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人間らしさ愛らしさを大事にしたい 山本卓卓(範宙遊泳)インタビュー

ストレンジシード静岡のサポートスタッフ、その名も「わたげ隊」。ストレンジシードってどんなフェス? どんなアーティストが出るの? ということを伝えるべく、地元・静岡を中心に活動するわたげ隊が出演アーティストにインタビューする企画。第15回は範宙遊泳から山本卓卓さんが登場です。

わたげ隊がゆく!
ストレンジシード静岡2022 アーティストインタビュー

ゲスト:山本卓卓(範宙遊泳)
聞き手:八木(わたげ隊)
範宙遊泳
Photo:鈴木竜一郎

生きちゃってるから、しょうがない

八木:まずは山本さんの自己紹介をしていただいてもよろしいでしょうか。

山本:1987年生まれの山梨県出身で、大学から演劇を続けています。2007年からなので、もうかれこれ15年近くになります。2014年あたりから海外で上演できるようになり、マレーシア、タイ、インド、シンガポール、アメリカといった国々のアーティストとコラボレーションを行ってきました。コロナの直前まで半年間ニューヨークに留学していて、そこから帰ってきた矢先に入れ替わりのような形でコロナになって。ここ1~2年くらいは国内での活動を中心にしています。
あ、八木さん、(僕の作品の)『二分間の冒険』のTシャツ着てくれてるんですね!

八木:そうなんです(笑) 今日は楽しみにしてきました。今回の話に入る前に、まず2019年のストレンジシードで範宙遊泳が上演した『フィッシャーマンとマーメイド』(以下『フィッシャーマン』)の話からさせていただいてもよろしいでしょうか。これまで観たいろんな作品の中でもベスト10に入るくらい感動したんです。

『フィッシャーマンとマーメイド』

八木:『フィッシャーマン』は、外の世界を恐れ家から出られない主人公が、家の中で想像の釣りをして人魚姫を釣り上げてしまい、彼女を海に帰すために、意を決し家の外へ出ていくというお話でした。あの作品を観たとき僕は、どこからどこまでが物語の中の実際の出来事なのか、主人公の想像が生み出した出来事なのかわからなくなってしまって。でも、わからなくなると同時に、仮に何もかも主人公の想像の産物だったとしても、それが彼にとってのれっきとした経験であることには変わりないのだと気付いて、目から鱗が落ちたんです。
『フィッシャーマン』に限らず、範宙遊泳の作品では社会からはみ出てしまったような人たちが多く登場し、また、彼らへの目線の優しさを感じます。そこには山本さんの思いがあるのでしょうか。

山本:例えば、アウトサイダーとか社会的弱者と言われてしまう人たち、クラスの片隅にいるような存在というのは、強いものに攻撃されてしまうところがありますよね。一度でも過ちを犯してしまった暁には、人生が台無しになるほどの社会的な制裁を受けてしまったり。僕はそういう風に人がボコボコにされてしまうようなことがどうしても嫌で、「同じ人間じゃないか」という気持ちになるんです。
『フィッシャーマン』の話で言えば、主人公は「人卒(人間卒業)したのだ!」と言って、部屋の中に引きこもっていますが、彼は、豊かな想像力という素晴らしい能力を用いて、立派に生き、経験しています。それでも、例えば彼のような状況にある人を「生きてる価値なし」と見下す風潮がある。僕はそれがイヤなんです。
もちろん、ダメなものはダメという目線は必要です。でも、世の中でいろんな失敗をしながら生きている人に「生きちゃってるから、しょうがないよね」と言ってあげられるのって、物語とか芸術しかないじゃないですか。例えば社会で不祥事を起こした人をちょっとでも擁護すると、またそれも炎上してしまう。人の生き死には肯定とか否定とか簡単に一刀両断できるものじゃないっていうか。
今回のストレンジシードで上演する『かぐや姫のつづき』を作りながら、自分は立川談志さんや落語の影響をかなり受けてるなって改めて思ったんです。談志さんの言葉に「落語とは人間の業の肯定である」というものがあって、人間のダメな部分、業の部分を肯定してあげる考え方に僕もシンパシーを感じます。

八木:「落語とは人間の業の肯定である」、僕も好きな言葉です!一方で、近年、社会意識の変化の中で、「ダメなものはダメでしょ」という視点が強くなっていると感じています。山本さんの作品は、ダメなものはあるとわかった上で「それだけじゃきついじゃん」ってことを言ってくれてるようで、観てて嬉しい気持ちになります。そのあたりは意識されてるんですか?

