初恋シンデレラ

ヘンゼルとグレーテル
01.ガラスの少女

 店内には小気味好い音楽が流れている。
 繁華街から少し離れた場所にあるこのクラブは客の年齢層が高いので、若者が多い店と全く選曲が違う。盛り上がることができるのだが、下品にならない曲が多い。今流れている曲も、聞いていて不快にならないような物である。
 今日ここでDJをしている人物は、何度かこの曲をかけているのでこの曲を気に入っているのかもしれない。クラブの奥にあるバーカウンターの椅子に腰を掛け、中にいるバーテンダーに作ってもらった飲み物をユーリ・プリセツキーは口に運んでいた。
 いつもはVIP席を取るのだが、今日は予約で全て埋まっていたのでこのダンスフロアから離れた場所にあるバーカウンターにいる。
「ねえ、一人?」
 音楽に耳を傾けていると、突然そんな声が横から聞こえて来た。耳に流れ込んで来たのは聞き覚えのない男の声である。クラブに来た際、男から声を掛けられることは決して珍しくない。その為、ユーリは直ぐにナンパなのだという事に気が付いた。
「隣座っても良い?」
 返事をしていないというのに、軽薄そうな雰囲気の男は隣の椅子へと腰を掛けた。
「勝手に隣に座るんじゃねえよ」
「マティーニ一つ」
 男はここに居座るつもりのようだ。ユーリの言葉を聞き流し、カウンターの奥にいるバーテンダーに飲み物を注文した。
 隣に勝手に座っている男は、ユーリよりも少し年下だろうか。二十代後半に見える。若く見えるようでそんな年齢に見えないと度々言われるのだが、もう今年で三十歳になる。
「この店結構来るんだけど、あんたもよく来てるよね」
 同じぐらいの年齢か年下だと思われたのだろう。男の口調は初対面の相手であるというのに砕けたものであった。不躾な男の質問に答えるつもりなどない。
「誰かここに知り合いでもいるの。彼氏とか?」
 返事をしなかったことを気にせず男が続けた言葉は、聞き流すことができないようなものであった。
「……なんでそこで彼氏になんだよ」
 同性を恋愛対象にしている者を差別するつもりはない。誰が誰を好きになろうが自由であると思っている。それなのに男の言葉に機嫌を損ねたのは、勝手に同性愛者だと決めつけられたからである。
「だって彼氏いそうだから」
 中性的という言葉から脱却することができず、男であるというのにロシアの女王と呼ばれることすらもある。そんな容姿が原因なのだろう。見知らぬ相手からそう言われたのはこれが初めてではない。
 既に何度も言われている事であるのだが、それでもその言葉にユーリは憤慨した。
「んなもんいねーよ」
 刺々しい口調で言ったのだが、男はそれを全く気にしていない様子である。
「そっか。じゃあここには今夜の相手を探しに来たんだ」
「はあ?」
 ユーリは凄みを利かせながら、手に持ったままになっていたグラスを叩きつけるようにしてテーブルに置いた。肝が太いのか冷遇しても全く気に掛けていなかった男がびくっと肩を揺らす。
「違うの?」
 男は真顔であった。先ほどの発言は冗談などでは無く本気でそう思って言ったものであるのだという事が分かり、胸にふつふつとした怒りが湧きあがる。
「俺はそんな尻軽じゃねーんだよ!」
 店内に流れている音楽をかき消すような大声で告げると、そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。男が唖然とした顔へとなった。
 まだ怒りは収まっていなかったが、これ以上男の相手をするつもりはない。ユーリは体の向きを元に戻すと、先ほどカウンターに置いたグラスを手に取った。

「人のことビッチ扱いしやがって、まじむかつく。クソが」
 先日クラブに行った際の出来事をユーリが話しているのは、モスクワ・サンクトペテルブルク鉄道の起終点駅であるモスコーフスキー駅の傍にあるカフェだ。
「そんなんだから恋人できないのよ」
 同情してくれるだろうと思い話したというのに、嘗てのリンクメイトであるミラ・バビチェヴァに呆れた顔をされてしまった。
 二十代前半で現役を退いたミラは、ユーリよりも三つ年上であるので既に三十歳を超えている。現役の頃は恋多き女であったミラであるのだが、結婚をして子供もいる現在は落ち着き母親の顔へとなっている。しかし、容赦ない発言は昔と変わっていない。
「恋人とかそういうのはまだ考えらんねえ」
 ユーリは口を尖らせながら、まだ半分中身が残っているグラスをストローでかき混ぜる。ミラの前にあるのはアイスコーヒーであるが、ユーリの前にあるのはシトラスティーだ。
 大人になれば珈琲を美味しいと思う事ができるのだと思っていた。しかし、未だに苦いだけであるとしか思う事ができない。わざわざ飲みたい物では無いので、体裁を気にしなければいけない場面でしか飲まない。
「そう言ってずっと恋人作らないままでしょう?」
「……そうだけど。別に欲しいとか思ったことねえし」
 恋の一つや二つしているのが当然。それどころか、結婚をしていてもおかしく無い年齢である。しかし、今まで恋人がいた事が無い。
 この年齢まで恋をした事すらないのだが、ユーリはその事に全く焦りを感じた事が無かった。
「そんなんだと一生恋人できないままだよ?」
「別にそれでも良いし。ダチがいたら良いし」
 恋人を作る利点が全く浮かばない。
 周りを見る限り恋人とは小忠実に連絡を取り、頻繁に会わなければいけないようだ。そんな事をするのは面倒くさい。それに、友人と遊ぶ方が楽しいとしか思えない。
「ああ、オタベックね。相変わらず仲良いみたいだね」
 既に十五年近く付き合いのあるオタベック・アルティンとは、大きな喧嘩も無く今も友人である。
 友人になったばかりの頃はオタベックが唯一の友人であったが、今は他にも友人と呼ぶ事ができる相手がいる。そんな中で最も親しいオタベックは、何でも話す事ができよき理解者である親友と呼ぶ事ができる相手だ。
「まあな」
 親友という存在が己にいる事が嬉しくて誇らしげに言った。羨ましいという反応になるかもしれないと思ったのだが、そんな期待は裏切られてしまった。ミラは呆れた様子である。
「まだまだ恋人よりも友達なんだね」
 ミラの反応を不満に思っていると、含みのある言い方でそう言われた。
「……何が言いたいんだよ?」
「まだまだガキだってこと」
 ミラがそう言いたいのだという事は分かっている。そして、自分でその言葉を促しておきながら、ユーリは子供扱いされた事を不満に思った。
「ガキじゃねえよ」
「ガキじゃ無かったらなんなの?」
「もう三十になんのにガキな筈がねえだろ」
 ユーリがシニアに上がった時点で、コーチのヤコフ・フェルツマンは高齢であった。その為ヤコフの最後の弟子であったユーリは、同じ弟子たちから末っ子のような扱いをされていた。
 今もまだ同門であった者たちと会うとそんな扱いをされている。そろそろ年齢的に大人として扱って欲しいと、ユーリは思っていた。
「年齢的にはそうかもしれないけど、中身はまだまだお子様だよ。あ、どうした? お兄ちゃんと遊びたいの?」
 胸に抱いたままになっていた次男をミラが下ろす。既にミラは二人の子供の母親になっている。長男は五歳で次男は四歳だ。どちらもじっとしている事ができない年齢だ。
 ユーリがミラと会う場所としてこのカフェを選んだのは、ここには子供を遊ばせる為のキッズスペースがあるからだ。子供連れの客が多いので、子供が騒いでも迷惑そうな顔をする者はいない。
「ちょっと待っててね」
「ああ」
 次男を抱いたまま席を離れたミラが、キッズスペースまで行くとそこにいる長男に声を掛ける。玩具で遊んでいた長男に次男の事を任せると席に戻って来た。
 次男の相手をしながら話をしていた為、店に入った後注文した飲み物をまだミラは飲んでいない。アイスコーヒーをミラが飲もうとしている事に気がついたので、それが終わってから口火を切る事にした。
 その間にユーリもまだ飲みかけになっているシトラスティーを飲む事にした。頼んでから時間が経過しているので、氷が既に殆ど溶けてしまっており薄くなっている。ミラのアイスコーヒーも同じように薄くなっている筈である。
 今だけでは無く常にミラは子供優先だ。自分は時折会うだけなので可愛いと思うだけだが、毎日子供の世話をしているミラは大変な筈である。ミラに対して尊敬に近い気持ちを持ちながらシトラスティーを飲んでいるうちに、グラスの中身が空になった。ストローから唇を離し、ユーリはミラに視線を遣る。
 子供ができてから食事をするのが早くなったと言っていたミラは、既に飲み終わっていた。
「これでも生徒には鬼だって恐れられてるんだぞ」
 スケートに妥協という言葉は無い。そんな事をすれば負けてしまう。だから弟子がどんなに弱音を吐いてもできるようになるまでやらせる。勿論、それだけでは弟子が潰れてしまうので、褒める時には目一杯誉め称えるようにしている。
 そんな指導のせいで、鬼だと弟子だけで無く他の現役スケーターの中で有名になってしまった。
 話を蒸し返したのは、子供扱いされたくないとまだ思ったままであるからだ。
「あんたの生徒、昨シーズン良い感じだったわね」
「今回は金は逃したけど、来シーズンは絶対に金を取らせる」
 弟子を取るようになったばかりの頃は一人であったのだが、今は複数いる。そんな中で今年シニアに上がったばかりの選手が、デビュー戦で銀メダルを取った。
 彼の演技ならば金メダルを取れる筈であった。しかし、取る事ができなかったのは経験不足から満足な演技をする事ができなかったからだ。
「金取ったのって勝生選手の弟子だったよね」
「そうだよ」
 全く縁の無いコーチの弟子に金メダルをかっ攫われても腹立たしくなるのだが、よく知っている相手であるので一層苛立った。
 八個年上の同じスケーターである勝生勇利は、引退して実家の温泉施設を継ぐのだと思っていた。しかし、引退後の進退に悩んでいると親から実家の事は考えなくて良い。好きな事をすれば良いと言われたそうだ。息子に愛情を注いでいる勇利の親らしい台詞である。そして、コーチになる為に留学をした勇利は、ユーリが引退する前にはコーチへとなっていた。
 勇利の生徒と現役時代戦った事があるが、勿論負けた事は無い。しかし、生徒の方が負けてしまった。
「あっちの方がコーチ歴長いから仕方ないよね」
「仕方なくねえ。あいつとはやり方が全く違うし、そんな事ぐらいで負けるようじゃ駄目だ」
 ユーリはミラの言葉を不服に思った。
 現役時代は、勇利とコーチとして再び争う事になるなどという事を想像もいなかった。しかし、嘗てのライバルと形は違うが再び戦う事ができるのは嬉しい事である。
「それはそうね。話は戻るけど、恋人がいなくても今は良いかもしれないけど、歳取ったら寂しいわよ」
 その話をまだ続けるつもりなのかと思ったのだが、それを言うのは子供染みた事であるような気がしたので言わないでおく事にした。
「友達がいるから寂しくねえし」
 今まで一度も寂しいと思った事は無い。これからもそんな風に思う時が来るとは思えない。そして、そんな状況になっているのを想像する事ができない。
「その友達だっていつまでも恋人がいない訳じゃないでしょ」
 言われるまで全くその事を考えた事が無かった。
 友人になる前は恋人やその類いの相手がいたようなのだが、この十五年間オタベックから恋人ができたという話を聞いた事が無い。恋人ができたのならばできたと教えてくれる筈なので、知らない間に誰かと付き合っていたという事は無いだろう。
 このままオタベックは誰かと付き合う事は無いのだと勝手に思っていた。しかし、恋人を作るつもりは無いという発言を聞いた事は無い。ある日突然恋人ができたと言われる可能性もある。
「確かに……」
 動揺から声が震える。
 恋人を作らないで欲しい。恋人ができてしまうと、オタベックの一番の存在が自分で無くなってしまう。それは絶対に嫌だ。しかし、そんな事を強要する事などできない。我が儘で自分勝手な事を考えているのだという事ぐらい分かっている。
「それに、いつまでも経験無いのはどうかと思うよ」
「煩い」
 触れられたく無い事に言及されユーリは顔を顰めた。
 この歳になれば経験があるのが当然であるだろう。しかし、まだそういう経験。性的な経験が無い。それは決して機会が無かったからでは無い。誰に声を掛けられてもそういう事をしたいとは思えなかったからである。
 恥ずかしい事であるという事は知っているので、それを誰かに言った事は無い、その為、その事を知っているのは付き合いの長い者だけである。
「あんたのゴシップ見る度に笑っちゃうんだよね」
「あいつら適当な事ばっかり書きやがるからな」
 今まで雑誌やインターネットで何度もゴシップ記事を書かれているが、どれも身に覚えの無いものである。そんな記事を書かれるようになったのは、シニアデビューをしてからだ。鮮烈なデビューをしてしまった事により、注目を集めてしまったからなのだろう。
「有名人だから仕方ないよ。それだけ注目されてるって事だよ」
「選手だった時ならまだ分かるけど、引退してコーチしてる俺なんか追っかけてどうすんだっての」
 引退すれば注目が薄れるのでゴシップ記事を書かれる事は無いのだと思っていたのだが、現役時代ほどでは無いがそれでも書かれる事があった。昔はそれを見て怒り狂っていたのだが、今は確かに立腹していたが受け流す事ができるようになっている。
「その見た目だから仕方ないじゃない。いつまでも綺麗でむかつくぐらいだからね」
「好きでこんな顔なんじゃねーよ」
 女性からその美貌が羨ましいという事を頻繁に言われているので、ユーリにとってその台詞は聞き飽きているものである。そして、褒めてくれているのだという事は分かっていたが、男であるのでその台詞を喜ぶ事ができない。
「はいはい。まあ、それは良いとして。いつまでもそのままだと妖精になっちゃうわよ?」
「へ?」
 今までの話の流れから、性的な経験が無いと妖精になってしまうという事である。それは安易には信じる事ができない事実である。懐疑していると、ミラがにやりと笑った。
「知らないの? 三十になってもそういう経験が無かったら、妖精になっちゃうらしいよ」
 楽しみであると更にミラは続けた。
 冗談であるのかもしれないと思っていたのだが、ミラの態度はそうであるとは思えないものである。
 性的な事に興味が無かったので、今までそういう話題を避けて来た。それを感じ取ったのか、オタベックもそういう話題をユーリに振って来る事は無かった。それにより、全くその事を知らずに今まで来てしまったのだろう。
(マジかよ……)
 その後の事をよく覚えていない。衝撃的な事実を知り頭の中が真っ白になっており、気がつくと一人で暮らしているマンションのベッドで座り込んでいた。
「十二月ってことは……あと三ヶ月」
 三月一日の誕生日までの期間はそれだけしか無い。漸くロシアの妖精などと呼ばれなくなったというのに、本物の妖精になってしまう事になる。絶対にそれは避けたい。そんな事になると、弟子の模範にならない。それは困る。
 ユーリは誕生日までに恋人を作る事を決意した。

02.おやゆび姫

 スケートの才能があり家族を支える為に、ユーリが故郷であるモスクワを離れここサンクトペテルブルクに来たのは十歳の時である。それから大きな怪我をする事も無く不調になる事も無く、順調に選手生活を続けた。
 ユーリが引退したのは、二十五歳の時だ。予てから目標であった、リビング・レジェンドと呼ばれていたヴィクトル・ニキフォロフが成し遂げた世界選手権五連覇に並ぶ事ができたからだけでは無い。体力的に続けるのが限界であったのと、世代交代の時期であると感じたからという理由もある。
 そこで人生が終わる訳では無い。引退してからの人生の方が長い。
 現役を終えた後もフィギュアスケートに拘わっていきたいという選手は、プロになりアイスショーなどに出演する事が多い。印象に残る見た目をしているので、キャスターの誘いや副業としてやっていたモデルの仕事を本格的にしないかという誘いもあった。しかし、直ぐにはどうするのかという事を決められなかった。
 悩んだ末にユーリが第二の人生と選んだのは、コーチになるという道である。ユーリが引退すると共に年齢を理由にコーチ業を引退したヤコフに紹介して貰った相手のコーチアシスタントへとなり、数年間の勉強を得てコーチへとなった。今は長く自身が所属していたクラブのコーチをしている。
 選手時代と全く違う日々であるが、毎日が充実している。


