ウィーンへ行きました。④

カミングアウト

 夕食は近くのシュニッツェル(仔牛肉を薄いとんかつ風に揚げたオーストリア名物料理)屋に行った。生ビールのジョッキを片手に、美樹がゴシップ話を面白おかしく話すのを聞きながら、綾乃と一緒に笑い転げた。
 久しぶりによく笑ったな、と思っていると、綾乃がまるでわたしの心を先読みしたかのように、
「久しぶり、こんなに笑うの。女同士は気が楽でいいわ」
 としみじみと呟いた。綾乃は同期の中ではいち早く結婚したクチだ。相手は確か大学の時の同級生だったはず。子供はまだだがら外出も問題なく楽しめるだろうに、女友達とつるむ機会が少ないのであろうか。気になったが口にしなかった。すると美樹が、
「なんや、意味深やな、どうした?」
 と振る。
「聞くでぇ。ウチも聞いて欲しい話あるし」
 と真剣な顔をして畳み掛けた。綾乃はにっこり微笑み、ため息をつきながら、
「美樹にはかなわないね。ーー実はさ」
 と、ダンナと上手くいっていない状況について語った。理由はダンナが何かと綾乃に嫉妬するためで、それは異性関係とかではなく、綾乃の方が自分より稼ぎが多いことに対する僻みのようなものらしい。
「牛乳を切らしたからコンビニで買うじゃない? そうすると、『スーパーの方が安いのに。そういうところが金銭感覚ルーズ過ぎ』って難癖つけ始めるの。レシートも出させられているし」 
 わたしはそれだけでアラート信号が走った。父は、自分は金の扱いがルーズなくせに、家族には吝嗇で、母も時折「レシート見せろ!」と父に命じられていた。綾乃の話はそれだけではなかった。
「以前はちょっと僻んでいる程度だったんだけど、段々エスカレートしてね。例えば、今年の彼の誕生日にネクタイが欲しいっていうから、エルメスのを奮発したの。そしたら箱ごと思いっきり投げ返されちゃって。『これが俺の給料の何分の一か、わかってんのか』って」
 綾乃は話し出したら止まらなくなってしまったようだった。黒目勝ちの目が堅く結んだ両手を見つめているのは、わたし達を見ないようにするためだろう。ーー「こんなことを人に話すのは恥ずかしい、だけど、誰かに話さずにはいられない」。高校時代に話を聞いて貰った、スクールカウンセラーの薄グレー色の机が蘇る。いつもあの机の端をじっと見ながら、言葉が勝手に溢れ出てくるのに任せていた。カウンセラーの顔は見たくなかった。そこに同情の念が現れていたら、わたしは恥ずかしくて死んでしまう。
 だから、わたしも、綾乃の顔を見ないようにビールのジョッキを見つめながら、綾乃の興奮気味の声に耳を集中させた。綾乃は外地ステイ中も、誰と幾らの物を食べたと報告しなくてはならないという。先ほど着席していきなり一緒に写真を撮ったのだが、そういうことだったのか。
「挙げ句の果てに、『遊んで高給取りなんていい御身分だよな』ってつねるし」
「つねる?」
 思わず美樹と同時に聞き返してしまった。
「うん、ほっぺをつねったら痕が残っちゃったことがあって、その時は謝ってた。それ以来、耳たぶとかつねるの」
 ぞっとした。綾乃はそのせいでショートカットにしたのだろうか。綾乃はこけしのようなボブヘアがトレードマークだった。「これだとシニョンにしなくてもいいから楽なの」と、長いことそのスタイルで通していたが、それを最近になって、ぐっと短くした。耳たぶが見える限り、ダンナは酷くつねないだろうから、と。綾乃の細い首に続く形のよい後頭部が、子供のようにいたいけで、思わず抱きしめたくなった。だが、代わりに、なるべく平常と変わらぬ声で、
「箱を投げつけるとか、つねるとか、ちょっと気になるなぁ。ねえ、綾乃、他にも手をあげられたこと、あるんじゃない?」
 と聞くと、綾乃はぐっと口を噤んだ。「まずい」と思ったが、手遅れだ。数秒の沈黙を経て、綾乃は堰を切ったように泣き出した。肩を震わせ、しゃっくりを繰り返す。
「ごめん、聞いちゃいけないことを聞いたんだね。ごめん」
慌てて綾乃の背中をさする。「ごめんね、ごめんね」と謝るうちに、わたしもついつい涙がこぼれてしまう。美樹も鬼のように怒った顔だが目は涙で濡れている。
 と、そこに、何も知らないウエーターが食事を運んできた。美樹は、どうしたらいいか戸惑っているウエーターから皿を受け取ると、
「ほら、カツが来たで。今夜はカツ食べて、思いっきり飲もう。負けてらんない、カツんや。綾乃、愚痴、聞くで」
 と泣き笑いしながら美樹はいった。そして、すかさずウエーターに、ジョッキを三つ追加注文した。

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