山本:僕はそういう風に考えて作ってるつもりだったんですけど、ここまで(観る人に)ストレートに伝わっているという実感が今までなかったんで、本当に嬉しいです。作った甲斐があります。

山本卓卓さん

本来カルチャーはキャンセルさせないためのもの

八木:範宙遊泳の作品は、作品内で現在、過去、未来を越えた時間の行き来がなされるのに、時間の連続性は決して切断せずに、一貫して「過去があって今がある」という視点があるように感じています。いかがでしょうか。

山本:本当にそうです。人はそれぞれ、時間を積み重ねて、失敗を積み重ねて、成り立っていますよね。例えば、自分の経過した月日を振り返ってみたときに、「オレ、ホントひでぇ人間だった…」っていうようなことって、大小関わらず、それぞれやっぱりあると思うんですよ。もし、これまで一つも間違わずに、一回も人を傷つけずに、クリーンに生きてきたと思っている人がいるのだとしたら、その状態は不自然ですよね。でも、その不自然な状態、自分を振り返られない状態が、気付かない間に作り上げられてしまっている気がして、それは非常に怖いです。
でも、芸術は、自分を振り返らせることができるものだと思っています。近年生じているキャンセルカルチャー※は、奇しくも「カルチャー」の中で生じていますが、本来カルチャーというものは、キャンセルを簡単にはさせないためのものだったはずなんです。
※キャンセルカルチャー…主にSNS上で人物が言動などを理由に追放される、現代における排斥の形態のこと。
一度失敗した人間のカムバックをとにかく許さないという風潮はとても危険だし、人を殺しかねないと思います。僕は人の生き死にとカルチャーは無関係ではないと思っているので、芸術は人を救う、と言うとおこがましいですけど、芸術の力を信じています。

八木:範宙遊泳の作品では、未来への希望も常に示されていますよね。

山本:未来への希望は大事です。僕は「大人たち」の言葉を、信じたくないという気持ちがあるんです。僕は「ゆとり世代」の真っ只中と言われる世代で、上の世代から、日本の教育の失敗作のように言われて育ちました。そんな風に言われると、「じゃあどうすればいいですか?」という気持ちになってしまう。別に自分のことを失敗作だとは思っていないのに。まあ、確かにデータとしてこの国が衰退している事実があるのはわかるんですが、上の世代から「沈み行く船」とばかり言われてしまうと、「お先真っ暗なのに、なんで自分は生きてるんだろう?」と、過剰反応してしまうところもあります。
僕も子どもが生まれて、この子が大人になったとき、食いっぱぐれてしまうような世の中になっていてほしくない。僕ら世代の役割は「もうだめだよね」と言うことではなく、「希望を持って生きていくしかない」と暗い中でも光を示すことなのではないかと思っています。

人間らしさ愛らしさを大事にしたい

八木: クラスの片隅にいるような存在に目を向けることとか、人間の業を肯定することを担うことって、ロックミュージックを始めとして、以前はポップカルチャー、サブカルチャーの「王道」な役割だったように思うんです。
でも、近年、カルチャーがそういった役割を担うことが王道でなくなっている気がして。でも、これまでお話を伺ってきて、山本さんはその「王道」の表現をされているように感じるんですが、いかがでしょうか。

山本:僕も王道とされるものが大好きなんですが、確かにそれは今のカルチャーの中心を担うものではなくなっているのかもしれません。結局、僕も天邪鬼だから、今の王道はできないし、ちょっと外れているからこそ、王道を好きでいられるのだと思います。
僕、2~3年前に初めて『男はつらいよ』を見たんです。僕が子どもの頃はシリーズがまだ続いていて、テレビ放送もされてたんですけど、見たくなかったんですよ。その頃は言わば「オワコン」だと思ってて。だけど、シリーズも終わって「歴史」となった今、振り返って見たとき、寅さんってめちゃくちゃ良いんですよ。本当に王道の、人情とか、人の可愛さが描かれていて、この感じ、結構自分の血に入ってるぞ、と思ったんです。
例えば、チャップリン、キートンといったコメディアンたち、あと、それこそ今キャンセルカルチャーの中でキャンセルされているウディ・アレンとかもそうですけど、彼らがやってきたことって、人間の「どうしようもなさも含めた愛らしさ」を押さえていて、僕はそこがとても好きなんです。『ドン・キホーテ』もそうですよね。ドン・キホーテは変な人ですけど、とても人間らしくて愛らしい。そこを僕も大事にしたいという気持ちがあって、僕にとってそれが「王道」だなと思っています。
でも、今の世の中では、「やっぱり優しくあるべきだよね」というようなことって、なかなかみんな言わないですよね。例えば、ポップミュージックでも、音楽的なセンスを感じさせるものは沢山あるのに、目の前の特定の人を好きだという歌が多くて、もっと大きな「LOVE」はあまり歌われていないように感じて、そこに寂しさがあります。