 趣味の良いインテリアで纏められた部屋にあるベッドに寝転んで、ユーリはスマートフォンを触っている。繁華街からそれほど遠くないのだが閑静な場所にあるこのマンションで暮らしているのは、ユーリでは無く三つ年上の友人であるオタベックだ。
 同じスケーターであったオタベックは、ユーリよりも先に引退した。その後、以前から言っていたようにスケートに携わる職業では無く、親の仕事を手伝う道を選んだ。決してスケートが嫌いになったのでは無く、長い間好き勝手にして来たので親に恩返しをする為にオタベックはその選択をしたそうだ。
 スケートに国あげて力を入れているロシアでは、才能のある者は全ての費用を国が出してくれだけで無く、家族を養う事すらもできる程の支援をして貰える。しかし、他の国では反対にスケートはお金が掛かる競技である。その為、他国の選手は実家が貧しいユーリと違って裕福な家庭で生まれ育った者ばかりである。
 その事からだけで無く、シニアに上がるまで世界各国を渡り歩いていた事からも、オタベックの家が富裕な階層なのだという事を察する事ができた。その為、カザフスタンで知らぬ者がいない大きな会社をオタベックの親が営んでいる事を知っても、驚愕する事は無かった。
 引退したばかりの頃は故郷であるカザフスタンで仕事をしていたオタベックであるのだが、ロシアに会社を進出させる事になり今はこちらに住んでいる。
 同じ部屋の中にいるオタベックは、今度のイベントで使う曲をノートパソコンで選んでいる。現役時代から音楽が好きで趣味でDJをしていたオタベックは、今も休日の夜はクラブで音楽を掛け客を盛り上げていた。今日も食事が終わった後、クラブに行く予定になっている。
 オタベックがロシアに住居を移して来てから、以前よりも共に過ごす時間が増えた。オタベックも仕事が休みの日は、昼前に目を覚まし着替えをするといつもオタベックの家であるここに来ている。そして、オタベックが作ってくれたランチを食べ夕方まで遠慮無くのんびりと過ごし、外で食事をしてから共にクラブへと行っている。
 ナンパをされた時も、オタベックと共にクラブへと行っていた。あの場にオタベックがいなかったのは、DJブースで音楽を掛けていたからだ。
「今日は何を食べる?」
 オタベックが声を掛けて来たので、ユーリはスマートフォンの画面から視線を離す。
「んーそうだな」
 スケートは、僅かな体重の変化すらもジャンプなどに影響する競技である。その為、食事に気を遣う選手が大半である。しかし、どれだけ食べても太らないのでユーリは気にした事が無い。
 引退をしている今は更に気を遣う必要が無くなってしまったので、食べたい物を何の躊躇いも無く食べるようになっていた。
「こないだ行ったイスラエル料理美味かった」
「ああ、あそこか」
 ロシアではイスラエル料理の店は珍しいので、どの店の事を言っているのかという事をオタベックは直ぐに察したようだ。繁華街の側にあるその店は、クラブの仲間から教えて貰ったと言ってオタベックが連れて行ってくれた店だ。
「あそこまた行きてえ。駄目か?」
 昔ならば、オタベックの意見も訊かずそこに行くと言い切っただろう。オタベックから何か言われたのでは無く、ちゃんと意見を聞いた方が良いと思うようになり、今は意思を確認するようになっている。
「構わないぞ。じゃあ、もう少ししたら出かけるか」
「ああ」
 ユーリはスマートフォンで時間を確認する。
 今日オタベックがDJをする店は、二十二時開店だと言っていた。準備があるので、いつも開店の一時間前にはオタベックは店には行く。クラブの付近に今日食事をする店があるので、そこを出るのは十分前で大丈夫だろう。一時間前に店に入ると考えると、まだ家を出るまで三十分程度ある。
 オタベックは何時に出るつもりにしているのかという事を、一応確認しておく事にした。
「出るの三十分ぐらい後で大丈夫か?」
「ああ。そのぐらいに出ようと思ってる」
「分かった」
 思っていた通りである事が分かったので、ユーリは時間までスマートフォンを触って時間を潰すことにした。オタベックと共にいる時、話をする時もあるがお互いに別の事をしている事もある。それができるのは、付き合いが長く気が置けない仲であるからだろう。
 暫くスマートフォンを触っていると、今日行くクラブに誰がいるのかという事が気になった。
「今日は誰が来るんだ?」
 同じようにスマートフォンを触っていたオタベックが名前を幾つか挙げた。その中にはユーリが親しくしている者もいた。クラブに頻繁に行っているのは好きだからという理由よりも、オタベックがそこでDJをしているのと仲の良い者がいるからという理由の方が大きい。
「そっか」
 懇意にしている者がいるのだという事が分かり、クラブに行くのが楽しみになった。再びスマートフォンを暫く触っていると、オタベックから声を掛けられる。
「そろそろ出かける準備をするか」
 インスタグラムを見ている間に出かける時間になったようだ。時計で時間を確認した事によって、ユーリはいつの間にか三十分経過している事を知った。インスタグラムを見ているといつもあっという間に時間が経過する。
 インスタグラムでフォローしているのは、昔競い合った選手が多い。皆引退をしてそれぞれの道を進んでいる。
「そうだな」
 ユーリは充電コードを抜くと、スマートフォンをズボンのポケットに入れる。
 使っていると直ぐに電池が減ってしまうので先ほどまで刺していた充電コードは、オタベックから借りた物では無くユーリの物だ。頻繁にこの家に遊びに来ているので、それを置いている。オタベックの家にあるユーリの物はそれだけでは無い。数日間泊まっても困らないほど様々な物を置いている。
 邪魔になりそうであるので持って帰った方が良いのかもしれないと思い、以前その事をオタベックに言った事がある。その際、オタベックから気にしなくて良いと言われた。その為、オタベックの家に私物を幾つも置いている事を気にしていない。
 ベッドを離れオタベックを見ると、先ほどまで触っていたノートパソコンを鞄に入れていた。昔はCDを使ったCDJが主流であったのだが、今はパソコンを使ったPCDJが主流になっているそうだ。
 準備が終わったオタベックが玄関に向かい始めたので、ユーリもベッドを離れその場から歩き出す。
 オタベックの自宅は、壁をぶち抜き一部屋になっている。元々そういう部屋なのでは無く、ここに引っ越す事が決まった際にオタベックがわざわざ許可を貰い業者に頼んでそうして貰ったらしい。オタベックの家に何度も遊びに行った事があり、服装だけで無くインテリアにも拘っているのだという事は知っていた。それでも、そこまでした事に驚かずにはいられなかった。
 玄関まで行くと、先に扉の前まで行ったオタベックがそれを開けてくれる。先に出れば良いのだという事が分かったので、玄関を出てオタベックが部屋の中から出るのを待つ。
 オタベックの家からクラブの近くの飲食店に行く際は、雨が降っていなければいつもバイクで行く。今日もバイクで行くので、部屋から出て来たオタベックの手にはヘルメットが二つある。片方はオタベックの物で片方はユーリの物だ。
 友人になった後ユーリ用のヘルメットを買ってくれたオタベックは、その後何度か新しい物を買ってくれた。今のヘルメットは黒い物である。差し出して来たそれを受け取ると、ユーリはオタベックと共に一階へと向かう。
 エレベーターに乗り一階へと向かっている途中、知り合いが多くユーリの性格を把握しているオタベックならば性格があいそうな相手を紹介してくれるのでは無いだろうかと思った。
 恋人を作るという事を決めてから一週間が経過しているのだが、まだ何もしていない。それは、今まで恋人が欲しいと思った事が無かったので、どうすれば恋人を作る事ができるのかという事が分からなかったからだ。
「なあ、オタベック」
「何だ?」
「良い奴いたら紹介して欲しいんだけど」
 そんな事を言われるとは思っていなかったという様子へとオタベックがなった。驚かせてしまったのは、今までそんな事を一度も言った事が無いからだろう。
「いきなりどうしたんだ?」
「ん、恋人作ろうかなって思ったんだ」
 恋人を作る事を決めたのは妖精になりたくないからなのだが、それを言うのは憚られた。勿論、それを言うとオタベックにからかわれる事になると思った訳では無い。オタベックはそんな事をするような男では無い。ただ恥ずかしかったからというのが理由である。
「そうか。……探しておく」
 オタベックは固い表情へとなっていた。
 何故そんな様子へとなったのだろうか。友人に恋人ができてしまう事を寂しく思ったのかもしれない。その気持ちはよく分かる。自分もオタベックに恋人ができると寂しい。自分は恋人を作る事にしたのだが、オタベックには恋人を作って欲しく無い。
 我が儘な考えであるという事は分かっていたので、ユーリはそれを言い漏らす事はしなかった。エレベータが一階へと到着したので、オタベックと共にバイクが停まっているマンションの駐車場に向かう。

 ユーリは印象的な色をした車から降りるとマンションの中へと入る。ここには引退する前に引っ越して来てから暮らしている。ここは賃貸では無く分譲である。ユーリがここを買ったのでは無く、国から贈られた物だ。他にも、先ほどまで乗っていた赤い高級車も国から贈られている。
 スケートに力を入れているロシアでは、活躍している選手には様々な物が国から贈られるのだ。
 エレベーターに乗り三階まで行くと、部屋の前まで行き車から降りた際に手に持ったままになっていた鍵で錠前を解除する。がちゃっという音が聞こえて来たので部屋の中に入ると、直ぐに軽快な足音が聞こえて来た。
 ユーリを家で待っていたのは、ピューマ・タイガー・スコルピオンという名前の猫だ。長いのでピューチャと呼んでいる愛猫は、玄関までやって来るとユーリの足に体を擦り寄せた。
「ただいま」
 室内飼いをしているので、一度もピョーチャは家から出た事が無い。その為、家から逃げようとする事は無いので、早く扉を閉めないと逃走してしまうと思う必要は無い。声を掛けながら扉を閉めると、ユーリは腰を屈めてピョーチャの頭を撫でる。
「寂しかったのか」
 ピョーチャは甘えん坊な性格をしており、自宅に戻ると暫くユーリから離れようとしない。家で一人にさせている事を、可愛そうだと思うと共に申し訳なく思ってしまう。しかし、それと共に愛されているという事を感じる事ができて嬉しくなってしまう。
 頬を緩ませながら暫く撫でた後、紙袋を抱えている腕とは反対側の腕にピョーチャを抱く。ユーリはピョーチャの触り心地の良い長い毛を感じながら、奥にキッチンがあるダイニングまで行く。
 キッチンにあるテーブルまで行くと、腕に抱えたままになっていた紙袋をそこに置く。紙袋の中身は、練習場を離れた後に寄ったスーパーマーケットで買った食材だ。
 多忙であるので家政婦を雇おうかとも考えたのだが、家の中に他人を上げたく無かった結局それはしなかった。その為、食事は外食をする時以外は自分で作っている。
 今日の晩ご飯は、今朝の残りであるペリメニとスーパーマーケットで買った黒パン。そして、ジュリエンにするつもりである。ペリメニは小麦粉と卵を練って作った生地に挽肉や野菜を入れ、茹でて食べるロシア料理だ。ジュリエンは茸のクリーム焼きだ。こちらもロシア料理だ。作るのはロシア料理が多い。
「うん、うん。そうだな」
 ピョーチャがにゃあにゃあと鳴き出したので、それに相槌を打ちながらユーリはダイニングを離れる。
 猫を飼っていない者から見れば不思議な光景であるのかもしれない。長く猫を飼っていると、何を言いたいのかという事をなんとなく察する事ができるようになるのだ。
(そういや、猫は人後を話してるつもりだって聞いたな)
 ピョーチャが人間の言葉を自分は話しているつもりであるのだと考えると、頬が緩んでしまう。
 廊下を進みクローゼットのあるベッドルームまで行く。昔は整理整頓が苦手で部屋の中が常に散らかっていたのだが、今は片付けをするようになったので昔よりは片付いている。それは、友人であるオタベックの影響だ。
 オタベックの部屋はいつ行っても綺麗に片付いている。オタベックは何か言うような男では無いので、何か言われた訳では無い。そんな家に行っているうちに、自分も片付けをした方が良いのでは無いだろうかと思っただけだ。
 部屋の中に入りクローゼットの前まで行くと、着信音が耳に流れ込んで来た。聞こえて来ているのは、通話が掛かってきているのを知らせるものだ。ユーリはズボンの後ろポケットに入れたままにしているスマートフォンを取り出し、誰が電話を掛けて来たのかという事を確認する。
「オタベックか」
 遅くまでいつも仕事をしているオタベックは、この時間いつもまだ仕事をしている。電話を掛けて来るのはいつもならばもう少し遅い時間であるので、この時間に掛けて来るのは珍しい。急ぎの用件であるのかもしれないと思い電話を取る。
「どうした?」
『この間良い奴がいたら紹介して欲しいって言っていただろ』
 オタベックと付き合いが長いというのに、今でも時折低く響くような声に聞き惚れてしまう事がある。今も心地の良い音楽を聴いているような気持ちへとなっていた。
「そういや言ったな」
 言われるまでそんな事を頼んでいた事をすっかり忘れていた。だからといって、本気で恋人を作るつもりが無いという訳では無い。練習がある日は弟子の事ばかり考えているので、そんな事を考えている余裕が無かったので失念していただけだ。
「それがどうかしたのか?」
『紹介したい相手がいるから連絡先を教えても良いか?』
「マジか」
 連絡先を教えても構わないという事を告げると、都合の良い日を教えて欲しいと言われたのでそれを教えた。それに対してオタベックは、相手にそれを伝えて都合を確認すると言った。
 オタベックが紹介してくれるのがどんな相手なのかという事が気になっていると、オタベックはまだ仕事中であるのでまた連絡すると言って電話を切った。仕事中であるというのに、わざわざ電話を掛けて来てくれたようだ。
 スマートフォンをポケットに戻すと、電話が終わるのを待っていたようにピョーチャがにゃあと鳴いた。どこか心配そうにしているように見える。恋人ができたら自分は捨てられるかもしれないと、ピョーチャは心配しているのかもしれない。
「恋人ができたからってお前を蔑ろになんかしないから安心しろ」
 腰を屈め頭を撫で首元を擽ると、ピョーチャが喉を鳴らした。最後にもう一度頭を撫でてから、ユーリは腰を元に戻す。
 クローゼットを開け着ている服を脱ぎ部屋着に着替えると、脱いだ服を持ってバスルームに行く。そこにあるバスケットに服を入れると、ここまで一緒にやって来ていたピョーチャと共にバスルームを離れる。
 ダイニングまで行くと、キッチンにあるテーブルまで行く。
「さて、晩ご飯の準備すっかな」
 ユーリはテーブルに先ほど置いた紙袋の中から食材を取り出すと、キッチンシンクへと向かった。食事の準備が済むと、ずっと側にいたピョーチャの餌の準備をして椅子へと腰を掛ける。
 食事をしながら最初考えていた事は、まだ気になったままになっていたオタベックが紹介してくれる相手の事である。しかし、今日の練習の事を思い出した事によって、頭の中はその事一色になってしまった。

03.ネズミの恩返し

「先日仕事の関係で行ったのですが、とても素晴らしい公演でした。何度か行っていますが、その公演が今まで見た中で一番素晴らしいものであったかもしれません」
「そうなのか」
 高級レストランの窓際の席で、ユーリは向かい側に座っている相手の話に相づちを打った。
 男の名前は、バフィト・アクサーコフというそうだ。清潔感があるバフィトが着ているのは、ブランド物では無く仕立屋で仕立てたのだという事が分かる丁寧な作りの物だ。そんなバフィトの話は、クラブで親しくしている者たちと話す内容とは全く違っていた。知性を伺わせるものであったのだが、決して鼻に付くようなものでは無い。それは、知識の無いユーリに分かり易く話しているからなのかもしれない。
「そうだ。プリセツキーさんはバレエもされていたそうですね」
「スケートの為にな。だから、そこまでバレエに詳しい訳じゃないぞ」
 先ほどまでしていたのはオペラの公演の話である。その流れからバレエの話を振ったという事は、バフィトはバレエの話題を振ろうとしているのだろう。素人よりは詳しいが、ダンサーを目指していた訳では無いので詳しいものからすれば知識不足に感じる筈だ。
「そうなんですか。でも、一度プリセツキーさんのバレエも見てみたい」
「機会があったらな」
 本気で言っているのでは無く話の流れからそう言ったのだという事が分かっていたので、ユーリも軽く受け流した。
 こういう場に慣れていないからだろう。緊張から喉が渇いたので、グラスを手に取り口をつける。美しい曲線を描いたグラスの中身は炭酸水だ。
 店に入り案内されたこの席に座ると、ホールスタッフが直ぐに飲み物のメニューを持ってやって来た。それを見ながら、バフィトからワインを飲みますかと言われた。それに対してソフトドリンクで良いと言うと、バフィトもアルコールを止めてソフトドリンクを飲むと言った。
 遠慮しなくて良い。酒を飲みたいのならば飲んでくれと言ったのだが、どうしても飲みたい気分という訳では無いと言ってバフィトはソフトドリンクを選んだ。バフィトの目の前にあるグラスに入っているのも炭酸水だ。
「飲み物は大丈夫ですか?」
 無くなっているのならば、新しい飲み物をバフィトは注文してくれるつもりのようだ。まだ三分の一ほど中身が残っているグラスをユーリはテーブルに戻す。
「まだあるから大丈夫だ」
「そうですか」
 好意から気を遣ってくれているのだという事は分かっているのだが、それでも落ち着かない気持ちへとなってしまう。
 予約が取れない事だけで無く高級であると有名なフランス料理の店であるここに共にやって来ているバフィトは、ユーリも名前を知っているサンクトペテルブルクでは有名な会社の跡取りであるそうだ。ユーリよりも三つ年上で三十二歳のバフィトは、サンクトペテルブルクの有名な高校を卒業した後、アメリカに留学したそうだ。
 会ってから今までの間に話した内容から、それだけで無く高校を卒業してから進学したのは、世界的に有名な大学であること。そして、卒業と同時に親の会社を継ぐ為にロシアに戻って来たこと。大学生の間は恋人がいたのだが、卒業と同時に別れてしまいそれからは仕事ばかりしていて誰とも付き合っていなかった事などを知った。
 バフィトは金持ちであるだけで無く、顔も悪くない。上背があり小柄なユーリよりも遙かに背が高い。女性から声を頻繁に掛けられていた事は間違い無い。大学を卒業してから今まで恋人がいなかったという言葉を疑っていたのだが、嘘を吐いている様子が無かっただけで無くそんな事をしそうにない男である。その言葉は真実なのだろう。
「お待たせしました。ガルニチュールでございます」
 皿を手に席へとやって来たホールスタッフが目の前に肉料理の乗った皿を置く。
 注文したのはコース料理である。幾つか値段設定の違うコースがあったので、一番安いものをユーリは頼もうとした。しかし、バフィトが折角なので一番高いコースを頼もうと言ったのでそれを頼む事になった。
 既にアミューズとオードブル。スープとポワソン。そして、口直しであるソルベが来ている。美味しいと評判の店であるだけあって、今まで食べた物はどれも妙味な物であった。
「ガルニチュールは、鹿肉を使ったランボワーズ赤ワインソースのメダイヨンになります」
 バフィトの前にも皿を置き料理の説明をすると、ホールスタッフはテーブルから離れていった。
 ガルニチュールは目を楽しませてくれる物であるだけで無く香りも良い。先ほどまで食べた料理が絶品であった事からも、それが美味なる物だという事を想像する事ができる。早くそれを食べたくなったが、慌てて食べるような真似はしなかった。それが他人から見ると、下品である事を知っていたからだ。
「メダイヨンって確かフランス語で大きいメダルって意味だったよな」
 話ながらナイフとフォークを取ったユーリは、円形に切っている肉を食べやすい大きさにする。公の場で食事をする事が多いので、食事のマナーぐらい知っている。
「そうです。鹿肉はお好きですか?」
「嫌いじゃねえな。肉は何でも好きだ」
 フォークとナイフを使って口へと運んだ肉を咀嚼する。思っていた通り風味が良いものであった。
「そうなんですか」
「意外だって思ったか? よく言われるから本当のこと言って良いぜ」
 バフィトの様子から意外であると思っているのだという事が分かっていた。
「そんな事は無いですよ。ただ美味しそうに食べる方だなとは思いました」
 否定しているがそう思っていた事は間違い無いだろう。そんな事をしても何の意味も無いので、それを認めさせるような真似をするつもりは無い。
「大体一緒に食べた奴には吃驚される。なんでそんなに食べるのに太らないのかって」
 頻繁にその台詞を言われているので、もうそれは聞き飽きている。だからといって、それを言われたぐらいで不機嫌になるほどもう子供では無い。いつもその台詞を言われても聞き流すだけである。
「肉は筋肉になるので、肉を食べても太らないと聞いた事があります。食べても太らないのは、それが理由かもしれませんね」
 言いながらナイフとフォークを手に持ったバフィトは、白い高級感のある美しい皿に盛られている料理を食べ始める。
 金持ちであるバフィトはこういう店に来慣れているのだろう。威厳のある外観をしたこの店に来た時、全く戸惑っている様子は無かった。そして、店の中に入った際も店員にそつのない対応をしていた。そんなバフィトの食べ方は、優雅さすら感じるものである。
 オタベックとバフィトは仕事関係の知り合いだそうだ。以前からユーリのファンであったバフィトは、オタベックにユーリを紹介して欲しいと言っていたらしい。しかし、何度頼んでも断られていたそうだ。対面した後に、漸く会う事ができたと目尻を下げながら言っていた。
 オタベックから伝えられた待ち合わせ場所に行き、待っていたバフィトを見た際には驚いた。待ち合わせ場所と時間だけをオタベックから教えて貰っており、どんな相手を紹介してくれるのかという事を全く聞いていなかった。まさか男であるとは思っていなかった。
(何で男なんだ?)
 男である自分に紹介する相手であるので、当然女性を紹介してくれるのだと思っていた。
 オタベックに男が好きだなどと言った事は無い。そんな事を思った事が無いからだ。それなのに、何故同性を紹介したのかという事がユーリは気になったのだが、今は連絡する事ができないのでその事を質問する事ができない。
 時折話をしながらガルニチュールを食べ終えると、パンが運ばれて来た。それを食べ終えると、チーズの盛り合わせであるフロマージュが運ばれて来た。後はデザートであるデセールとディジェスティフに珈琲が運ばれて来るだけである。
 ガルニチュールを食べ終わった時はまだ満足する事ができていなかったのだが、パンとフロマージュを食べると漸く満足する事ができた。しかし、まだデセールが運ばれて来るのが分かっていたので、それを食べる事ができるように調節している。
「お待たせしましたデセールでございます」
 席にやって来たホールスタッフが、グラスが乗った白い皿をユーリの前に置く。
 グラスにはクリームやアイスやフルーツが美しく盛り付けられている。それは芸術品のように美しい見た目をしている。しかし、食べるのがもったいないと思う事は無かった。反対に早く食べたいとユーリは思っていた。
「本日のデセールはピスタチオと杏のパフェでございます」
 中と表面にあるフルーツは見た目から杏なのかもしれないと思っていたのだが、その通りであったようだ。ホールスタッフが席から離れると、デザートスプーンとフォークを使ってパフェを食べていく。
「旨い」
 口に入れた瞬間思わずそんな声が出てしまう程、デセールは美味しかった。決して甘すぎずフルーツの味を活かしたものである。最近食べたスイーツの中では、一、二位を争うような味であった。
「それは良かった」
 口元を綻ばせながらそう言ったバフィトもデセールを食べ始める。ユーリの感想が気になるのか、バフィトは今まで運ばれて来た料理をどれもユーリが食べてから食べていた。
 見た目は華やかであるのだが量が多く無かったので直ぐに食べ終え、使っていたスプーンを置き膝に置いていたナプキンで口元を拭く。それをバフィトは待っていたのだろう。デセールを食べ終えていたバフィトから声を掛けられる。
「今日はお会いしてくださり有り難うございます」
「想像と違ってて幻滅したんじゃねえのか」
 外見と中身が比例していないように他人は思うようだ。勝手に抱いていた中身と全く違っていた事に落胆された事が今まで何度もある。
 ファンであると言っていたので、バフィトもそんな者たちと同じように想像と違っていたと思っている可能性もある。相手からその事を言われるよりも自分から言った方が傷つかないので、ユーリは先回りをしてそう言った。
「そんな事は無いですよ」
「本当のこと言って良いんだぜ」
 本当にそんな事は無いと思っているような様子であったが、本心は分からない。困ったように笑った後、バフィトは品の良い笑みを浮かべた。
「本当にそんな事は思っていません。確かに勝手に想像していた人物像とは少し違っていました。――プリセツキーさんは私が想像していたよりもずっと魅力的な人でした。様々な色を見せる宝石のように私を魅了して止まない」
 歯の浮くような台詞にそれを感じなかったのは、実直な態度でバフィトがあったからだろう。外見や演技を賞賛される事には慣れているのだが、中身をそんな風に言われる事は慣れておらず赤面してしまう。それを見てバフィトが小さく笑った。
 嘲り笑っているのでも馬鹿にしているのでも無い事は分かっていたので、それを見ても不快になる事は無かった。
 先ほどまでは多才で話上手な男であるというぐらいの感想しかバフィトに対して無かったのだが、今は気立てのよい人物であると思っている。オタベックが紹介してくれた相手であるのだから、そんな人物であるのは当然であるだろう。
「私はプリセツキーさんがスケートをしている姿も好きです。だから、プリセツキーさんがこれからもスケートに拘わっていきたいのでしたら、それを応援します。私とお付き合いをして貰えませんか? 絶対に幸せにします」
 ユーリを見詰めているバフィトの態度は真摯なものであった。

