼の心に痛みを与えるだけであり、彼を光で照らすことはなかった。

 彼の心の中で、過去の選択や失敗、そして未来への不安が渦巻いていた。彼は自らの生き方を問い直したかったが、答えは見つからない。彼はただ、暗闇の中で彷徨うだけだった。

 カフェの窓から外を眺めると細かい雨粒が降り注いでいた。街はどこまでも静かに時間を貪っていた。



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