八木:『フィッシャーマン』でも、登場人物が本当に愛らしくて、主人公のことも、人魚姫のことも、みんな好きになってしまったと思います。僕は子ども連れでも観に行ったのですが、5歳の子が、2人の掛け合いや動きが面白いみたいで、ケラケラ笑っていました。演劇の内容を子どもが理解できている訳ではないと思いますが、愛らしさは子どもにもちゃんと伝わるんですよね。

山本:ありがとうございます。胸がいっぱいになります。

大人も子どもも近い感覚で

八木:『フィッシャーマン』の話ばかりして恐縮ですが、山梨に住む主人公が、焼津の海まで人魚を帰しに行く経路の説明が劇中にあり、(当時、会場になっていた)静岡市役所前を通り過ぎる、という設定になっていました。
そのときの、目の前の物語と自分の現実とがリンクする不思議な感覚が、印象深く心に残っています。それはストレンジシード用に作られた物語だったからこそ、得られた体験だったと思うんですが、ある特定の地域で作品を上演する場合、地域性は意識的に取り入れられるのでしょうか。

山本:ストレンジシードは静岡のお客さんが多いはずなので、静岡の話をすることで、嬉しく感じてもらえるかなと思うんですよ。例えば、僕が山梨で県外の劇団を観たとして、山梨のことに触れてくれたらきっと嬉しく思います。
ちなみに『フィッシャーマン』は、縁あってストレンジシードの後に長野の松本にも呼ばれたので、そのときには松本用に一部書き換えたんです。それぞれの地域の人に楽しんでもらえるよう、「ここのために作りましたよ」っていうのは大事にしていきたいと思います。

八木:今回の『かぐや姫のつづき』も、静岡に縁があるんですよね。

山本:そうなんですよ。調べたら出てきて、今回ぴったりの題材だと思ったんです。
昨年、『ももたろうのつづき』という作品を制作したのですが、「童話のつづきシリーズ」をレパートリーにしていきたいなと思っていて。それで、童話や昔話で、静岡とマッチするお話がないか調べていた時に、かぐや姫が、静岡(富士市)に所縁があることを知ったんです。だから、ご当地ネタのような静岡のための題材を頑張って探したというのではなく、自分たちがやってきたことの流れの中で、ストレンジシードでは何ができるのかなって、たまたまパッと開いたら、かぐや姫だった、という感じです。
言わば「偶然の出会い」なのですが、僕は「たまたま」とか、「勝手にこうなった」とか、「気がついたらこうだった」といったことを、大事にして生きていきたい気持ちがあります。

〈シリーズ おとなもこどもも〉『ももたろうのつづき』

八木:童話のつづきのシリーズ名は『おとなもこどもも』ですよね。大人と子どもが、それぞれどう見るかということを意識されたのでしょうか。

山本:『フィッシャーマン』は、子どもの視点だと童話的に捉えてもらえるようにしつつ、大人の視点だと物語の背景にある社会事象とか奥行きが見えるようにしたんです。つまり、大人と子どもで物語の捉え方の視点が異なるような作りに敢えてしたのですが、今回は大人と子どもの視点を分けるつもりがあまりなくて、「ドンっ」とストレートな感じのものにしたつもりです。
劇中で使われている言葉には難しいところもあるかもしれないですけど、子どもたちには少し背伸びして見てもらうところもあると思いますが、でも、今の漫才とか、お笑いの人たちのやっていることをかなり参考にしているので、行われていることの「軽さ」「ポップさ」みたいなものは伝わってくれるんじゃないかと思っています。子どもも大人も、近い感覚で楽しんでくれたらすごく嬉しいです。

八木:とても楽しみです。僕も子どものリアクションが気になります。

山本:どうなるんですかね(笑)これでめちゃくちゃスベるかもしれないですからね(笑)怖いですけど、「初お目見え、静岡の皆さんよろしくお願いします」みたいな感じで、新作を持って行くことのワクワクもあります。