 ユーリはオタベックの部屋の前まで行くと呼び鈴を押す。
 まだこの時間オタベックは仕事から戻って来ていない筈だ。待っても扉が開かなかった事から、思っていた通りまだ帰宅していないのだという事が分かった。オタベックが戻って来るまで、部屋の前で待つ事にした。
 背中を扉に預け頭を真っ白にして暫く灰色の壁を見詰めていると、エレベータが開く音が聞こえて来た。この階には部屋が三つある。エレベーターに乗っているのがオタベックでは無い可能性もある。それでもエレベーターに視線を遣ると、中からオタベックが出て来た。
 仕事帰りであるオタベックは背広姿であった。服に拘りがあるオタベックは、自分に似合う服をよく分かっている。光沢のあるしなやかな生地でできた黒い背広は、オタベックによく似合っていた。
 直ぐにユーリがいる事に気がついたオタベックが、驚いた顔へとなった。声を掛けようかと思ったのだが、側に来るまで待つ事にした。目の前までやって来たオタベックが足を止めると、ユーリは背中を預けたままになっていた扉から離れる。
「帰りに寄ってみた」
 食事をした店を出ると、バフィトから車で家まで送ると言われた。車でここまで来ていると言ってそれを断ると、バフィトと別れユーリはオタベックが暮らしているこのマンションまでやって来た。
 断った時は真っ直ぐに帰るつもりであった。オタベックに話したい事は、後でIP電話かメッセンジャーアプリで言うつもりであった。しかし、車に乗ると気持ちが変わり直接会って言う事にした。
「そうか。どうだった?」
「何で男なんだよ?」
 唇を尖らせてずっと言いたかった事を口を尖らせてオタベックに伝える。
「以前からユーリを紹介して欲しいとバフィトから言われてたのを思い出したからというのもあるが、バフィトは家柄も良くそれなりの地位に就いていて収入も良い。性格も誠実な男だという評判を聞いていたからという理由もある」
「結婚相手じゃねえんだから、クラブの友達でも良かったのに」
 オタベックの判断基準は、恋人というよりもどちらかというと結婚相手であるような気がした。
「クラブ仲間にも大手の会社に勤めてる者もいる」
 クラブで親しくしている相手に職業を聞いた事は今まで一度も無い。それは、あそこでは肩書きなど関係が無いからだ。その為、皆働いているのだという事は会話の端々から分かっていたのだが、そんな会社に勤めている者がいるという事は知らなかった。
 オタベックの話がまだ続く事が分かっていたので、ユーリは口を挟む真似はしなかった。
「だが、親友の交際相手ならばもっとちゃんとした相手を選びたい」
 親友という言葉がユーリの心に響く。
 オタベックの事を親友であると思っていたが、それを口に出した事は無い。そして、言われた事も無い。その為、親友であると思っているのは自分だけかもしれないという思いが微かにあった。そうでは無かった事を知り、胸が熱くなっていた。
「現役を止めた今は現役時代ほど収入がある訳じゃ無いが、現役時代の蓄えがあるだろ。変な相手だと、そんなユーリの蓄えを食い潰そうとするかもしれない。だから、きちんとした相手の方が良い」
 そこまで考えてくれていたのだという事を知り、じんと胸が熱くなった。ここまで考えてくれている事を知った事により、そこまで確かな相手ではなくても良いなどともう言えなくなってしまう。
「……お前がそういうならそうする」
「良かった。折角来たんだから何か飲んで行くか?」
 勝手に何も言わず家までやって来たというのに、家に上げてくれてくれるらしい。オタベックの言葉はユーリの頬を緩ませるようなものであった。
「行く」
 口元を引き上げてそう言うと、オタベックがポケットから取り出した鍵で扉の錠前を解除する。その際、革でできた黒いキーケースの中に並んでいる車の鍵が目に留まった。
 クラブにはバイクで殆ど行っているが、仕事は車でいつも行っているようだ。その車は、休日に乗っている車とは違う。休日は大型の厳つい四輪駆動車に乗っているのだが、仕事には洗練したデザインの乗用車に乗っている。
 オタベックは仕事用と私用の車を使い分けているようだ。機会がまだ無く仕事用の車に乗った事は無いので、鍵を見ているとそちらにも乗せて欲しくなる。
 扉を開けたオタベックが、ユーリが部屋の中に入るのを待っていたので中に入る。部屋の中心に進んでいると、後ろから扉の閉まる音が聞こえて来た。
「何が飲みたい?」
「んージンジャーエール」
 最後にオタベックの家の冷蔵庫を見た際、ジンジャーエールが入っていた。オタベックが飲んでいなければまだある筈だ。
「分かった。座って待っててくれ」
 無いと言わなかったという事は、まだ冷蔵庫の中にあるという事なのだろう。
 冷蔵庫の中にあったのは辛口の物であった。甘い物も好きだが辛い物も好きだ。ジンジャーエールを飲むのを楽しみにしながら、ユーリはキッチンとベッドの間に置いてあるソファーに腰を下ろす。
 オタベックはいつもここで食事をしているので、ソファーの前にはヴィンテージのローテーブルが置いてある。そんなテーブルに雑誌が置いてある事に気が付きそれを手に取る。テーブルに置いてある雑誌はスケートの物と音楽関係の物であった。ユーリが手に取ったのはスケート雑誌の方である。
 スケート雑誌は掲載された号を編集部から貰う事がある。現役時代は全く読まなかったのだが、コーチになる事を決めてから他の選手の事が気になり読むようになった。所持している雑誌であるので中身は既に知っているのだが、手持ち無沙汰から雑誌をぺらぺらと捲る。
 中に写真が載っている選手やコーチ。プロのスケーターは全員知っている顔だ。写りが良い者もいれば悪い者もいる。実物の方が良いなと見知っているスケーターを見ながら思っていると、足音が近づいて来た。
「ユーリ」
 飲み物の準備が終わったのだという事が分かり顔を上げると、側までやって来ていたオタベックがグラスを差し出して来ていた。
「そのままで良かったのに」
 瓶に入ったジンジャーエールをそのまま出すのでは無く、オタベックはグラスに入れていた。しかも、グラスの中にはパパイア色の液体と氷だけで無くライムも入っていた。わざわざライムを切り入れてくれたようだ。
「こっちの方が美味しいぞ」
「サンキュ」
 相手によると気を遣われると疲れる事もあるのだが、オタベックが相手であると心地よく感じるだけである。波長があう相手というのはオタベックのような相手の事を言うのかもしれない。
 グラスを受け取ると、オタベックが隣へと腰を下ろした。
「オタベックは何飲んでるんだ?」
 オタベックもグラスを持っていたのだが、その中身はジュースには見えない。色や泡がある事からビールである気がした。
「ビールだ」
「ふーん」
「仕事が終わったからな」
 小さく笑みを浮かべたオタベックがビールを飲み始める。美味しそうに飲んでいる姿を見ていると、飲みたくなってしまう。しかし、ただ苦いだけである事を知っているので、自分も飲みたいと言うつもりは無い。
 自分には同じ苦い飲み物でも、ジンジャーエールの方が美味しいとしか思えない。辛口のジンジャーエールをユーリは味わいながら飲む。ごくごくと飲んでいくと、グラスに入っているのが氷とライムだけになった。
 オタベックに視線を遣ると、既にビールを飲み終えグラスをテーブルに置いていた。そんなオタベックはユーリが飲み終えるのを待っている様子であった。
「それで、どうだった?」
 飲み終えるのを待っていたのは、話しかける為であったようだ。
 少し前まで食事をしていた相手の事を訊いているのだという事が分かった。先ほどから何も訊いて来ないので、どうであったのかという事は気になっていないのだと思っていた。しかし、そうでは無く今は尋ねる場面では無いと思っていただけのようだ。
 ユーリは手に持ったままになっているグラスをテーブルに置く。
「お前が選んだ相手だから、性格も良いし話も上手かった。何で男なんだよとは思ったけど、顔は嫌いじゃねえ。俺が綺麗な顔が好きじゃねえのオタベックは知ってるもんな」
 綺麗な顔立ちの相手は見慣れてしまっているので、眺めていても面白く無い。見ていて楽しいのは、男らしい野性的な顔立ちの相手である。先ほどまで共にいた男は、決して野性的では無かった。しかし、整っているが綺麗というのとは違う顔立ちである。
 オタベックのような顔が好きなのだろうと、オタベックの顔を見ているうちにユーリは不意に思った。
「そうだな」
「俺の事すげー気に入ってくれてるみたいだし、良い奴だった。こいつと付き合ったら大切にしてくれるんだろうなとは思ったんだけど、好きになれるかって言われると好きにはなれそうに無いんだよな。つっても、好きになった事がねえから、どんな相手だったら好きになれそうなのかってのは分かんねえんだけど」
 バフィトと会うまで、どんな相手と付き合いたいのかという事を考えた事が無かった。しかし、話しているうちに好きになれそうな相手ではないと無理だと思った。
「曖昧な返事したら期待させる事になっちまうから、断った。折角紹介してくれたのに悪いな」
 付き合って欲しいというバフィトに対してそう言うと、すんなり諦めてくれた。思っていた通り紳士で優しい男であったようで、更にこれからも応援すると言われた。
「そうか。ユーリのその判断は正しいものだと思うぞ」
「そっか」
 申し訳ないという気持ちが先ほどまであったのだが、オタベックの言葉を聞きそれが無くなった。ソファーの背もたれに背中を預けると、ユーリは端に置いてあるクッションを手に取る。そして、それを抱きしめた。
「急いで恋人を作る必要は無いんだから、焦る必要は無い。急いでも失敗するだけだ。ユーリに失敗はして欲しく無い」
「分かった」
 誕生日まで時間が無いのだが、オタベックの言う通りであるとユーリは思った。納得していると、オタベックが寂しそうな顔へとなる。恋人ができると、友達を取られてしまうかもしれないと思っているのかもしれない。
「恋人ができても一番はお前だからな」
「そうか」
 喜ぶと思って言ったのだが、面食らった顔へとなった後困ったようにオタベックは言った。
 そんな言葉など望んでいなかったのだろうか。それならば何故、先ほど寂しそうな顔へとなったのだろうか。その事を疑問に思うだけで無く、侘しいと思っているのでは無い事に胸が苦しくなった。
 オタベックにそんな気持ちになって欲しいと決して思っている訳では無い。それなのにそんな気持ちへとなってしまったのは、そんな風に思っていないと思いながらも寂しいと思って欲しいと思っているのだろう。
 強くクッションを抱きしめたユーリは、この後暫くオタベックと話をした後自宅へと戻った。

