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ベルサイユへ行きました。①

望まぬ再会 

「あのー、ひょっとして、ようちゃん?」
 トレイを下げる手を一瞬止め、あらためてその声の主を見た。接客している時というのは、相手の顔を見ているようで見ていない。顔と名前を一致させるまでに三秒ほどかかった。
 こんなところで、そして、こんな時に再会するとは。
「ーーエリ、いえ、羽村さん?」
 と尋ねると、
「そう、エリでーす。ようちゃんは・・・・・・、河合さんのままなんだね」 
 エリは私のエプロンに付けられた名札を確認し、クスッと笑った。その瞬間、私はぐわっと頭に血が上るのを感じた。
「何年ぶりかし・・・・・・」
 エリが会話を始めようとするのを、
「サービスの最中ですので、またあとで」
 と能面のような笑顔で遮り、
「お客様、食後のコーヒー、紅茶などいかがですか」
 とエリの隣席に声をかけた。この男性旅客は緑茶を所望した。急須にはまだたっぷりとお茶はあったが、あたかも切らしたかのように、
「ただいま新しく淹れて参ります。少々お待ち下さい」
 と笑顔で応え、すばやくワゴンを離れた。早足でギャレー(厨房)に駆け込む。鼓動が激しくて胸が痛い。思わず壁に寄りかかってしまった。
「河合さん、どうされましたか? 大丈夫ですか?」
 ギャレー担当の若田が、目を丸くして歩み寄ってきたが、
「え? 何でもない。それよりこのお茶、色が悪いから淹れ直し」
 と急須を突き出す。
「し、失礼致しました!」
 若田は慌てて急須を受け取り、シンクに中身を流すが、お茶は鮮やかな緑。タヌキ顔の若田が首を傾げるが、私は気づかないふりをした。

 私、河合依子(よりこ)は、客室部では「鬼の河合」、略して、鬼カワと言う名で通っている。今朝も出発前の更衣室で、この若田が私の陰口を叩いているのを、地獄耳で捉えていた。
「若やん、久しぶりぃ! 今日はどこ?」
「お、由香、パリ便だぜい」
「おお、ええやん」
「でも鬼カワさんと一緒なの」
「ひええ。復帰されてん、知らんかった」
「私も。でもチーパー(チーフパーサー)じゃないの」
「げ、じゃ一緒にエコとかも、あるんちゃう?」
「きゃー、マジ恐すぎ!」
 黙って通り過ぎてあげてもよかったのだが、だてに「鬼カワ」と呼ばれていない。
「更衣室も社内ですよ。標準語で話して頂けます?」
 と、通り過ぎざまに注意することを忘れなかった。
 私はこの一年近く介護休職を取り、実家がある宇都宮に戻っていた。復帰してまだ三ヶ月も経っていない。社内規定では、復職後半年間は責任あるポジションには就けない。そのせいで、この日も「平(ペイ)のCA」として、後方客席を担当させられた。二十年以上飛んでいるベテランCAのこの私をエコノミー・クラスに放り込み、その上、エコノミーのサービスに目途が付くと、今度はビジネス・クラスを手伝ってきて、と命じられた。そこでエリと再会してしまったのだ。
 あのあと、エリの近くを通らないように気をつけていたが、着陸間際に呼びつけられた。
「ようちゃん、パリで会おうよ」
とせっついてきたのだ。
「え、でも書類が溜まっていますので」
と断るが、エリは聞く耳をもたなかった。エリはかつて五年ほどCAとして働いたことがある。それだけに、パリ・ステイは時間に余裕があることを知っていた。
「大丈夫よ。復路は深夜便でしょ? ようちゃん、手際いいじゃない、出発前にチャチャチャって片付けられるよ。ね、待ち合わせはどこがいい? 今ってホテルはどこなの?」
 そう聞かれても、頭が真っ白でホテルの名前が出てこない。最近は外国語も三音節以上あるとすぐに頭から消えてしまう。
「じゃどの駅の近くなの? ああ、あそこね。ギャール・ドステルリッツの近くの」
 フランス語の発音がやけに流暢で、私はエリが何と言ったのか聞き取れなかった。エリの夫は商社マンで、彼のフランス赴任を機にエリは日本空輪を退職したのだ。あれも十年、いやもっと昔のことのはず。今でもエリはパリに住んでいるのだろうか。
「うん、じゃホテルに行きます。十時でいい?」
「えっ、でもー」
 と断ろうとしたその時、タイミング悪くベルト着用サインが点灯した。着陸が近づいているのだ。CAは旅客の安全を確認するという保安義務がある。エリとの会話を切り上げてざるを得なかった。

つづく

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