八木:山本さんのお子さんはもうご覧になったのでしょうか。

山本:子どものリアクションは気になるんですけど、会場の雰囲気の中で見てもらいたいという気持ちがあるんですよ。ひとまずは、今僕らメンバーの中で楽しいと思っているものが、きっと静岡の人たちにも伝わってくれるよね、と期待を込めて作品を作っています。スベってたらスベってたで、全然言って欲しいですけど(笑)
でも、今回の作品には、僕たちにとってかなりストレートなものが詰まっているんじゃないかとは思っています。

八木:『フィッシャーマン』のとき、会場の雰囲気がすごく良くて。客席には、大人も子どももいましたが、小さい子ども連れで観ることができたのは、周りの大人が優しかったからなんですよ。その会場の優しい雰囲気は、作品の優しさをきっかけとして生まれたものだと思います。
だから、きっと今回の作品でも、あらゆる境遇にある人たちが、みんなで優しい空間を構成するのかなと想像しています。

山本:そうなれば本当に最高ですよね。夏フェスでみんなが一体になっているような感じにストレンジシードでもなったらいいですよね。夏フェスでは「楽しむぞ!」と戦闘モードになるところもあるけど、範宙遊泳の客席は「ほあほあ~」と優しい感じで(笑)「あ、見えませんか、じゃあ横にずれますね」みたいな感じになったら、すごく幸せだなと思います。

八木:今回、「『かぐや姫のつづき』のつづきを作ってみよう!」というワークショップもあるんですよね。これはどんな形のワークショップなのでしょうか。

山本:子どもたち向けの演劇ワークショップでは、子どもが役者体験をするものが多くて、作家とか演出家を体験することはあまりないように思うんです。だから、今回はそれをやってもらいたいと思っています。『かぐや姫のつづき』の俳優たちがその役の状態で出てくるので、そのお話の続きをみんなで考えていきます。例えば、一人の子が「竹取の翁が空を飛ぶ」と言ったとしたら、俳優が空を飛ぶシーンを即興で演じるというように。それを子どもたちに数珠繋ぎにしてもらって、一つに並べたときに話がどうなっていくか、というものです。

八木:これは公開のワークショップなんですよね。

山本:そうです。僕らは誰でもウェルカムなので、ぜひふらっと同じ空間にいていただければと思います。

八木:ではワークショップの方も、沢山の方に来て欲しいですね。
今日はここぞとばかり、自分の思いを伝えてしまって申し訳なかったです。最後になりましたが、岸田國士戯曲賞ご受賞、おめでとうございます!

山本:ありがとうございます(笑)気持ちよくさせてもらえたインタビューでした(笑)

範宙遊泳
2007年より東京を拠点に活動。山本卓卓が作・演出を務める。
現実と物語の境界をみつめ、その行き来によりそれらの所在位置を問い直す。生と死、感覚と言葉、集団社会、家族、など物語のクリエイションはその都度興味を持った対象からスタートし、より遠くを目指し普遍的な「問い」へアクセスしてゆく。
近年はアジア諸国からも注目を集め、マレーシア、タイ、インド、中国、シンガポール、ニューヨークで公演や共同制作も行う。
こどもも楽しめる<シリーズ おとなもこどもも>や、過去作YouTube無料配信<むこう側の演劇>など、配信プログラムも多数。
『幼女X』でBangkok Theatre Festival 2014 最優秀脚本賞と最優秀作品賞を受賞。
『バナナの花は食べられる』で第66回岸田國士戯曲賞を受賞。
ストレンジシード静岡2022
〈シリーズ おとなもこどもも〉
『かぐや姫のつづき』
範宙遊泳


誰もが知っている物語のつづきを自由に妄想して、おとなもこどもも一緒に楽しめる演劇にするシリーズ。今回は静岡県に縁の深い『かぐや姫』を題材に、月に帰ったかぐや姫のその後を描きます。ぜひご家族みなさんでご覧ください。

日程:2022年
5月3日(火・祝)12:40 / 14:40
5月4日(水・祝)11:00 / 16:40
5月5日(木・祝)11:40

会場:市役所エリア[ダイニング]

作・演出:山本卓卓
出演:埜本幸良/福原冠/李そじん
制作:藤井ちより
プロデューサー:坂本もも
助成:公益財団法人セゾン文化財団
インタビュー・記録・テキスト:八木(わたげ隊)
編集:山口良太(ストレンジシード静岡 事務局)
編集協力:柴山紗智子

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