04.ムカデのかいもの

 賑やかな音楽が聞こえて来ている。クラブの奥にあるバーカウンターにある椅子へと腰を下ろし、ユーリは頬杖をついていた。
 この店にはVIPシートもある。VIPシートがある店に行った際は、VIPシートを取るようにしている。それは、VIPシートを取ったぐらいでは懐が痛まないからだけでは無い。サンクトペテルブルクでは顔が売れているのと、人目をひく外見をしているので店の中で目立ってしまうからだ。
(とうとう明日か)
 ユーリは手に持っているグラスをテーブルに置く。自然と力が入ってしまい、かつんという音が聞こえて来た。
 明日で三十歳へととうとうなってしまう。
 あれからオタベックに何人か紹介して貰った。オタベックが紹介してくれたのは、性格や容姿が多様な者である。勿論、オタベックが素性の分からない者や性格に難がある者をユーリに紹介する筈が無い。皆身元がしっかりとしていて、話すと性格が良いと感じる者ばかりであった。
 しかし、どの相手と会っても好きになりそうであると思う事が無かった。性格が良いと思うのに、好きになる事ができないときっぱり判断する事ができる事が不思議である。普通ならば、可能性を感じる筈だろう。
(俺が好きになる奴ってどんな奴なんだよ)
 不意に浮かんだ疑問は、今まで何度も考えた事があるものである。どんなに考えても今まで何も浮かばなかった。今も悩んでも答えが出る事は無かった。
(あーもう考えんの止めよ。明日までに恋人作るなんてどう考えても無理だろ)
 出会って直ぐに恋人になる事はできない。明日までに経験をする為には、声を掛けて来た相手と寝るしか無いだろう。付き合ってもいない相手とそういう事をするのは抵抗があるが、諦めるしか無いだろう。
(誰か声掛けて来いよ)
 ユーリがVIPシートを取らなかったのは、バーカウンターにいた方が声を掛けられ易いからだ。待ってばかりでは駄目だという事は分かっている。気になった相手に自分から声を掛けた方が良いのだという事は理解している。しかし、今までそんな事をした事が無いので、勇気が出ない。
 今まで声を掛けて来た相手に対して鬱陶しいとしか思った事が無いのだが、今はよくそんな勇気があるなという事を思っている。相手にされないかもしれないと思い不安にならないのだろうか。そんな事にはならないという自信があるのだろうか。
「隣良い?」
 頭を悩ませていると、漸く声を掛けられた。
 声を掛けて来たのはユーリと年齢が余り変わらない男であった。返事をしていないというのに勝手に隣に座った男は、派手な見た目をしており全く好みでは無い。どんな相手が好みなのかという事は分からないのだが、それでもそう言い切る事ができる。
「何飲んでんの?」
 外見からだけで無く、口調や表情から軽い男なのだという事を察する事ができた。軽薄な性格をしている者は男女問わず苦手だ。
「ライムジュース」
「そんなの飲んで無いで、テキーラとか飲もうよ」
 馬鹿にしているつもりは無いのかもしれないが、子供であるというような口調で男は言っていた。苛立ったが、テキーラがアルコール度数の高い酒である事ぐらい知っている。その為、何を言われてもそんな物を飲むつもりは無い。
「飲みたいんなら勝手に飲めよ」
「じゃあ、俺が奢るからさ」
 男は今にも酒を注文しそうな態度である。止めなければ勝手に注文してしまいそうであるので、止める事にした。
「俺は酒は飲まねえぞ」
「分かったって」
 隣に座っている男が奥にいるバーテンダーを呼び止めた。店内に大きな音で音楽が掛かっているので、男がバーテンダーに何を頼んだのかという事が分からない。先ほど酒は飲まないという事を言っているので、それを頼むような真似はしないだろう。
 周りに酒癖が悪い者が多いので酒に良い印象が無く、成人になり酒が飲めるようになっても飲む事はしなかった。そのままユーリは飲まないつもりであったのだが、どうしても飲まなくてはいけない機会ができた。仕方なく飲んだ事によって、一杯でも泥酔してしまう程弱いのだという事を知った。
 周りと同じようになりたくないというのに酔っ払って醜態を晒した事を、翌日ずきずきと痛む頭を押さえながら後悔した。そして、もう一生酒は飲まない事を決めそれからは飲んでいない。
「時々この店いるよね。色んなところでDJしてる奴と一緒にいるの見た事あるんだけど、友達なの?」
 男が言っているのはオタベックの事なのだろう。曲を掛けている間は別々に行動しているのだが、それ以外の時はいつも店で一緒にいる。
「まあな」
 見ず知らずの相手にオタベックとの関係を詳しく話すつもりは無い。これ以上訊いて来ないように素っ気ない態度で返事をした。
「ずっと綺麗な顔してるなって思って、あんたのこと気になってたんだよね」
「そうか」
 言われ慣れている賛辞であるので、それを聞いても何の感情も湧き上がって来ない。喜ぶと思い言ったのかもしれない。軽く受け流した事を不満そうに男はしていた。
 今から声を掛けて来た相手と寝る事にしたが、こんな男と性交しなければいけないのだろうか。想像しようとした事によって嫌悪感がした。無理だとしか思えない。次に声を掛けて来た相手にした方が良いのでは無いのだろうか。そんな風にしか思えない。
「名前教えてよ」
「ユーリだ」
 名前を聞いて来た事から、男がユーリの事を知らないのだという事が分かった。それは、男がスケートに興味が無いという事である。この国の人間でスケートに興味があって、ユーリの事を知らない人間は皆無に近いだろう。
 この国では国を挙げてスケートに力を入れているが、国民全てがスケートに興味を持っている訳では無い事は分かっている。その為、男がスケートに興味が無いのだという事を知っても、その事に対して何か思う事は無かった。
「俺はルスラン。呼び捨てで良いから、ユーリ」
 自分は呼び捨てにして良いとは言っていない。敬称をつけろと思っている訳では無いのだが、勝手にそう呼ばれると苛々してしまう。不快であるという事を示そうと顔を顰めたのだが、ルスランは全くそれを気にする事は無かった。
 ルスランは無神経な男なのだろう。絶対に恋人にはしたくない男である。気遣いができて気が利くオタベックと正反対の男である。
(オタベックは友達だから付き合えねえってのに、なんで直ぐオタベックと比べちまうんだ)
 相手をオタベックと比べてしまったのはこれが初めてでは無い。オタベックが紹介してくれた相手は、男と女の両方がいた。男だけで無く異性である女性すらも、オタベックと比べてしまった。
「お待たせしました」
「そっちは俺の。もう一個は彼の前に置いて」
 ドリンクの用意を済ませたバーテンダーが、ルスランの指示通りにグラスを置く。ルスランの前にあるのはショットグラスである。先ほどテキーラを飲もうと誘っていた事と色から、そのグラスに入っているのがテキーラなのだという事が分かった。
 ユーリの前にあるグラスには、デマントイドガーネットのような緑色の液体が入っている。鮮やかな見た目からは、どんな味がするのかという事を想像する事ができない。
「乾杯しようか」
 グラスをルスランが差し出して来たので、乾杯をする事にした。グラスを手に取ると、ルスランが持っているグラスに軽くぶつける。味が気になりながらグラスに口をつけると、ぐいっと中に入っている緑色の液体を喉に流し込む。
 半分ほど飲むと、ユーリは眉間に皺を寄せながらグラスを口から離す。
「これアルコールじゃねえよな?」
 滅多にアルコールを飲まないのでそう断言する事ができないのだが、グラスに入っているのがアルコールであるように感じた。微かに口や喉が熱くなっている。
「アルコールじゃ無いって。ほら、飲んで」
 熱くなっているような気がしたのだが気のせいなのかもしれない。ルスランに促されるままグラスの中に入っている中身を飲み干すと、体温が急に上がりまるで体中の血が沸騰しているようになった。力が入らなくなり、大きく体が揺れてしまう。
「危ない」
 椅子から落ちてしまいそうになると、横からルスランに体を支えられる。頭が回らなくなっており、助けて貰った事に対して何も思う事ができない。それだけで無く、何故急にこんな風になってしまったのかという事を考える事ができない。
「これだけで酔ったのか? 強そうに見えたんだけど、まさかこんなに弱いとはな。まあ、良いや。酔っ払うのが悪いんだしな」
 何かルスランが言っているのは分かったのだが、それを音としてしか捉える事ができない。何を言っているのかという事が分からないのだが、今は何を言ったのかという事が気にならなかった。
「トイレ行こうか」
 ルスランが歩き出したので、ユーリは体を預けたままその場を離れる。
 まるで水の中に浮かんでいるようである。ふらふらと歩きながら廊下まで出た事によって、熱気に満ちている中よりも冷たい空気が肌に触れる。それを気持ち良く思っていると、壁に体を押しつけられた。
 固く冷たい壁に体を預けていると、ルスランが体を密着させて来る。体に触れている他人の体温を気持ち悪く思っていると、ルスランが体をまさぐり始めた。何故そんな事をしているのだろうと思うだけで、それ以上の事を考える事ができない。
 なすがままになっていると、太股の内側や脇などという普通は他人が触らない場所を撫でられる。
「ん……やめろっ……」
 不快になり嫌がったのだが、ルスランは体を触るのを止めようとしなかった。
 首へと顔を埋めたルスランの唇が肌に触れる。不快感によって肌が粟立ち体を揺らすと、目眩がした。動く事ができなくなっている間も、ルスランは肌へと唇を重ねたままであった。まるで肌に湿ったカタツムリが這っているようで不快だ。
「やだ」
 嫌だという言葉を最後まで口にする事はできなかった。ルスランの体が離れたと思うと、勢いよく横に飛んでいったからだ。目を丸くしていると、ルスランをユーリから引き離したオタベックと目があう。
「ユーリ。大丈夫か?」
「何でここにいんだ」
 突然の出来事によって先ほどまでよりも少し熱が下がり頭が回り出した事により、オタベックがここにいる事を不思議に思った。ここにはオタベックと共に来ているのだが、今はDJをしている筈である。
「ユーリが連れて行かれてるのが見えたから、放り出してここまで来たんだ。何故弱いのが分かっていながら飲んだりしたんだ?」
 オタベックは今まで見た事が無いほど険しい剣幕である。普段ならばこんな事ぐらいで泣くような真似は絶対にしない。それなのに瞳に涙が溢れてしまったのは、アルコールによって涙腺が弱くなっていたからだろう。
「だって……酒だって知らなかったんだよ」
「ユーリ」
 瞳から溢れている涙を手で拭いながら言うと、オタベックの狼狽した声が聞こえて来た。そんな声を聞いても涙を止める事ができない。しかも泣いているうちに感情が高ぶってしまい、子供のように嗚咽を漏らしながら泣いてしまう。
「ユーリ、泣かないでくれ」
「だって……ひっく……オタベックが怒るからっ」
「すまなかった。何も事情を知らず君を怒った俺が悪かった。だから泣かないでくれ」
 しゃくり上げながら告げると、優しい声で宥められた。
 気持ちが落ち着き涙が止まる。まだ頬に流れ落ちたままになっている涙を拭おうとすると、オタベックの手が伸びて来る。頬へと触れようとしているのだという事に気がつき顔から手を離すと、オタベックに涙を指で拭かれる。優しくされた事によって、今度は嬉しくなり目尻を下げる。
「泣き止んだな」
 オタベックの質問に対してユーリは首を縦に振る。
 安堵したように息を吐いたオタベックに腰を抱かれる。先ほどルスランに同じように体を引き寄せられた時には何も感じなかったのだが、今はオタベックの体温を感じ安心する事ができた。相手がオタベックであるので、そんな風になったのだろう。
 オタベックの視線が床に座り込んだままになっているルスランに向かう。
「酒を飲ませてユーリをどうするつもりだったんだ?」
「悪かったって」
 オタベックの声色は怒気を纏ったものであるというのに、ルスランはおどけた態度であった。
 ルスランがそんな態度でいられるのは、オタベックがこんな風に怒るのが珍しい事である事を知らないからなのだろう。オタベックが大らかでそう簡単に憤慨しない事を知っているユーリは、怒りを向けられているのが自分では無いというのに顔が強ばる。
「名前は?」
「何で言わなきゃいけねえんだよ」
 名前を知られると困る事になるという事は分かっているようだ。
「ルスランだ」
 オタベックが一層憤っているのを感じ、これ以上怒らせない為にユーリは口早で質問に答えた。
 ルスランから余計な事を言うなという視線を向けられる。睨み付けられてもユーリは全くそれを気にしなかったのだが、そんなルスランの行動が原因でオタベックの怒りが限界を超えたようだ。
 オタベックが殺気を放っている事に気がつき狼狽えていると、オタベックがユーリの体を解放する。ルスランの元まで行ったオタベックが体を乱暴に蹴り始める。
「わっ、何すんだ!」
 ルスランが慌てふためいていたのだが、それを気にせずオタベックはまるでボールを蹴るようにして体を蹴っていった。衝撃により体を動かす事になったルスランと共に廊下の端まで行くと、オタベックは勢いよく壁に足を置く。
「うわっ!」
 がつんという大きな音の後に、ルスランの悲鳴に近い声が聞こえて来た。ルスランは目を見開いて硬直している。
「ルスラン。ユーリに二度と近づくな。この辺りのクラブにはもう出入りできないようにしておいてやる」
 オタベックの声は地を這うような低いものであった。平常時でも低いオタベックが出したそんな声は、じんと恐怖が背骨に響くようなものであった。
 オタベックが壁から足を退かせても、ルスランはまだ呆然とした様子のままである。ルスランの元を離れたオタベックがユーリの元に戻って来た。
「ユーリ、帰ろう」
 衝撃的な出来事によって反応する事ができずにいると、オタベックに腕を掴まれる。
「あ、ああ……」
 漸く我に返り返事をするとオタベックが歩き出したので、ユーリもその場を後にする。
 ルスランはまだ床に座り込んだまま呆然とした顔になっていた。直ぐには正気を取り戻す事ができないほど、先ほどの出来事は恐怖を感じるものであったのだろう。

05.赤い靴

「ユーリ、大丈夫か?」
 車を運転していたオタベックが、停車をすると共に声を掛けて来た。
「大丈夫」
 オタベックに助けられた後頭が動くようになったので完全に酔いが覚めたのだと思っていた。しかし、クラブを離れ車に乗る事によって、まだ完全に素面には戻っていなかったのだという事をユーリは知った。再び頭の動きが鈍くなってしまった。衝撃的な出来事が原因で、一時的に頭の中が鮮明になっていただけのようだ。
「気持ち悪くはないか?」
「気持ちは悪くない」
 オタベックは常に安全運転であるのだが、更に運転に気を遣ってくれたのだろう。普段よりも家に戻るまで時間が掛かっていたが、全く車が車が揺れていなかった。車酔いをしなかったのは、それが理由なのだろう。
「良かった。降りれるか?」
「大丈夫」
 シートベルトを外し助手席から降りようとすると、オタベックもシートベルトを外した。まだ足下が覚束無いのでふらふらしてしまう。車から降りると、先に降りたオタベックが助手席までやって来ていた。
「歩けるか?」
「歩ける」
 歩けると言ったのだが不安に思ったのだろう。オタベックに肩を抱かれる事になった。不快では無かったので、そのまま体を預けて車を離れる。
 ユーリは建物を見て、やって来たのがオタベックが暮らしているマンションであるのだという事を知った。ここまでは車で来ている。酔いが覚めても車を運転する事に不安がある。今日は泊めて貰い明日帰った方が良いだろう。
(明日も休みで良かったぜ)
 偶然明日も練習が休みであった事に感謝しながら、エレベーターに乗りオタベックの部屋がある階まで行く。部屋の前まで行くと、錠前を解除したオタベックと共に中に入る。鍵を閉めたオタベックに体を支えられたまま、ベッドまで連れて行かれる。
「水を取って来る」
 ユーリをベッドに寝かせると、オタベックはキッチンへと向かって歩き出した。時間が気になり、ベッドに体を預けたままズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
(もう時間がねえじゃねえか……)
 スマートフォンの時計は、あと一時間で誕生日を迎えてしまう事を示していた。
 あと一時間で相手を探すなどどう考えても無理だ。酔いが覚めるまでに一時間掛かりそうだ。こんな状態で出て行こうとすれば、オタベックに止められるだろう。ユーリの事を心配して制止しているオタベックの言葉を無視する事などできない。
(妖精になるしかねえのかよ……。妖精かよ……。そうだ。オタベックなら)
 オタベックならば頼めば抱いてくれそうである。
 今まで誰かとそういう事をする事を考えると、顔を顰めてしまうだけであった。しかし、オタベックと性交する事を考えてもそんな風になる事は無かった。できそうだと思うだけである。
「ユーリ」
 声を掛けられた事によって、オタベックが戻って来たのだという事を知る。ユーリはスマートフォンから手を離すと、倒していたままになっていた体を起こす。
「なあ、俺とやらねえか?」
 言い終えると同時にオタベックが困惑した様子へとなる。こんな事を長年の付き合いのある友人から突然言われれば、そんな風になるのは当然だろう。それなのにオタベックの反応を見て頬が緩んでしまうような気持ちへとなったのは、ユーリが何を言ってもいつも平然とした態度であるからだ。
 ユーリは目を眇めながらオタベックの腕を掴み立ち上がると、自分の物よりも厚いオタベックの唇に自分の唇を押しつける。今まで機会が無かったので、誰かと唇を重ねるのはこれが初めてである。恋人になった相手とそれはするのだと思っていた。まさかその相手が、オタベックになるとは思っていなかった。
 予想外であるとは思ったが、その事を後悔はしていない。そして、不快になる事は無かった。重なったままにしていた唇を離すと、オタベックが険しい顔をしている事に気がつく。
 怒らせてしまったのだろうか。その反応は予想していなかったものである。頭が普段よりも回らなくなっているので気がつかなかったのだが、友人。しかも同性から何の前触れも無く突然唇を奪われれば、憤慨する者もいる筈である。
 先ほどの行動を謝罪しなくてはいけないと思っていると、その前にオタベックの腕が背中に回って来た。
「んぅ」
 ぐいっと体を引き寄せられたと思うと、再び唇にオタベックの唇が重なって来た。先ほど自分から唇を重ねたのだが、突然そんな事をされると驚いてしまう。目を丸くしていると、重なっていた唇が軽く離れる。
 再び唇が重なって来た事に慌てていると、何度も唇を塞がれる事になった。緊張した状態が続いたからなのだろう。酔っているからという理由とは別の理由で、頭が回らなくなる。
「ふっ……んっ……ん……」
 深く唇を重ねて来たオタベックが、体を撫で始める。オタベックの手が触れている場所から体の中に甘い痺れが広がっていく。オタベックに何度も触られているが、こんなものを感じたのはこれが初めてだ。
 ユーリが戸惑っている間もオタベックは、体を撫でたままになっていた。体が火照っている。灼熱の中にいるようであると思っていると、重なったままになっていた唇が離れる。
「俺はずっと我慢していたんだぞ」
 頭がまだ正常な状態へと戻らずぼんやりとしていると、オタベックが吐露するようにして言った。
 どういう意味なのかという事が分からなかったので、ユーリはその言葉の意味を確かめようとした。しかし、その前にベッドに体を背中から倒す事になった。直ぐにオタベックが体をまさぐり始めた事により何も言えなくなってしまった。

