何を書いたらいいかわからない

いつもそうだった。

学校で、作文や意見を求められる場面で
何を書いたらいいのか
何を言えばいいのか
考えていた。

何を感じたか、何を思ったか、何を考えたか

自分自身でそれらを認知するより先に
どうすれば良いのかを考えていた。


交通安全のポスターや植物の観察日記は、特別苦手だったし嫌いな時間だった。

時間内に描ききれなくて、毎度決まって居残りだった。

数人いた居残り仲間のクラスメイトが

ちらほらと減っていき

先生は会議でいなくなり

教室に、ひとり。

画用紙と睨めっこして

ふと顔をあげたら

赤い西陽が学校中を照らしている

なんてこともよくあった。


もともと絵が苦手。

上手な人の絵を転写シートで真似てみても
絵の練習キットを毎日こなしても
棒人間さえ不格好なままで。

先生は、
自分が観たままに
自分が何を伝えたいかを思ったように
と言っていたけれど

クラスの壁に張り出された観察日記には

「 もっと詳しく描いてみましょう 」

等と赤ペンで指摘コメントがお決まりのように添えられていた。

あれだけ一生懸命やったのに、不十分だと評価される。
ささっと時間内に描き終わったクラスメイトのそれには、渦巻いた綺麗な花がひとつ咲いていた


***

わたしが通っていた学校の道徳の授業は、

まず、ショートストーリーを読み、そこに出てくる人物のその時の心情を紙に書き、班で話し合い、そのなかで良いと思ったものを代表で1人が発表する

というものだった。

4人1組の班でも、書いていることはバラバラなんてことはよくあることだった。

対抗する意見を擦り合わせることもあるし、メンバーによっては一つの意見を強行突破するひともいた。

心情に正解なんてない、ということをその頃からなんとなく気づいていたけれど
先生やクラスメイトがそうじゃないと言う。

この状況であれば、

こう思うのが普通だ。
こう思うのが正解だ。

そんな風に半ば強制の暗黙の了解によって、いつの間にか自分の意見を言うことがこわくなった

というよりも、

人と対立するのはかなりの労力を要するから、
めんどくさい その一言に尽きる。

求められていることをこちらがうまいこと察知して、それを淡々とこなしていく方がずっと楽だと思ったから、

そういう場面に出会したときは、自分の存在を忘れることにした。

頭が柔らかい(と言われている)小学生のうちからそのスキルを積んだおかげか

人と反発することはほとんどないし、円滑に事が進む。作文も国語の「作者の気持ちを答えましょう」もスラスラかけた。

***

高校受験の過去問題で

"題材の内容と絡めて自分の経験を書きましょう"

というような問題があった。これに関しては初手はかなり頭を捻った。

今まで自分のことには目を向けず

先生、クラスメイト、学校、親、地域の人
他人が求めているものは何かを考えて、第三者の視点から言語化してきたのに

ここにきて、自分のことについて書けと言われている。

しかも

"そんな経験、どこ探してもないんだけど..."

みたいな内容だったりする。

"うわあ出てこない…どうしよう…とりあえず何か書かなきゃ点数取れないしな…"

結果、

フィクションを記すことにした。

ない経験は作ればいい。

というより、作るしかない。

最初は嘘を書くことに躊躇いがあって、なかなか筆が進まなかったけれど、小説も漫画も映画もテレビもほとんどがフィクションだし。誰も傷つかないしいいよね。

そう腹を決めてからはあっという間だった。自分はフィクション作家なのだと思うようにした。

そのスキルで今まで生きてきた。


***

かつて、モバゲーやGREE、ブログで日記を書くのが好きだった。

まだ同級生がほとんどSNSにいなかった時代。

自分の感情を言語化することや文字を連ねることはもともと好きだったし、中学生の頃はポエマーの如く毎日詩を書いていた気がする。

教科書やノートの端っこ

配られたプリントの裏

机、教科書の裏表紙

何処ででも、何にでも。

苦しい心を唯一解放する瞬間だった。


いつの間にかmixi、Twitter、Instagramと移り変わり、SNSをやっていない人はほとんどいなくなった。

クラスメイトをフォローし合うのはごく自然な流れだった。

他クラスの人と仲良くなるのは簡単になったし、実際には一度も話したことがなくても仲が良い人がたくさん増えた。

それと引き換えに

わたしは、簡単に言葉を発せなくなった。

ツイートひとつでさえ何十分、何時間、何日、何週間、何ヶ月と考えて投稿したりしなかったりした。

息苦しくてしょうがなかった。

言いたいことも言えない上に、人の生活を羨んで自分と他人を比較して落ち込む毎日。

SNSで見えてるものは虚像だと言われるしそれはよくわかるのだけれど

それがいくら作られた虚像だとしても

裏側をこの目でみないことには、画面を通して見えているもの、感じたものが全てになってしまう。

***

大学3年生の春、アカウントを削除した。

数日後には新しいアカウントを作った。

知り合いに限らず誰一人からもフォローされていないアカウント。

誰も知らない。誰もみていない。

何を誰を見るのかを選択できる。

新品の白紙の自由帳みたいで

ここでは何をしても自由

私が法律で秩序

人気のない、だけどあたたかくて鳥がさえずり蝶々が飛んでいるような大草原に手足を大の字に広げて寝そべっているような

この上ない開放感を感じたのを憶えている。


それから2年が経った今、

新しいことがしたい

似たような世界観をもつ人と共有したい

という気持ちがひょっこり顔を出してきた。


noteは、紡ぐ言葉が好きでフォローしているひとが使っていたので、敷居の高さみたいなものを感じていて、手を出せずにいたし自分が使えるとも思っていなかったのだけれど、

使い方や様式、コンセプトに心惹かれて、ついに、何を書こうかな、とウキウキしながら登録した。

にも関わらず、その日から1週間、

何を書いたらいいかわからない

と、悩み続け、一文字も書けなかった。

何を求められているのか

どんな風に見られたいか

あの人みたいに書けるのか

考えていた。わたしの長年の習慣は、2年かけてもアップデートできなかったらしい。というより、簡単にふりだしに戻ってきてしまったと言う方が近いかもしれない。

それでもやっぱり、そんなことに飽き飽きして、変化していくことを決めたのだから

自分の思いついたままに、自分の本当の心を書こうと奮起して、今に至ります。

何を書いたらいいのか

ではなくて

何を書きたいか。

自分なりに、自分のやり方で。


はじめまして。よろしくお願いします。






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