ベルサイユへ行きました。⑥

母を捨てちゃったんだ

 父が胃の手術したのは昨春のことだった。予後も芳しくなくそのまま寝たきりとなってしまった。だが世話が大変だったのは、寝たきりの父より、身体的には不自由がない母の方だった。
 母は昔から神経質なところがあったが、それが全般性不安障害という病だと分かったのは数年前のことだった。体調が良い時はそれなりに自立して動けるのだが、不調になると寝たきりを決め込む。少しでも強要すると過剰に騒ぐ。
 父はそんな母の面倒を見てきた。教員として淡々と働き、家に帰れば妻の不安を宥め、家事の穴を埋めてきた。定年退職してからは、二十四時間、母の世話に明け暮れた。
 父は寝たきりとなって一年もしないうちに息絶えた。父の死に顔は枯れ木のようだった。生きている時に嬉しいことなどあったのだろうか。未だに父の笑顔が思い起こせない。
「ねえ、トリアノン宮の方に、ティーサロンがあるみたいよ。行ってみる?」
エリがベルサイユ宮殿のアプリを見ながら大運河の先を指す。腰を上げ二人肩を並べて、深緑の葉がそよ風にわさわさと揺れている木々の下を歩く。
「じゃ、お母様は今どうされているの? ひょっとして、ようちゃんがお世話しているの?」
「まさか! 父を看取りながら決意したの。母の面倒は見ないって」
 ーーそれにしても、さっきから何でこんなに喋っているのだろう、自分でも不思議だ。そう言えば、家族のことを人に話すのは初めてかも知れない。
介護を始めた当初は、この先母が一人になったら、東京に引き取って面倒を見よう、と考えていた。弟家族は東北に赴任しているので頼れない。私がフライトで留守の時は、都内に住む叔母に来て貰えば母も何とか間が持つだろう、と考えていた。フライトを終えて、帰るとそこには母が居る、そんな母との同居を楽しみにしているところさえあった。
だが、あの一年で考えが変わった。母とは暮らせない。それは体力的な問題というより、精神的なものだった。母の口から垂れ流される否定型の言葉達。「どうせ無理に決まっている」「どうせ裏があるんでしょ」。母の、常に悪い方にばかり考える癖には慣れているはずだったのに、段々、母の吐瀉物が胸に溜まり、息苦しさを感じるようになった。
だから父は枯れ木になったのだ。ある日、そう気づいた。母の言葉に反応しないで済むように、自分の心を消して「木」となった。そして枯れ木となり、この世を去った。私もそれでいいのか。
母に、「施設の方が安心できるかもね」、とさりげなく持ちかけたところ、意外なほど素直に受け容れてくれた。この一年で私のきつい一面に参ったのだろう、これなら施設の方が住み心地がよいと考えたのかも知れない。私だって優しく接したかったのだ。だが口から出てくるのは、「また?」「未だなの?」「早くして」と言うトゲ付きの言葉ばかりだった。それでもあの時は、反省する余裕すらなかった。とにかく母から離れたかった。解放されたかった。
父を弔い、母を東京近郊の施設に入所させると、生家も整理し売りに出した。親戚は、七十にもならない母親を施設に送り込むことを批判した。その上、家まで速攻で売却しようとすることに、喧々囂々だった。
「万が一、お母さんが、施設はやっぱり嫌だっ、ていう時のために、家はしばらくそのまま取って置いてあげれば? お父さんも、家をお母さん名義にしたのはそういうことじゃないの?」
 と親戚は私を諭そうとした。だが私は譲らなかった。「昔からがめつい娘だった」「親不孝者」という言葉が背中の方から聞こえてきた。


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