「んっ……ふ……」
 ただ体を触られているだけであるというのに、劣情が体の中に渦巻き気分が高揚する。息を乱していると、脇を撫でられる。
「はっ……ん……」
 口から出た声は、そんな声など聞いた事が無いような淫らなものであった。困惑していると、もう片方の手が円を描くようにして胸の上で動く。
「ん……」
 手の平で何度も胸の中心にある乳首を撫でられると、柔らかであったそこが固くなり尖る。敏感になっている乳首を捏ねるようにして触られると、そこがむずむずとして来る。乳首にそんなものを感じたのは初めてである。
「あっ……ん……っ!」
 オタベックの手の動きに合わせて甘い吐息を零していると、下肢の中心を掴まれた。そんな場所を触られるとは思っていなかったので驚きから声が出そうになった。狼狽していると、そこを掴んだままオタベックが手を動かし始めた。
「ん……あっ……はっ……」
 性欲が薄いのか自分でそこを触る事は滅多に無い。その際に感じた快楽と、今迫って来ている快楽は全く種類が違う。全く予想できない動きをする手に自然とユーリの意識は向かう。
「はっ……イきそ……ん……」
 体の中で煮詰まったものが今にも溢れてしまいそうになっている。そのまま流されてしまうつもりであったというのに、達する前に手が性器から離れた。
「なんで……? えっ」
 何故止めたのだろうかと思うと共に止めて欲しく無かったと思っていると、オタベックに手早くズボンのベルトを外し釦を外される。息を飲んでそれを見詰めていると、ジッパーを下ろしたオタベックがするりとズボンの中に手を入れて来た。
 下着の中に手が入る。その手がどこに向かっているのかという事が分かっていたので、期待してしまう。それだけで無く、今まで他人に触られた事が無い場所を触られようとしているのだと思うと、焼き付くような熱さを感じていた。
「はっ……!」
 性器へと手が触れると体の芯が震えた。体を硬直させていると、性器を掴んだオタベックがその手を上下に動かす。ゆるゆると動いている手は、敏感な裏筋を重点的に撫でていた。
「んぅ……あっ……イきそ……はっ……」
 先ほど達してしまいそうになっていたので、再び限界になるのは早かった。ズボンの上から触られるよりも、直接触られた方が刺激が強かった。下肢の中心に意識を集中させ絶頂に上り詰めようとしていると、性器から手が離れズボンからその手が出ていってしまった。
「えっ……なんで」
「下着とズボンが汚れてしまう」
 汚してしまわないように配慮して、オタベックが触るのを止めたのだという事が分かった。再びそこを触って欲しいという焦燥感に耐えていると、上着を脱がされる。続いてズボンとその下に履いている下着も脱がされた事により、ユーリは素裸へとなった。
 オタベックの家に何度も泊まっているので、今まで幾度も何も身につけていない状態を見られている。その際全く気恥ずかしくならなかった。しかし、今は心許ない気持ちへとなっているのは、状況が違うからなのだろう。
「ん……あっ……ん……」
 下肢の中心へと視線が向かったと思うと、そこを掴んだオタベックに性器を擦られる。オタベックの視線は、ユーリの下肢の中心へと向かっている。オタベックに恥ずかしい場所を見られているのだと思うと、それを恥辱に思うだけで無く興奮した。
「あっ……んぅ……イく……んぅ!」
 体を内側から責め立てていた熱を放つと、オタベックが性器から手を離した。
 ベッドを離れたオタベックが、サードテーブルの中から何か取り出す。オタベックの手にあるのは、化粧品のローションを入れているボトルに似ている。この状況でそんな物を取り出す必要は無い。見た目は似ているが、ローションでは無いのだろう。
「ユーリ」
 ベッドに戻りボトルを置いたオタベックに腕を引っ張られる。なすがままになっていると、ベッドの上で四つん這いの格好へとなった。背後にいるオタベックが気になり振り返ると、双丘の間を撫でられる。
「ん」
 双丘の間で行き来している手は何かで濡れていた。先ほど手に持っていたボトルの中に入っていた物なのだろう。オタベックが手に付いた物を塗り込めている場所は、他人に今まで見せた事が無い場所である。
 そんな場所を見られるだけで無く触られ、顔が熱くなってしまうほどの恥辱がした。しかし、オタベックの手をそこから離そうとするつもりは無い。オタベックに体を任せていると、指が双丘の中心で止まった。
 丹念に窄まりへと液体を塗り込めたオタベックの指が、その中へとするりと入って来る。
「んぅ……ん……」
「痛いか?」
「痛くはねえけど気持ち悪い」
 オタベックが指を沈めている場所は、本来は排泄器官であって異物を受け入れる場所では無い。異物感が体内にしていた。
「こっちに意識を向けていてくれ」
「あっ……ん……」
 白濁を放った事により萎えている性器を掴んだオタベックに、手の平でそこを擦られる。先ほど達したばかりであるのだが、そんな風にされると感じてしまう。
(やべ……はまりそ……)
 快楽に自分がこんなにも貪欲であった事を知らなかった。自慰など月に一度すれば満足していたので、性欲が淡泊なのだと今まで思っていた。そうでは無く、自分でするとそれほど気持ち悦くないので、したいと思えなかったのだという事が分かった。
「はっ……んぅ……」
 体内で指を抽挿させていたオタベックが指の数を増やす。二本に増えた指がぐるりと体内で回る。何度もそれを繰り返される事によって違和感が薄れる。その事から、固い体内を解す為にオタベックが体内をかき混ぜているのだという事が分かった。
「増やすぞ」
「ん」
 指が三本に増えても違和感が強くなる事は無かった。
 最初は異物が刺さっているような感じがしていたのだが、今はそれが体に馴染んでいた。後ろで抜き差しを繰り返している指の存在が気にならなくなって来たので、ユーリは前を触っている手だけに意識を向ける。
「はっ……あっ……ああっ……」
 先ほどは直ぐに快感が高まり性を放ったというのに、今度は射精感がなかなかしないのは吐精したばかりだからなのだろう。しかし、このまま感じる場所を触られ続ければ射精する事ができる筈だ。
 体の中で熱が強くなっているのを感じていると、体内に埋まっている指が腹部の方向をぐいぐいと押し込める。
「んぅ……あっ……」
 まるで何かを探しているかのように、指が粘膜を押し込めながら動いている。何をしているのだろうかという事をぼんやりと思っていると、体が自然と反り目を見開いてしまうような鋭い痺れが体に走った。
「あっ……そこ……あっ……」
「ここみたいだな」
 ぐいぐいと先ほど押し込めた場所をオタベックが押し込める。
「やだっ……んぅ……そこやめろ……」
 オタベックが体内を押し込める事によって体を襲っているのは、今まで経験した事が無いほど強い刺激である。瞳に涙すらも浮かんでしまうようなそれに耐えることができず、ユーリはオタベックから逃げようとした。しかし、腰をもう片方の手で掴まれる事になった。
「やぁ……離せ! やだっ……やぁ!」
 体を大きく捩り、ユーリは離れる事ができないように腰を掴んでいる手を離そうとした。しかし、オタベックの手がそこから離れる事は無かった。
 意識が塗りつぶされていく。何も考える事ができずただ悲鳴に近い嬌声を口から零していると、体の中で限界まで大きくなっていたものが弾ける。
「あっ……!」
 ぶるぶると体を顫動させながら熱を放つ。限界になっていたものが溢れていっているようだ。
 頭を真っ白にしていると、快楽の波が体からひく。まだ何も考える事ができない。虚ろな瞳をして体から力を抜き、崩れるようにしてベッドに倒れ込む。その時、体内に埋まったままになっていた指が出ていく。
 肩で息をしていると後ろから肩を掴まれる。ぐいっと体を引っ張られた事によって、ユーリはうつ伏せの格好から仰向けの格好へとなる。ぼんやりとオタベックを見詰めていると、身につけている衣服を脱ぎ始める。
 最初はそれを何も考えずただ見詰めていたのだが、頭が回り始めるようになったからなのだろう。恥ずかしくなって来た。オタベックの裸など今まで何度も見ている。恥ずかしがる必要は無い。照れる方がおかしいと思ったのだが、気持ちを落ち着ける事ができない。
「……あ」
 最後の一枚である下着をオタベックが下ろした事により、平常時よりも大きな物が現れた。オタベックのそこは普段から威風堂々としていたのだが、今は威圧感すらも感じてしまう。
「良いか?」
 下肢の中心から目を離す事ができずにいると、オタベックから声を掛けられた。
「え……ああ」
 一瞬何の事を言っているのかという事が分からず返答が遅れてしまった。今の状況から、それで体内を貫いても良いかという事を訊いているのだという事が分かった。
 指とは比べものにならない大きさをしたそれを体内に沈められれば、苦しい思いをする事になるだろう。それが分かっていたのだが、全く嫌だとは思わなかった。それは、妖精になりたくないからだけでは無い。何故なのかという事は分からないのだが、オタベックを求める気持ちがあったからである。
 緊張から息を飲んでいると、足の間に入って来たオタベックが昂ぶりの先端を後孔に宛がう。先ほどまで指を受け入れていたそこはまだぽっかりと開いたままになっている。しかし、オタベックの物を難なく受け入れる事ができるほど開いているとは思えない。
 これから体を襲う事になるだろう苦痛を想像すると体が硬くなってしまう。息を詰めていると、優しく額を撫でられる。微かに気持ちが落ち着き体から力を抜くと、オタベックが大きな肉の塊を体内に潜り込ませて来た。
「――っ!」

06.星の銀貨

 かちゃかちゃという物音が少し離れた場所から聞こえて来ている。その音を聞きながら眠っていると、今度は美味しそうな匂いがしてきた。食欲をそそるそんな匂いは、ユーリを現実世界へと追い立てるようなものであった。瞼を閉じたままでいる事ができなくなり、ユーリは目を開く。
 部屋の明るさから昼近い時間へとなっている事が分かった。否、もう真昼へとなっているのかもしれない。漂って来ているのは朝食の香りなのだと思っていたのだが、昼食なのかもしれない。体を起こすことによってユーリは、自分が眠っていたのが暮らしているマンションの寝室にあるベッドでは無い事に気がついた。
(……あ)
 オタベックのベッドで眠っている事に気がついた事によって、昨晩の出来事を思い出した。
 予想通り大きな物を受け入れる事によって、息をするのすらも辛いほどの苦しみを味わう事になった。何度も体内で性器を抽挿される事によって多少は苦しさが和らいだのだが、指で粘膜を押し込められた時のように感じる事は無かった。
 ただ苦しいだけであったというのに、オタベックが欲望を放つと満足感がした。それは、自分だけで無くオタベックも感じたのだという事が分かったからだ。
(これで妖精にならずに済んだ)
 昨日と体に変わったところは無いので、妖精にはなっていない筈である。人間のままである筈だ。その事に安堵していると、足音が近づいて来た。
「起きたのか。昼飯の準備が終わったら起こそうと思ってたんだ」
 ユーリは思っていた通り昼食の時間になっていたのだという事を知った。オタベックの部屋には壁時計がある。頻繁にこの家にやって来ているのでその事を知っていたので、時計に視線を遣る。時計の針はもう直ぐ十二時になる事を示していた。
 こんなにも遅くまで眠ってしまったのは久しぶりである。現役時代は練習が休みの日は昼過ぎまで寝ている事が多かったのだが、今は十時には起きるようになっている。体力の消耗が違うからなのだろう。久々にこんな時間まで寝てしまったのは、昨晩の行為で疲れていたのとアルコールを飲んだからなのだろう。
「お前が起きた時に起こしてくれたら良かったのに」
「よく眠っていたから、起こすのが可愛そうだったんだ」
 オタベックは気を遣ってくれたようだ。頬を緩めていると、側に立っていたオタベックがベッドの端に腰を下ろす。
「そっか。今日の昼飯は何だ?」
 世界各国を転々としていた事があるオタベックは料理が得意である。そんなオタベックが作った物を何度も食べた事があるのだが、どれも美味しかった。今日用意してくれた物も、夢中で食べてしまうような味なのだろう。そう思うと、今日の料理が気になった。
「今日は夏野菜のパスタにしてみた。後は大根と挽肉のナンプラースープだ」
 ナンプラースープという名前を初めて聞いた。
「ナンプラースープって何だ?」
 言いながらユーリは、まだ服を脱いだままである事に気がつき服を探す。服はベッドの横にあるサイドテーブルの上に畳んで置いてあった。何もせず寝てしまったので、オタベックが畳んでくれたのだろう。
「ナンプラーはタイの調味料で、それを使ったスープの事だ。さっぱりとしていて酸味が効いていて美味しい」
「へー」
 服を取りに行こうとしたのだが、オタベックがその前にその事に気がついたようだ。ベッドから腰を上げたオタベックは、服を手に取ると差し出して来た。
「サンキュ。夏野菜って何が入ってんだ?」
 スープの味も気になったが、パスタの事も気になった。
「ズッキーニとパプリカと茄子だ」
「あ、それ美味そう」
 聞いただけで口にじわっと唾液が溢れた。
 食事の事を考えながら、シーツの上に置いた服を着ていく。その途中、性交の際に体液が体に付着していた事を思い出した。その後、体内にオタベックが白濁を放っていた事も思い出した。しかし、肌にも体内にも体液が残っている感じがしない。
「もしかして後始末してくれたのか?」
 自分で何もしていないというのに体に体液が付着していないという事は、そうであるとしか思えない。
「ああ。寝てしまっていたからな。そのままだと気持ちが悪いだろうと思って」
「そっか。昨日は悪かったな」
 オタベックに無理な事を頼んでしまったという自覚はある。そして、そのことについて申し訳ないという気持ちは持っている。昨晩経験した快楽は再び体が欲してしまいそうなものであったが、オタベックと再度そういう事をする事はできない。オタベックは親友であるからだ。
 ベッドに腰を下ろしたオタベックの手が伸びて来る。何をするつもりなのだろうかと思っていると、昨晩欲望を体内に潜り込ませる前にしたように額を撫でられた。何故そんな事をしたのだろうかと撫でられた瞬間は思っていたのだが、その手が肌を撫でながら頬へと移動するとそれよりも気持ちが良くなってしまう。
 目を細めていると、オタベックと目があった。
「結婚を前提に付き合って欲しい」
「……っ!」
 頭の中が真っ白になるような台詞であった。
 何か言わなくてはいけないと思い口を開いたのだが、混乱してしまい言葉が出ない。オタベックはそんなユーリが落ち着くのを待っていた。一頻り動揺した事により沈静して来た。漸く頭が回るようになり、ユーリはどうしてそんな事をオタベックが言ったのかという事を考えた。その結果、昨晩の事が原因でそんな事を言ったのかもしれないと思った。
 責任感のある性格をオタベックはしている。その為、そんな考えに至ったのだろう。
「あれは……妖精になりたくなかった俺が強引に誘っちまったからで。だから、お前が責任を感じる必要なんかねえ。昨日の事は忘れてくれて良いから」
 オタベックに経験が無いという事を今まで告げた事が無い。しかし、長年共にいるのでその事に気がついている筈である。それでも、未経験であるという事を示唆する台詞を口にする事に照れ、妖精になりたくなかったと言う声が自然と小さくなってしまった。
「妖精?」
 オタベックが怪訝な顔へとなっていた。三十歳までそういう経験が無ければ妖精になってしまう事を自分はミラに言われるまで知らなかったが、オタベックがその事を知らないとは思えない。通じなかったのは、言葉足らずであったからだろう。
 どういう事なのかという事を言った方が良いのかもしれないと思っていると、オタベックに体を抱きしめられる。
「え……?」
「どんな理由でも良いんだ。やっとユーリを手に入れる事ができたんだ、忘れる事なんてできる筈が無い。――ずっと好きだったんだ」
 困惑していると、更に慌てふためいてしまうような事を告げられた。
「え……あ……」
 オタベックから好きだと言われた。この状況を考えると、それは友人としてでは無い事は間違い無い。恋愛感情として好きだという事である。
「えっ……じゃあ、何で俺に恋人候補を紹介するなんて真似したんだ? 普通は、好きな相手に恋人なんてできて欲しく無いって思うだろ」
 確認をしたのはオタベックの言葉を疑っているからでは無い。オタベックはそんな人を傷つける恐れのあるような冗談は言わない。その事を不思議に思ったからである。
「ユーリが俺の事を友達としか思っていない事を知っていたからだ。ユーリに恋人ができれば諦められると思っていたんだ。だが、抱いてしまった今はもう何があっても絶対に諦める事はできなくなった」
 体を抱きしめていた腕の力が緩んだので、ユーリはオタベックから体を離す。
「今もユーリは俺の事をまだ友達だとしか思って無いだろう。それでも良い。それでも良いから俺と恋人同士になってくれ」
 ユーリを見詰めながら言っているオタベックの眼差しは真摯なものであった。そんな相手にはぐらかすなどという真似はできない。ユーリは真面目にオタベックのその言葉について考えた。その結果出した答えを告げる前に、一つ確認しておく事にした。
「好きになるっていう保証は無いけどそれでも良いか?」
 ユーリはオタベックの言葉を受け入れるつもりであった。
 結婚を前提に付き合って欲しいという言葉を聞いた時、嫌な感情が湧き上がる事は無かった。それは、オタベックの事を好きになる事ができる可能性があるという事だ。それならば付き合った方が良いのかもしれないと思っていた。
「好きにさせてみせる」
 オタベックの声色は、本当にそうなってしまいそうだと思ってしまうようなものである。
「……分かった。だったら、お前と付き合う」
 こうしてユーリは、長年友人であったオタベックと恋人同士へとなった。

金の糸と虹
01.金のゆびわ

「つう訳」
 言い終えると同時にユーリは大きな溜息を吐いた。
 ユーリがこれまでのあらましをミラに伝えたのは、何度か来ているカフェである。オタベックと恋人同士になってから二ヶ月が経過した今日、以前から会う約束をしていたミラとここで会っていた。
「え……あの話マジにしてたの」
 現役時代よりも落ち着いた化粧をしているミラは、目を丸くして驚いていた。
「え? どういう事だよ」
「あんなの冗談に決まってるじゃない」
 全くその事を予想していなかった訳では無い。ミラの反応からそうなのかもしれないという思いがあった。それでも、オタベックを誘うという真似までしてしまったのですんなりとそれを信じる事はできなかった。否、信じたくない気持ちが大きかったので信じる事ができなかったと言った方が正しいだろう。
「嘘だろ!」
 ミラの言葉を聞き終えると同時に、勢いよくテーブルを叩いていた。
 テーブルの上にあるグラスが揺れがちゃんという音がした後、目を丸くしていたミラが抱いている子供が今にも泣き出しそうな顔へとなった。
「ごめんな。お前に怒ったんじゃねえから」
 このままでは自分が原因で子供が泣き出してしまう事になってしまう。ユーリは慌てて子供を宥めた。しかし、ユーリがそんな事をしても状況は変わらなかった。
「そうよ。ほら、泣かない。泣かない」
 泣き声を覚悟したのだが、ミラが体揺らしながら声を掛けると直ぐに元通りになった。
 ユーリは胸を撫で下ろした後、やはり母親で無ければ駄目なようだと思った。それは当然のことであるという事は分かっている。そして、母親であるミラに張り合っても無意味である事は分かっている。それでも負けたような気持ちになってしまったのは、負けず嫌いな性格が原因なのだろう。
 子供をあやすのを止めると、ミラの視線がユーリに戻る。
「冗談だったのかよ」
「普通信じないでしょ」
 そう言われると、性的な経験が無いぐらいで人間を止めなくてはいけなくなる筈が無いと思えてくる。
「早く気がつきゃ良かった」
 早く気がついていれば、オタベックに抱いて欲しいとねだるような真似はしなかった。それをしていなければ、こんな風に悩む事は無かった。ミラに今までの出来事を話したのは、オタベックとの事を相談したかったからだ。
「まあ、良いじゃない。収まるところに収まったんだから。オタベックはずっとあんたの事が好きだったんだから。ずっと見てて可愛そうだったんだよ」
「え……いつからあいつ俺の事が好きだったんだ?」
 オタベックは気持ちを告白した際に、やっとユーリを手に入れる事ができたと言っていた。その事から、つい最近好きになったのでは無いのだという事を推し量る事ができた。
 しかし、好きになったのはここ一、二年の間なのだと思っていた。それは、オタベックにそんな様子が無かったからだ。だが、ミラの発言はそれよりも更に昔からユーリに好意を抱いていた事を推し量る事ができるものであった。
「私が気がついたのは、ユーリがシニアデビューした年。いつユーリに気持ちを伝えるんだろうってずっと思ってたんだよね」
「それって、友達になったばっかの頃じゃねえか」
 オタベックと友人になったのは、シニアデビューをした試合の最中である。そんなにも昔から恋愛感情を抱かれていた事に欠片も気が付かなかった。
「友達になった時にはもう好きだったんじゃないの?」
「じゃあ、何で俺に友達になろうなんて言ったんだ」
 今まで態度が変わっていないという事は、その可能性は大いにある。しかし、まだそれをユーリが納得する事ができなかった理由は、その事を不思議に思ったからだ。好意を抱いていたのならば、友人になるのかならないのかと問うのでは無く、付き合うのか付き合わないのかと普通ならば言う筈だ。
「そりゃあ、その時点でそんな事言っても絶対に付き合う事なんかできないって事が分かってたからでしょう」
 確かにそうである。あの時付き合うのか付き合わないのかという事を訊かれていれば、その言葉に対して首を横に振っていただろう。まだよく知っていない相手と付き合う事など絶対にできない。
「まさかオタベックの気持ちに本当に気が付いて無かったとはね。少しぐらい気が付いてるんだと思ってた。あれだけあからさま態度だったのに」
 ミラは呆れたように言っていた。
「あからさまな態度? んな態度取ってたか」
 特別扱いされている自覚はあったが、好意を寄せられている事が明らかな態度をオタベックは取っていなかった筈である。鈍感では無いので、そんな態度を取られていればオタベックの気持ちに気が付いた筈だ。不思議に思っていると、ミラが顔を顰めた。
「あれだけあからさまな態度取ってたのに気が付かないとか凄いよね。みんなオタベックがあんたの事好きだって事にはずっと気が付いてたのに」
「えっ!」
 オタベックの気持ちに気が付いていたのはミラだけであると思っていたのだが、そうでは無かったらしい。
「みんないつオタベックはユーリに気持ち伝えるんだろってずっと言ってたんだよ」
「知らなかった……」
 皆からそんな事を言われていた事にも気が付かなかった。察しが悪い方では無いと思っていたのだが、オタベックの気持ちに気が付かずその事に全く気が付かなかったという事はそういう事になってしまう。
「オタベックには悪いことしてたんだな……」
 好きになって欲しいと頼んで好きになって貰った訳では無い。勝手に向こうが好きになっただけである。そう思いながらも、気持ちに気が付かなかった事により辛い思いをさせてしまった筈であると思う事によってユーリの胸は疼いた。
「その通りね」
 否定して欲しいと思っていた訳では無いのだが、ミラの言葉がユーリの胸に突き刺さる。
「オタベック以上にあんたの事を好きな相手が現れる事は無いと思うから、さっさと好きになってあげなよ」
「なれるもんならなりてえよ……」
 ミラが意外な返答であるという反応をした。
 そちらの方が良いという事など、ユーリも分かっている。元々大切に扱われていたのだが、恋人として付き合うようになってから更に甲斐甲斐しく世話を焼かれるようになった。オタベックの気持ちを知る以前ならば純粋にそれを喜ぶ事ができたのかもしれないが、今は好きになる事ができず申し訳ないという気持ちになるだけであった。
「オタベックは良い男よ?」
「んな事俺が一番よく知ってるよ」
 オタベック以上に誠実な男を知らない。オタベックの事を好きなれば幸せになる事ができる事は間違い無い。それが分かっていながらも友人としか思う事ができない己に苛立ちながら、ユーリはテーブルに置いてあるグラスを手にとった。
 今日頼んだのは、ストロベリーとアロエが入った甘くて美味しいアイスティーだ。甘露な味が胸に広がっていく状態は、オタベックに優しくされた際に感じるものに似ているとユーリは不意に思った。

 ニンニクスライスと唐辛子を炒めたフライパンに、野菜と香辛料を入れる。鶏肉をそこに入れると美味しそうな香りが鼻先に届く。
 ユーリがオタベックの自宅のキッチンで作っているのは、カチャトーラである。カチャトーラは野菜と鶏肉をトマト缶とワインで煮込むイタリア料理だ。それだけでは足りないので、他にベーコンとキノコと白菜を使ったクリームスープ。ベーコンをたっぷり使ったシーザーサラダ。ズッキーニとトマトを使ったチーズ焼きも準備している。
 もう一つのコンロで煮込んでいるクリームスープがぐつぐつと煮え始めたので火を止めると、にゃあと鳴きながらやって来たピョーチャが足に体を擦り寄せてくる。
「今は料理してっから駄目だ。後で相手してやるから」
 相手をして欲しいのだという事が分かっていたが、料理の最中である今は相手をする事ができない。言い聞かせたのだがまだピョーチャは足に纏わり付いたままになっていた。
「だから駄目だ。あっちでオタベックに遊んで貰いな」
「そうだぞ、ピョーチャ」
 オタベックの声が背後から聞こえて来たので振り返ると、ピョーチャを抱き上げていた。頭を撫でられピョーチャが気持ちが良さそうな顔へとなっている。ピョーチャは警戒心が強くなかなか他人に懐かないのだが、オタベックとは直ぐに仲良くなった。
「良かったな、オタベックに遊んで貰えよ」
 ピョーチャを抱いたままオタベックが離れていく。先ほどまでいたソファーに腰を下ろすと、オタベックがピョーチャと玩具で遊び始めた。オタベックが使っている玩具は、以前持って来て置いたままにしていた物である。
 オタベックがピョーチャの相手をしてくれているので、ユーリはさっさと食事の準備を済ませる事にした。
 今日は練習が休みであるので、ミラと別れた後一旦自宅へと戻りオタベックの自宅へとやって来た。自宅に戻ったのは、着替えを取りに行くのとピョーチャを連れて行く為である。その日中に戻る時はピョーチャを連れて行く事はしないのだが、一人で一日家で留守番をさせるのが可愛そうであるので泊まる際はいつも連れて行っている。
 カチャトーラができあがったので、皿に盛り付け最後に刻んだイタリアンパセリを掛ける。皿をオタベックがいるソファーの前にあるテーブルに運ぶと、オーブンからできあがっていたチーズ焼きを取り出す。それもテーブルに運ぶと、クリームスープができあがった。
 趣味の良い皿にクリームスープを盛り付け、パンを盛り付けた皿を運ぶ。パンはここに来る前に寄ったパン屋で買った物だ。美味しそうな見た目をしたパンを運んだ後、水とグラスをテーブルに運ぶ。
 今はピョーチャの相手をしているので手伝う事ができない事は分かっていたので、オタベックが食事の準備を手伝わない事に対して何か思う事は無かった。人に料理をさせて自分だけ寛ぐような男ではオタベックは無い。いつもは手伝ってくれるからというのも、気にならなかった理由の一つだ。
 恋人になる前は泊まるのは時折であったのだが、今は休みの日は必ずオタベックの所に泊まっている。以前までは泊まった際はオタベックに食事を作って貰う事が殆どであったのだが、頻繁に泊まるようになり作って貰ってばかりでは申し訳ないので、最近はユーリが料理をする事が多い。
 オタベックは気を遣わなくて良いと言ってくれたのだが、自分が作りたいのだと言うと渋々ながらも納得してくれた。最後にフォークとナイフを持ってテーブルに行くと、ピョーチャの相手をしていたオタベックの視線がユーリに向かう。
「できたぜ」
「美味しそうだな」
 目を細めながら作った料理を褒められると、嬉しさから自然と頬が緩んでしまう。
「前に作った時美味しかったから、間違い無く美味しいと思うぜ」
 カチャトーラに視線を遣りながら言ったが、他の料理も作った事がある物ばかりなので味に自信がある。しかし、失敗をしてもオタベックは不味いとは絶対に言わないだろう。プロでは無いので、全く失敗する事が無い訳ではない。以前、作った事が無い料理に挑戦した時に失敗した事がある。
 美味しく無いという事に事前に気が付いていれば出すような真似はしなかったのだが、見た目が美味しそうであったので味見をしなかったせいで食べる時点になって漸くその事を知った。一緒に食べていたオタベックに美味しく無いので食べなくて良いと言ったのだが、独特な味がしてこれはこれで美味しいと言って最後まで食べてしまった。
 オタベックの味覚が正常である事は、今までの付き合いから分かっている。美味しく無いと思いながらも、そんな風に言って全て食べてくれたのは間違い無い。その経験から、ユーリはオタベックに料理を出す前に必ず味見をするようになった。
 オタベックが玩具を横に置いたので、ユーリは持って来たフォークとナイフを差し出す。オタベックがそれを受け取ると、隣に腰を下ろし料理を食べ始める。
「ん、美味しいな」
 作っている最中に味見をしているのだが、それでも料理の味を確認してしまった。どれも美味しいと言い切る事ができる味である。
「ああ、美味しい」
 オタベックの様子は、お世辞でそう言っているのでは無く本心から言っているものであった。オタベックの言葉に満足と共に安堵しながら、ユーリはカチャトーラの残りを食べていく。
 カチャトーラに使った赤ワインは、先日オタベックが飲んでいた物の残りである。オタベックが赤ワインを残していたので、カチャトーラを今日は作る事にしたのだ。
 パンを時折食べながらカチャトーラを食べるとそれが無くなったので、クリームスープと食べ残りが少なくなっているチーズ焼きを食べる。
「美味しかった。チーズ焼きに使ったチーズ、お買い得になってた使った事ないやつ使ったんだけど、いつも使ってるやつよりも元値が高いからやっぱり美味いよな」
 既に食事を済ませピョーチャの相手をしているオタベックに言いながら、ユーリは使い終えたフォークを皿に置く。
「ああ、とても美味しかった」
 水を飲むとオタベックからピョーチャを受け取る。ピョーチャの頭を撫でていると、まるでここで暮らしているかのような気分になる。
「一緒に暮らさないか?」
「え……」
 オタベックがそんな事を考えていたのだという事に気が付いていなかった為、ユーリはその言葉に驚いた。戯れに言った言葉であるのかもしれないと思ったのだが、オタベックの顔が真面目なものである事からそうでは無いのだという事が分かった。
 オタベックと一緒に住めば楽しいだろう。考えるだけで胸が躍る。しかし、返事をする事ができない。それは、結婚を前提に付き合っている状況であるからだ。ただ一緒に暮らしたくてオタベックはそう言ったのでは無い筈だ。結婚をしようという意味で言っている筈だ。
「まだオタベックの事好きかどうか分からねえ……」
 曖昧な返事をすればオタベックに勘違いをさせる事になってしまうかもしれない。しかし、きっぱりと拒否すれば傷つけてしまう事になるだろう。そんな思いから声が小さなものへとなってしまった。
 こんな事ぐらいで怒るような器量の狭い男ではオタベックが無い事は十分に知っているので、憤慨するかもしれないという事を心配する事は無かった。申し訳なさそうな顔へとオタベックがなる。
「困らせてしまってすまない」
「オタベックが悪いんじゃねえ。俺が悪いんだ……」
 早くオタベックの事を恋人として好きになった方が良いという事は分かっているのに、そんな風になる事ができない自分をユーリは責めた。焦燥感に苛まれオタベックを真っ直ぐ見ている事ができず顔を伏せる。
「急ぎすぎた。いつまでも待っているから、ゆっくり俺の事を好きになってくれたら良い」
 聞こえて来た声は胸が熱くなるような優しい声色のものであった。
「分かった」
 頷いたがまだ気持ちが沈んだままになっていた。
 いつまでも思い悩んでいるべきでは無い。そんな事をオタベックは望んでいないので、思い煩うのは止めた方が良い。そう思いながらグラスを手に取り水を一口飲む。
 グラスを置きピョーチャを撫でていると、漸く気持ちが落ち着き悩むのを止める事ができた。
 使い終えた食器をオタベックが片付けてくれると言ったので頼むと、ユーリはピョーチャの相手をしながら戻って来るのを待った。

02.なぞなぞおばけ

 派手な光が天井から降り注いでいる。
 この曲は好みでは無い。オタベックが選ぶ曲に対して好みでは無いと思った事は無いのだが、他のDJが選んだ曲は好みでは無い物が多い。
 ユーリの好みにあわせてオタベックは曲を選んでいるのでは無い。その店の雰囲気や客層にあわせて選んでいるというのに、苦手であると思う曲をかけた事が無いのが不思議である。オタベックと曲の好みが似ているのかもしれない。
 似ているのはそれだけでは無い。味の好みも似ている。その為、オタベックが美味しいと言う物はユーリも味が良いと思う物ばかりだ。
 ユーリは口を付けていたグラスをテーブルに置くと、隣に座りシャンパンを飲んでいるオタベックに視線を遣る。
 今日このクラブには、オタベックの友人がDJをしているので来ている。オタベックと友人になってから、DJは人を集めなくてはいけないのだという事を知った。その為、DJ仲間にオタベックはイベントに来て欲しいと頼まれる事がある。今日もそんな理由からオタベックはこのクラブに来ていた。
「美味しそうだな」
「ああ、美味しい」
 ユーリがアルコールを飲めない事を知っているので、オタベックは飲むかという事を尋ねる事は無かった。
 オタベックが飲んでいるシャンパンは、このVIPシートとセットになっている物である。飲まないのでアルコールの事は詳しく無いのだが、良いシャンパンであるとスタフッフが持って来たボトルを見てオタベックは言っていた。従って、この店のVIPシートに付いているのは上等なシャンパンなのだろう。
 ユーリは手に持ったままになっているグラスを置くと、シートから見えるダンスフロアを見る。ダンスフロアから離れた場所にVIPシートがある店もあるのだが、この店は直ぐ側にあり踊っている男女をシートに座って眺める事ができるようになっている。
「今日はそれなりだな」
 この店には以前も来た事があるのだが、その時よりも客の人数は少なかった。
「そうだな」
「オタベックがやった方が絶対盛り上がるぜ」
 褒められるのは嬉しいが、今日DJをしているのが友人だからなのだろう。困ったようにオタベックは笑っていた。
 自分が選曲をした方が客を踊らせる事ができるとオタベックに認めさせようとすれば、困らせてしまう事になる事は分かっている。その為、認めて欲しかったが言葉を続ける事はしなかった。
 ユーリはオタベックと共にダンスフロアを眺めるだけで、そこで踊ろうとする事は無かった。それは、オタベックがDJをする店よりも年齢層が若いので、踊り難い雰囲気である事だけが理由では無い。
 オタベックにクラブに連れて行って貰える事ができるようになったのは、クラブに入る事ができるようになる十八歳になってからだ。それまでも勝手について行った事はあるのだが、いつも後で怒られていた。最初はダンスフロアで踊っていたのだが、目立つ容姿をしているのと有名であるので注目を集めてしまうので踊らなくなってしまった。
「そうだ」
 オタベックがポケットから取り出した物を差し出して来る。オタベックの手にあるのは、キーケースであった。
「ああ」
 ユーリはオタベックからキーケースを受け取る。
 オタベックがキーケースを差し出して来たのは、今日はユーリがここまで乗って来ている車を運転をして家まで戻る事になっているからだ。行きはオタベックが車やバイクを運転する事が殆どなのだが、オタベックが酒を飲んだ場合はユーリが運転する事になっている。
 オタベックは他人に自分の車やバイクを運転させる事を嫌がる。しかし、ユーリにだけは運転させてくれていた。オタベックに特別扱いされている自覚はあったのだが、それでもそんな風にその事を感じる事ができる出来事があると嬉しくなってしまう。
 ポケットにキーケースを入れると、反対のポケットからスマートフォンを取り出す。時間を確認すると二十四時になっていた。明日も練習が休みであるので、今日はこのままオタベックの家に泊まる事になっている。
(今日もやんのかな……)
 恋人として付き合い始めて、既に二ヶ月以上が経過している。その間、オタベックの家に泊まったのは八回ほどである。その度に体を重ねているので、既に八回も性交をしているという事になる。
(クソはずいんだけど気持ち悦いんだよな……)
 最初に体を重ねた時は全く恥ずかしくなかった。しかし、二度目は顔が熱くなってしまう程恥ずかしかった。初めてした時に全く照れなかったのは、アルコールを飲んでいたので感覚が鈍くなっていたからなのだろう。
 この後の事を考えると、羞恥がするだけで無く快楽を思い出しそれを期待してしまう。体を重ねたばかりの頃はその事に気が付かなかったのだが、オタベックとの行為で激しく感じてしまうのは丁寧に愛撫をしてくれるからなのだという事を知った。
 好きでも無い相手にわざわざそんな事をしない。快楽を欲する気持ちしか持っていないのならば、愛撫などおざなりにしかしない。激しい快楽を行為の度に感じるのは、オタベックから愛されているからだ。
(愛されてるよな)
 横目でオタベックを見ていると、不意に先日ミラと話した内容を思い出す。
 ミラに言われた事によって、友人になる前からオタベックに好意を寄せられていたのだという事を知った。それを思い出す事によって、いつから恋愛感情をユーリに持っていたのかという事が気になって来る。その事を尋ねる事ができそうな雰囲気だ。
「オタベックってさ。いつから俺の事好きだったんだ?」
「突然どうしたんだ」
 オタベックは顔を顰めていた。その事からこれは訊かれたく無い事であったのかもしれないと思った。この話は止めた方が良いのかもしれないとユーリは思ったのだが、ここまで話して止める方が不自然だろう。
「友達になる前からオタベックは俺の事が好きだったって、ミラから言われたからさ」
「ミラに何か言ったのか?」
 怒っているようには見えなかったのが、勝手に付き合っている事を話した事によりオタベックの気分を害してしまったのかもしれないとユーリは不安になる。
「オタベックと付き合ってること話しちゃ駄目だったか?」
「駄目では無い」
「だったらなんでそんな風に言ったんだ?」
 言っても問題が無い内容であるというのに、先ほどのようにオタベックが言った事をユーリは不思議に思った。
「ユーリが話すとは思って無かったからだ」
「何で?」
 オタベックと付き合っている事を隠したいと言った事や、そんな態度を取った事は無い。そんな風に思った事は無いからだ。その為、オタベックがそんな風に何故思ったのかという事が不可解である。
「ユーリは俺の事を好きだという訳じゃ無いからだ」
 まだ恋愛感情として好きでは無いが、友人としては好きだ。その言葉に対してそう言いたくなったのだが、オタベックが恋人としてという意味で言っている事に直ぐに気が付いたのでその言葉を飲み込んだ。
「そうだったら何で言わない方が良いんだ?」
 何故なのかという事が、オタベックの言葉を聞いてもまだ分からなかった。
「もしも俺の事をそういう風に好きになれないと思った時に困るだろ?」
「あ……」
 確かにその通りである。恋愛感情として好きになる事ができなかった場合、友達に戻る事になる。付き合っている事を他人に話していると、友人に戻った際に色々詮索される事になってしまうだろう。オタベックはユーリの事を考えて話さない方が良いと思ったようだ。
「そうだな」
 首を小さく縦に振ったオタベックが、テーブルに置いていたグラスを手に取る。シャンパンを飲んでいるオタベックの姿を見ているうちに、ユーリは先ほどの質問に対する返答を貰っていない事に気が付いた。
 話しているうちに話題が逸れてしまったので、質問を忘れてしまうという事をオタベックがするとは思えない。ユーリの質問を聞き疑問に思ったからという理由もあるのかもしれないが、返事をしなくないのではぐらかしたいという意図もあったのかもしれない。
 オタベックが言いたく無い事であるのならば、再度質問をするという真似はしない方が良いのだろうか。そんな気持ちと、いつから自分の事を好きなのかという事を知りたいという気持ちが胸の中で鬩ぎ合っている。一頻り考えた結果、もう一度だけ尋ねる事にした。それすらも話を逸らすようであれば、答えを聞くのを諦める事にした。
「さっきの質問」
「ああ」
 忘れていたというような態度でオタベックはグラスを置いた。本当にそうであるように見えるものであったが、その可能性は低いので態とそんな態度を取ったのだろう。
「初めて会った時からだ」
「初めて会った時ってノービス時代から?」
 オタベックと初めて会ったのは、ノービス時代のユーリがまだ十歳の時である。サマーキャンプで会っているらしいのだが、ユーリは全くオタベックの事を覚えていない。後になって、オタベックからその事を聞き会っているのだという事を知った。
 初めて会った時から好きだったという事は、二十年前からユーリの事がオタベックは好きだったという事になる。その事実は驚かずにはいられないものである。
「そうだ」
「二十年も……」
 友人になった時には既に好きであったのだという事は分かっていたが、それでもそんなにも昔から思われていたとは想像もしていなかった。疑問が解決した事により更なる疑問がユーリの頭の中に浮かぶ。
「何で俺の事が好きになったんだ?」
「ソルジャーの瞳をしていたと言っただろ。その瞳に惹かれたんだ」
 オタベックに友人になるのかならないのかという事を問い掛けられた際に、確かにそんな事を言っていた。
 今まで誰からも言われた事が無い言葉で賞され、それに胸が熱くなりオタベックと友人になる事を決めた。その時はオタベックの事をよく知らなかったのだが、後になってユーリが憧れている物を多く持っている男である事を知った。そして、スケーターとして尊敬する事ができ、良いライバルになる事ができる男であるという事を知った。
「そうだったのか」
 安堵したのは、外見に惹かれたのだと言われなかったからである。オタベックがそんな事を言うような男では無いという事は分かっていたのだが、今でも容姿を頻繁に褒められているのでその事を心配していた。
「何で俺の事が好きなのに、恋人じゃなくて友達になるのかならないのかって訊いて来たんだ?」
 ミラと話している最中に疑問に思った事を質問した。
「それで満足できると思ってたからだ。友達としてでも君の側にいたかったんだ」
 ミラの出した答えとは全く理由が違っていた。
「そっか」
 そんな風に思っていたオタベックが友人という立場でいる事ができなくなってしまったのは、ユーリが抱いて欲しいというような事を言ったからだ。
 初めて体を重ねた際、オタベックはずっと我慢していたという事を言っていた。その発言を聞いた時は意味が分からなかったのだが、今ならば分かる。
「お前の気持ちに気が付かなくて悪かったな」
「気が付かれてたらユーリの友達でいられなかっただろう。だから、気が付かないままでいてくれて良かったんだ」
「そうか」
 オタベックがそう言うならそうだろうと思っていた時、この場に流れている空気を壊すような大きな声が聞こえて来た。
「オタベック!」
 声が聞こえて来た方へと視線を遣ると、ユーリも顔見知りになっているオタベックと懇意にしている男の姿があった。オタベックと同い年である男の名前はドミトリーという。名字は聞いた事が無いので知らない。
 オタベックの姿を見つけドミトリーはこちらにやって来たようだ。そんなドミトリーは一人では無く、若い女性と一緒であった。女性は見た事が無い顔である。
「座って良いか?」
 ドミトリーの質問を聞きオタベックの視線がユーリに向かう。ユーリの意見を知りたくてオタベックが視線を遣ったのだという事が直ぐさま分かった。話は終わっていたので首を縦に振る。
「ああ」
「構わないぞ」
「良いって」
 一緒にやって来た女性に声を掛けながら、ドミトリーが席に座る。それに続くようにして、女性も席へと座った。
 ドミトリーが座ったのはユーリの隣である。それは、そちらの方がオタベックと話易いからなのだろう。そんなドミトリーの隣に一緒にやって来た女性は座るのだと思っていたのだが、座ったのはオタベックの隣である。何故わざわざオタベックの隣に座ったのかという事が不思議である。
「初めまして」
 明朗な性格である事が分かる笑顔を向けながら、女性がオタベックに挨拶をした。オタベックと知り合いなのかもしれないと思っていたのだが、女性のその発言からそうでは無いのだという事が分かる。
「ああ」
 挨拶が終わってもまだ、女性はオタベックの方へと体を向けたままになっていた。女性の行動が気に掛かっていると、ドミトリーがオタベックと話し始める。
「今日来てたんだな」
「来て欲しいって頼まれたんだ」
「俺もそうなんだよね。今日もユーリも一緒なんだな」
 人集めに苦戦したようだと思っていると、ドミトリーから話を振られた。
「ああ」
 返事をすると、ドミトリーは一緒にここへとやって来た女性をオタベックに紹介する。
「彼女はさっき知り合った子。可愛いだろ」
 ドミトリーがクラブで女性に声を掛けている姿を何度も見た事があるので、ナンパをしたのだろう。
「そうだな」
 同意しているが、オタベックの反応からそんな風に思っていない事が分かる。
 ドミトリーが一緒にやって来たのは、二十歳にもなっていないと思われる若い女性だ。派手な化粧と店内が薄暗いので、どんな素顔なのかという事が分かり難い。それでも、オタベックの好みでは無いという事は分かる。
 オタベックからどんな相手が好みであるという事を聞いた事は無い。そういう話になった事が無いからだ。しかし、綺麗な顔立ちの細い女性が好みであるという事は知っている。共にテレビや映画を見た際、オタベックが熱心に視線を遣っているのは必ずそんな女性であったからだ。
(外見に惹かれた訳じゃねえのかもしれねえけど、オタベックが俺の顔が好きなのは間違いねえんだよな)
 自惚れでそれは無い事は間違い無い筈である。
 ドミトリーと一緒にやって来た女性の態度から、オタベックの事を気に入っている事を推し量る事ができた。しかし、オタベックは相手にする事は無いだろう。ユーリは優越感に似た気持ちを感じる。
「飲んでも良い?」
 女性はテーブルにあるボトルを指さし、オタベックを上目遣いで見ながら言った。
 初めて会った相手にそんな事を臆面も無く言うなど肝が据わっている。性格もあるのかもしれないが、若いので怖いもの知らずだからという理由もあるだろう。
「彼は飲まないから構わないぞ」
「やったー」
 テーブルにボトルを運んで来た際、ホールスタッフはグラスを席にいる人数分よりも多く持って来ている。このシートは広いので、誰か席に来るかもしれないと思ったのだろう。使っていないグラスにオタベックが慣れた手つきでシャンパンを注ぐ。
 オタベックの姿は熟練のバーテンダーのようである。女性もオタベックの姿を見てそんな風に思ったのだろう。口を開けて感動していた。この男が自分の恋人であるのだと思うと、誇らしい気持ちへとなる。
「乾杯しようよ」
「ああ」
 グラスを手に取った女性とオタベックが乾杯をする。
 女性が言い出したので仕方が無く付き合ったのだという事は、表情から読み取る事ができた。そして、オタベックが彼女に全く興味が無い事は間違い無い。その為、ユーリはそんな二人の姿を見て何か思う事は無かった。
 シャンパンを飲み終えると、女性は次々にオタベックに話しかけた。返事をしているが、オタベックが女性の事を面倒であると思っている事を反応から伺う事ができる。
「なあ、オタベックとばっか喋ってねえで俺とも喋ってよ」
 発言の内容は嫉妬しているように感じるものであったが、ドミトリーは軽い調子で言っていた。遊びたいと思い声を掛けたが、彼女の事を軽く気に入っている程度なのだろう。本気で彼女に好意を抱いているのならば、そんな態度を取る事はできない筈だ。
「うるさい。オタベックと喋ってるの」
 女性はドミトリーよりも十歳以上年下である筈だ。年の離れた相手からぞんざいに扱われ、ドミトリーは苦笑いをしていた。生意気な態度を取られても憤慨しなかったのは、若い女性が相手だからなのだろう。
「そう言わずにさ」
「やだ。あんたよりも私はこっちの男の方が好み。紹介してよ?」
「はあ?」
 口を衝いてそんな言葉が出た。女性がオタベックの事を気に入っているのだという事は分かっていたのだが、それでもユーリはその言葉に驚かずにはいられなかった。
 オタベックの視線はユーリに向かっていたが、女性はその声が聞こえている筈であるというのにユーリをちらりとも見る事は無かった。男らしいオタベックが好みである女性は、中性的な容貌をしたユーリには全く興味が無いという事なのだろう。女性の事を若くて派手だとしか思っていないので、それに対して腹が立つ事は無い。
「私野性的な男が好きなんだよね。オタベックだっけ。オタベックは凄い私の好みなんだ」
 熱心に女性はオタベックを口説いていた。
 オタベックを狙っているのだという事が明らかな相手を見たのは、これが初めてでは無い。今まで何度も見ている。
 オタベックは決して顔が悪い訳では無い。男らしい精悍な顔立ちをしている。しかし、オタベックは顔で惚れられるよりも、気遣いができる性格やDJをしている姿。他に表現力が豊かなスケートをしている姿を見て惚れられる事が多い。その為、こんな風に容姿に惹かれて惚れている者を見る事は珍しい。
 オタベックの容姿を気に入っているので、女性がオタベックの外見に惹かれた事がユーリは嬉しくなる。
「私と付き合おうよ」
 口元を緩めていたユーリであったが、女性の発言に目を見張った。
「すまないが、ずっと片思いしていた相手とやっと付き合えるようになったばかりなんだ。その相手を大切にしたいから君の気持ちに応える事はできない」
 真摯な態度で断っていたが、オタベックは一瞬も悩む事も無かった。若い女性から付き合おうと言われたからといって、気持ちが揺らいでしまうような男では無い事は知っている。それでも、不安な気持ちが微かにあったのだろう。ユーリは安堵した。
「やだ。何で?」
 女性はすんなりと諦めようとしなかった。あそこまできっぱりと断られて納得しないのは、自分の容姿に自信があるからなのだろう。
 拒否したというのに取り縋られ、オタベックが迷惑そうな顔へとなる。しかし、オタベックは表情の変化に乏しいので、女性は全くその事に気が付いていないようだ。
「さっき説明した通りだ。俺に何を言っても君に心を動かされる事は無いから諦めてくれ。君なら直ぐに良い相手が見つかる。こんな年上をわざわざ相手にする事は無い筈だ」
 本心からそう思っているのでは無い事は明白であるというのに、女性はその言葉を信じている様子である。言葉の表面しか見ていないのは、性格もあるのだろうが年若いからというのが大きいだろう。
「歳とか関係無いし。それなら彼女紹介してよ?」
 女性は自分よりも美人では無いと納得ができないという様子であった。
 困った顔をするだけでオタベックが質問に答えようとしないのは、ここで恋人が誰であるのかという事を言えばユーリに迷惑が掛かると思ったからなのだろう。
「だから教えてよ!」
 オタベックの気持ちは分かっていたが、相手を知るまで女性が諦めるとは思えない。
「こいつと付き合ってんのは俺だよ」
「はあ?」
 オタベックの恋人の性別が女であると思っているので、自分であると言えば驚くだろうとは思っていた。しかし、彼女の反応はそんな想像以上のものであった。そして、それには侮蔑の感情が入り混ざっていた。困惑していると、女性がオタベックにしなだれかかる。
「本当なの?」
 媚びを売るようにして言っている女性から離れようと、オタベックは体を横に動かしていた。しかし、直ぐに女性は離れる事ができないように、オタベックの腕に手を絡みつける。
 先ほどまでは彼女の行動に苛立つ事は無かったのだが、その行動には焦慮した。
(人の彼氏に何すんだよ!)
 心の中で怒鳴りつけたのだが、女性は全くユーリがそんな事を思っている事に気が付いていない様子である。否、気が付いているのかもしれない。優越感を感じながら無視をしているだけなのかもしれない。そう思う事によって苛々が増した。
「ああ、彼と付き合ってる」
 仕方が無いという様子でオタベックは肯定した。
 恋人がユーリである事を恥ずかしいと思っているからそんな態度で肯定したのでは無い事は分かっているので、オタベックの態度を不服に思う事は無かった。
 女性の視線がユーリに向かう。まるで値踏みでもするかのようにじろじろと女性に見られる。目立つ容姿をしているのでそんな風に見られる事は珍しい事では無いのだが、それでも良い気持ちはしない。自然と苦い顔へとなってしまう。
「おっさんじゃん」
 馬鹿にしたようにして女性が言った台詞は、若く見られる外見である為にユーリが今まで言われた事が無いものである。暫くユーリは呆然とする事になった。

 オタベックのマンションでクッションを抱いた格好でベッドにいるユーリは、先ほどの出来事を思い出して唇を尖らせる。
 十代であると思われる彼女にとって、三十歳のユーリはおっさんであるだろう。
 十代の頃、二十代後半の同門の選手であったヴィクトルやギオルギー・ポポーヴィッチをジジイ扱いした。当時の二人よりも更に年上になった今、おっさんと言われても仕方が無い。そう思いながらも傷ついたままになっているのは、周りからそんな事を言われた事が無いからだ。
「ユーリ」
 顔を上げ横を見ると、オタベックがペットボトルを差し出してきていた。
 一見瓶に見える水色のペットボトルに入っているのは、ミネラルウォーターである。オタベックの自宅の冷蔵庫にいつも入っているそれを受け取ると、ユーリは白い蓋を開けペットボトルに口を付ける。
 あの後、オタベックから離れようとしなかった女性は、一緒にやって来ていたドミトリーに無理矢理に近い状態でダンスフロアに連れて行かれた。ドミトリーがそんな事をしたのは、このまま彼女をこの場にいさせてはいけないと思ったからなのだろう。
 ドミトリーの気遣いに感謝していると、オタベックからそろそろ出ようと声を掛けられた。女性が戻って来ればまたべったりと引っ付いて離れなくなってしまう事が分かっていたので、オタベックは今のうちに店を離れる事にしたのだという事が分かった。オタベックの言葉に同意した事によって、ユーリは店を出てここへと戻って来た。
 漸く落ち着く事ができたと思っていると、ベッドに上がったオタベックに背後から抱きしめられる。
「ユーリは出会った時からずっと綺麗すぎて眩しいぐらいだ」
「……オタベック」
 容姿を褒められるのが苦手であるという事を知っているので、オタベックは外見について触れた事は今まで殆ど無い。それなのにそんな事を言ったのは、先ほどの女性の言葉がユーリの胸にぐさりと刺さったままになっている事に気が付いたからなのだろう。
 オタベックに慰められ心にできた傷が癒えた。抱きしめられた格好のまま体を反転させると、ユーリはオタベックと向き合う格好へとなる。
「キスしようぜ」
 愛しさがこみ上げて来た事によりそう言うと、面食らった顔へとオタベックがなった。オタベックとは既に何度もキスをしている。それ以上の事すらも幾度もしているというのに、キスぐらいで驚いた事が不思議である。
(……あ)
 今まで一度も自分から誘った事が無い事に気が付いた事によって、ユーリはオタベックが何故そんな事ぐらいで一驚したのかという事を察した。
「良いのか?」
「聞くなよ!」
 確認されると急に恥ずかしくなってしまう。内側から体が熱くなり頬を赤くしていると、噛みつくようにして唇を塞がれる。一瞬はそんなオタベックの行動に狼狽したユーリであったが、直ぐに気持ちが落ち着き瞼を閉じ背中へと腕を回した。
 オタベックが彼女に靡く事は無いという事は分かっていたが、それでも心の中で絶対に渡さないという事を思った。

03.しあわせの王子

「だから、オタベックと別れて欲しいの」
 胸の前で腕を組んでいるアルギニナの言葉に、ユーリは顔を顰める。
 いつものようにオタベックと共にクラブに行くと、アルギニナが現れた。出会った時は名前を知らなかったのだが、オタベックに好意を寄せている女性の名前がアルギニナだという事を後になって知った。他にも、十九歳の大学生で金持ちの娘である事をアルギニナを知っている者から聞かされた。
 アルギニナとクラブで出会ってから一月が経過している。その間、何処のクラブに行ってもアルギニナは現れた。そして、オタベックにきっぱりと断られているというのに、諦める事無く恋人にして欲しいという事を言っていた。
 オタベックに恋をしているアルギニナにとって、恋人であるユーリは恋敵である。二人きりになれば罵られる事が分かっていたので、二人きりになるのは避けていた。しかし、トイレの前で待ち伏せをされていたようだ。トイレから出るとアルギニナがおり、先ほどの台詞を吐かれる事になった。
「あんたよりも私の方が若いし可愛い。確かにちょっと綺麗な顔してるけど、あんたなんかただのおっさんじゃん」
 初めてアルギニナからおっさんと言われた際には傷心したのだが、顔を合わせる度に言われているので慣れてしまいそう言われても傷つかなくなっていた。今はまたかという事を思うだけである。
「オタベックは私と付き合った方が幸せになれるに決まってる」
 何故そう言い切る事ができるのだろうか。オタベックはユーリの事が好きだ。好きな相手と付き合った方が幸せであるに決まっている。
 頭に直ぐに血が上り考えなしに何でも言っていた若い頃であれば、それを言っていただろう。しかし、今はそんな事を言えばアルギニナが激高する事が分かっていたので、口にする事はしなかった。ユーリは再び嘆息する。
「それを決めるのはオタベックだ」
「はあ! 私と付き合った方が幸せになるに決まってるじゃない。何言ってるの!」
 言葉を選んだのだが、それでもアルギニナの機嫌を損ねたようだ。目をつり上げ興奮しているアルギニナに何を言っても一層怒らせる事になるとしか思えない。相手をしないのが一番であると思い、ユーリはオタベックの元へと向かって歩き出す。
 後ろからまだ話は終わっていないという声が聞こえて来たのだが、足を止める事はしなかった。追いかけて来るかもしれないと思っていたのだが、それは無かった。しかし、VIPシートに戻りオタベックと話をしていると、再びアルギニナが現れた。
 オタベックの前で再び喧嘩を吹っかけられる事になるかもしれないと危惧していた。しかし、オタベックに性格が悪いと思われたく無かったのだろう。何か言って来る事は無かった。
 だが、時折アルギニナから敵意を剥き出しにした視線を送られた。その為、アルギニナがいる間気持ちが落ち着く事は無かった。

 オタベックのベッドで無意味にごろごろと転がると、ユーリは手に持ったままになっていたスマートフォンのボタンを押し画面を見る。クラブに行く為に家を出るまで後少しという時間へとなっている。
 休みである今日。いつものようにクラブに行く事になっているので、昼前に目を覚ますとオタベックが暮らしているこのマンションへとやって来た。
 今日は泊まらずに帰る予定であるので、ピョーチャは連れて来ず一人でやって来た。そして、着くなり途中で寄ったスーパーマーケットで買った食材を使い料理を始めた。先日オタベックが中華料理が食べたいと言っていたので、今日作ったのは酢豚と鶏肉の油淋鶏。そして、青椒肉絲と生姜を使った卵スープだ。
 できあがったそれらをオタベックと共に食べた後、映画を一本見る事になった。ユーリが以前見たいと言っていた映画を見た後、音楽を聴きながらおのおの好きに過ごしているうちにこの時間へとなった。
 もう直ぐクラブに行かなくてはいけないのだと思うと憂鬱になり、ユーリは溜息を吐く。以前までクラブに遊びに行くのは趣味の少ないユーリの、数少ない楽しみであった。今は行きたくなくなっているのは、先日のクラブでの出来事だけが理由では無い。
 クラブに行けば、どこの店に行っても姿を現すアルギニナが現れるに決まっている。いつもオタベックに密着して離れようとしないので、今日もそうなるに決まっているからという理由もある。
 オタベックはアルギニナに対して全く気を持たせるような態度は取っていない。何を言われても軽くあしらっている。それでも、恋人が好意を持っている相手にべたべたとされて良い気がする筈が無い。
(行きたくねえ……)
 行きたく無いのだがそれはできない。それは、行かなければアルギニナが一層オタベックを口説く事が分かっていたからだ。
 恋人であるユーリが側にいるので、アルギニナがあれでもまだ大人しくしているのだという事が分かっていた。オタベックに行って欲しくないという気持ちもあるのだが、そんな事を言える筈が無い。
 DJは仕事が多忙なオタベックの気分転換になる趣味である。ユーリの前では疲れた様子を見せる事は無いのだが、オタベックが仕事に忙殺されている事は知っている。そんなオタベックから、自分勝手な理由で息抜きを奪う事などできない。
 オタベックに行って欲しくないといえば、行きたくても行かないと言う事が分かっている。だから言う事ができない。
「ユーリ」
「ん」
 声を掛けられたので視線を遣ると、オタベックが真面目な顔でユーリを見ていた。何か話があるのだという事が分かり体を起こす。
「何か言いたい事があるのならば言って欲しい」
 先ほど溜息を吐いてしまった事により、オタベックがそんな風に思ったのだという事が分かった。
「何でもねえ」
「俺はそんなに頼りないか?」
 言えばオタベックを困らせる事になってしまうと思って黙っていたのだが、何も言わなかった事によりオタベックに余計な心配をさせてしまったようだ。それが分かってもまだ、考えていた事を告げる事を悩んでしまう。黙っているとオタベックが溜息を吐いた。
「違う! オタベックは何も悪くねえんだ。ただクラブに行って欲しくねえなって思っただけで」
 オタベックを呆れさせてしまったのかもしれないと思い、反射的にそう言っていた。
 オタベックには嫌われたく無い。そんな事になってしまう事を想像するだけで、胸に茨が巻き付いたかのようにちくちくとした痛みをそこに感じた。
「アルギニナが原因か?」
 アルギニナが原因である事を直ぐにオタベックは察したようだ。それ以外に考えられないので当然だろう。
「……ああ」
 誤魔化しても無駄であるうえにその必要は無いのだが、それでも返事に戸惑ってしまった。何故そんな風に思っているのかという事をオタベックは分かっているのかもしれないが、説明をする事にした。
「アルギニナにオタベックを取られるかもしれないなんて事は心配してねえ。オタベックは気持ちが変わりやすい男じゃねえって事はちゃんと分かってる。だけど、オタベックにアルギニナがべたべた触ってるの見てると苛々しちまって。……これは俺の勝手な気持ちだから! だから、行くなって事じゃねえから。それに、そんな事言える権利は俺にはねえし」
 オタベックが顔を顰める。その顔は怒っているように見えるものであった。自分勝手な事を考えている事を知り憤慨したのかもしれないと思い、ユーリは萎縮する。
「君は俺の恋人だ。行って欲しくないと言う権利はある。ユーリがそう言うならば行かない。今まで君がそんな風に思っていた事に気が付かなくてすまない」
 オタベックの表情は、思っていたものと全く違う理由からのものであったのだという事が分かった。
 ユーリの気持ちを優先して行かないという事をオタベックが選んだ事に対して、本当にそれで良いのだろうかという気持ちと共に嬉しいという気持ちがあった。相反する二つの感情があった為、素直に喜ぶ事ができない。
 複雑な気持ちへとなっていると、ポケットからスマートフォンを取り出したオタベックが通話を始める。誰と連絡を取ろうとしているのだろうかと思っていると、スマートフォンから声が聞こえて来た。
「オタベックだ。悪いが今日は行けない。恋人を優先したいから、暫くは行けない」
 スマートフォンの向こう側で相手がまだ何か言っていたのだが、オタベックはそれを無視して通話を切った。オタベックは今日会う約束をしていた相手に連絡をしたようだ。これで済ます事ができたのは、DJをする予定では無かったからなのだろう。
「本当に良かったのか?」
「確かにクラブは好きだが、君以上に優先するような事ではない。アルギニナの事は君には全く非が無い事だ。だから、気にしないでくれ」
 オタベックの言葉はユーリの中にある罪悪感を薄めるものであった。胸が軽くなった事により、漸く安堵する事ができた。
 肩から力を抜くと、スマートフォンをズボンのポケットに入れたオタベックの手が頭に回って来る。ぐいっと頭を引き寄せられた事により、オタベックの胸に頭を預ける格好へとなった。
 暫くその格好で過ごした後、ユーリはオタベックと共に自宅で映画を見たり音楽を聴いたりして過ごした。

04.すっぱいぶどう

 車内には落ち着いた音楽が流れている。心を癒やすような曲が聞こえているというのに、ユーリはまるで深海に沈んでいるような気持ちへとなっていた。それは今からクラブに行かなくてはいけないからだ。
 暫くクラブに行かないと言ってくれたオタベックは、それから三月以上経過している今日まで全く行かなかった。それなのにオタベックがクラブに行く事にしたのは、決して久しぶりに行きたくなったからという理由からでは無い。仲間からどうしても来て欲しいと泣き付かれたからだ。
 オタベックから申し訳なさそうな顔でそれを告げられた際、自分だけが行くのでユーリは付いて来なくて良いと言われた。しかし、アルギニナが現れない筈が無いので、オタベックを一人で行かせる事はできなかった。そんな経緯で、ユーリは暫く行くのを止めていたクラブへと今から向かっている。
「着いたぞ」
 クラブの側の駐車場に車を停めたオタベックがシートベルトを外す。クラブに行く際はその前に近くの店で今までは食事をしていたのだが、今日は自宅で食べている。
 今日の夕飯はロールキャベツとカリフラワーをたっぷり使ったアンチョビサラダ。そして、カルボナーラである。店で出て来る味を目指したカルボナーラは満足できるできあがりであった。そんな料理を食べたのは少し前であるというのに、遙か遠い昔の出来事であるように感じる。
 シートベルトを外しオタベックの後に続き車を降りる。
 既に二十二時を過ぎているのだが、周りにある店の明かりによって辺りは夕方のように明るい。そして、そんな中は昼間よりも賑やかである。酔っ払いが多い道を歩くのは既に慣れているので、ふらふらと歩いている者や騒いでいる者が気になる事は無かった。
 足取りが重いのは、アルギニナにまた嫌がらせをされる事になるという事が分かっていたからだ。普段よりも歩くのが遅くなっているユーリにオタベックは歩調を合わせてくれているのだろう。隣に並んでいるオタベックが離れてしまう事は無かった。
「今までアルギニナに優しくし過ぎた。今日会ったらはっきりと迷惑だと言おう」
 溜息を吐きたい気持ちへとなっていると、横からそんな声が聞こえて来た。
「そこまでしなくても良いぜ」
 プライドの高いアルギニナがオタベックからそんな事を言われたら泣き出すだろう。今まで迷惑を掛けて来た相手であるが、それでも相手が若い女の子だからなのだろう。そんなものを感じる必要は無いという事は分かっていても、罪悪感がしてしまう。
「俺もそろそろ限界だ。それに、君に失礼な真似をするような相手とは付き合いたくない」
 ユーリだけが大切であるというようにしてオタベックは言った。
 アルギニナに対して可愛そうだという気持ちもあるのだが、それでも一途に愛されているのだという事が分かるそんな台詞を聞くと胸がじんと熱くなる。
「分かった」
 返事をすると、ユーリを安心させるようにしてオタベックが微笑んだ。アルギニナに申し訳ないと思うのは、オタベックを傷つける行動であるだろう。オタベックの方が大切な存在であるので、ユーリはこれ以上そんな風に思うのを止める事にした。
 クラブの入り口まで行くと、IDチェックを済ませオタベックと共に中に入る。ゲストカウンターまで行くと、その奥にいるスタッフにオタベックがDJの友人である事を告げた。来て欲しいと頼まれてクラブに行った際は、入り口でその事を告げるとゲスト料金で入る事ができるのだ。
 その後、VIPシートを取る事と共に女の子を連れて来なくても良いという事を告げた。男二人でクラブに行きVIPシートを取ると、スタッフがフロアにいる女性客を連れて来る事があるのだ。ユーリとオタベックがVIPシートを取る目的はそれでは無いのだが、女の子を連れて来て貰うのが目的の者もいる。
 支払いを済ませると、サブフロアに向かう。クラブに行った際の支払いはいつも割り勘だ。オタベックが払うと言って来る時もあるのだが、それをいつも断っている。他の相手に奢って貰う事に対しては何も思わないのだが、オタベックとは対等な関係でいたいと思ったので拒否している。
 このクラブは入って直ぐの場所はサブフロアになっており、メインフロアは別の階にある。そんなサブフロアにはロッカーがある。VIPシートを取っていない時や貴重品を持っている時。荷物が多い時はそれを利用するのだが、今日は荷物が少なくVIPシートを取っているのでそこに荷物を預ける事はしなかった。
 メインフロアまで行くと、聞こえて来ている賑やかな声が増えた。中央にあるダンスフロアでは若い男女が音楽にあわせて踊っている。それを横目で見ながら、ユーリはオタベックと共にVIPシートまで行く。この店には幾つかVIPシートがあり、今日はダンスフロアから離れた場所にした。
 オタベックがここにしようと言ったのは、ダンスフロアの側だとアルギニナに直ぐに見つかってしまうからだろう。黒い革張りのシートに座ると、ワインクーラーとグラスを持ったスタッフがやって来た。
「チーズの盛り合わせとワインでございます。お注ぎしましょうか?」
「ああ。一つだけで良い」
 スタッフが持って来たワインは、勿論オタベックが飲む物である。このクラブでは、VIPシートにはワインとチーズの盛り合わせがセットになっているのだ。オタベックの返事を聞き、スタッフがささっとグラスにワインを注ぐ。
「他にご注文はありますか?」
「ユーリ何か飲むか?」
 オタベックから声を掛けられたので、テーブルに置いてあるドリンクメニューを手に取る。
「んーじゃあコーラで」
「かしこまりました」
 席を離れたスタッフは直ぐにコーラの入ったグラスを持って戻って来た。スタッフがいなくなるとグラスを手に取り、中に入っている赤黒い液体を喉に流し込む。
 クラブで炭酸飲料を頼むと炭酸が抜けてしまっている事もあるのだが、出て来たコーラはそんな事の無いものであった。喉に刺激を感じながらコーラを飲んだユーリは、オタベックに視線を遣る。オタベックはワインを飲んでいる最中であった。
 このまま二人きりの時間を過ごしたい。この店にアルギニナはいないようだが、暫くすると現れる筈だ。オタベックが現れたら連絡をするように、取り巻きに言っているのだろう。可愛らしい見た目をしているからだけで無く、金回りが良いからなのだろう。アルギニナの周りには常に若い男の姿があった。
 いつアルギニナが現れるのかという事を気にしていると疲れてしまう。折角久しぶりに店にやって来たのだから、楽しんだ方が良い。オタベックがグラスから口を離すと、ユーリはグラスをテーブルに置き話しかける。

「やっぱりあの点数は納得いかねえんだよな」
「そうだな」
 オタベックとユーリが熱心に話している内容は、昨シーズンのフィギュアスケートの大会の点数についてである。
 最初はたわいも無い話を軽い気持ちでしていたのだが、話がスケートの事になると何処にいるのかという事も忘れて夢中で議論してしまった。それはオタベックも同じであるようだ。確かにクラブも好きなのだが、お互いにスケートには思い入れがあるのだ。
 長らくスケーターをしていて今もコーチをしているので、周りにスケート関係者が多い。その為、普通の話をするよりもスケートの話をする事ができる相手の方が多い。しかし、他の話しもできるオタベックとスケートの話をする時が一番楽しく熱が入る。
 価値観や考え方が似ているからなのだろう。大きな喧嘩をする事無く今まで来たのは、それも理由の一つだろう。
 話の区切りがついたので熱心に議論した事により乾いていた喉を潤そうと、ユーリはグラスを手に取る。
「オタベック!」
 既に炭酸が抜け氷が溶けてしまった事により薄くなっているコーラを喉に流し込もうとすると、喧噪をかき分けるような明るく大きな声が聞こえて来た。
 その声を聞いた瞬間、ユーリは眉間に皺を寄せる。確認せずとも誰がオタベックの名前を呼んだのかという事が分かっていた。来たと思いながらこちらにやって来ているアルギニナに視線を遣る。
 いつもアルギニナは一人ではやって来ない。今日も取り巻きである同年代の浮ついた雰囲気の男を従えていた。
 アルギニナの態度や言動は明らかにオタベックを狙っているものである。その事に気が付かない者はいないだろうと思うほどだ。周りにいる者たちはそれを見て何も思わないのだろうか。中にはアルギニナに恋愛感情も持っている者もいる筈である。
 恋愛感情だけで無く敬仰に近い感情を持っているのかもしれない。高飛車な性格に見える外見のせいなのか、ユーリも勝手に相手からそんな感情を持たれる事が多い。その為、そんな人間もいるのだという事は知ってる。
「何で暫くクラブに来て無かったの? ずっと心配してたんだからね。ねえ、そろそろ連絡先教えてよ。私から連絡先聞くのなんて滅多に無いんだからね」
 光栄に思って欲しいと言うようにアルギニナは言っていた。
 オタベックから冷たい態度を取られているというのに、何故そんな風に言う事ができるのかという事が不思議である。普通は、相手に嫌われてしまっているのかもしれないと不安に思うだろう。良い意味でも悪い意味でも前向きな性格をしているのかもしれない。
 今もオタベックが迷惑そうな顔をしているのだが、アルギニナは全くそれを気に掛けていなかった。
「隣良いよね」
 オタベックが返事をしていないというのに、強引にアルギニナは隣に座った。
 既に不機嫌になっているオタベックの機嫌が更に悪くなっているのを感じる。オタベックがこんな風に不機嫌を露わにするのは珍しい事である。それ程、アルギニナの事を迷惑に思っているという事だ。好きな相手にそんな態度を取られているアルギニナに対して同情するつもりは無い。
「私も何か飲もうかな」
 飲んでも良いとオタベックが言っていないというのに、アルギニナはスタッフを呼びアルコールを頼んだ。
 直ぐにスタッフは透明な液体とライムの入ったグラスを持って戻って来た。アルギニナが頼んだのは、ライムジュースを使ったアルコールドリンクであるギムレットだ。スタッフが席から離れると、アルギニナは爽やかな見た目をしたグラスを手に取った。
「乾杯しようよ」
 オタベックが構わないと言っていないというのに、アルギニナは勝手に乾杯をする。そして、ギムレットを一口飲むと、いつものように一方的に話し始めた。
 オタベックはそんなアルギニナの話に相づちを打つ事すらしなかった。反応が無いからなのか、アルギニナの機嫌があからさまに悪くなる。
「ねえ、今日はVIPルーム取ってボトル取ってるんだよね」
 VIPルームはVIPシートよりも更に高額な料金を支払わなくてはいけない。そんなVIPルームをアルギニナは取っているらしい。
 アルギニナはバイトはしていないようだ。そんなアルギニナが自分のお金で代金を支払ったとは思えない。親が金持ちであるようなので、親の金なのだろう。幼い頃からスケートで家族を支えていたので、若い頃は親の金で遊び呆けている者を見ると苛立っていた。しかし、今はそんな事をしても無意味であると思い何も思う事はなくなっている。
「だったら友達とそこで飲めば良いだろ」
 オタベックが冷たい口調で言うと、そういう事を言いたいのでは無いという様子へとアルギニナはなった。
 一緒に飲もうという意味でアルギニナが言っているのだという事が分かっていて、オタベックは見当違いの事を言ったのだろう。その事にアルギニナが気が付いていないとは思えない様子である。しかし、全く諦めようとする事は無かった。
「やだ。ねえ、一緒に飲もうよ」
「飲まない」
 きっぱりとオタベックに断られ険しい表情をしているアルギニナの視線がユーリに向かう。
「今日もあんたも来てたの」
 漸くユーリの存在に気が付いたという態度でアルギニナは言っていた。
 オタベックしか見ていなかったが、それでも隣にいるユーリに気が付かないという事は無いだろう。ユーリを不快にさせる為に態とそんな事を言ったのだという事を推し量る事ができる。
「オタベックの恋人だからな」
 挑発するような事は言わない方が良いという事は分かっていたのだが、それでもそう言わずにはいられなかった。オタベックの恋人という事をアルギニナに誇示したいという気持ちからなのかもしれない。それ以外に考えられないので、そうなのだろう。
 アルギニナが現れてから、今まで取った事の無い行動を取ったり考えた事がないような事を考えたりするようになってしまった。急に自分が自分では無くなってしまったかのように感じる。
「そろそろオタベックと別れてよ。オタベックだって私の方が良いに決まってるのに」
 オタベックが居ない時に別れろという事は何度も言われている。しかし、オタベックの前で言われたのはこれが初めてだ。オタベックの反感を買っても良いという気持ちへとなっているか、怒りから何も考える事ができなくなっているのだろう。
「ユーリと別れるつもりは無い。俺の方が一方的にユーリの事を好きになったんだ」
 ユーリが返事をする前にオタベックがそう言った。穏やかな口調であったが、その声には怒りの感情が交じっていた。
「はあ! こんなおっさんの何処が良いのよ」
 感情が高ぶっている事が分かる様子でアルギニナは言った。オタベックが自分を選ばなかった事に激高しているらしい。その言葉に対して、周りに集まったままになっているアルギニナの取り巻きが同意した。
「ユーリを侮辱するのは許さない」
 そう言いながらオタベックが拳で勢いよくテーブルを叩いた事により、どんという大きな音がした。
「侮辱って。本当の事言っただけじゃない!」
 一瞬怯んだ様子になったアルギニナであったが、直ぐに再び目つきを鋭いものにした。
 VIPシートの客は、クラブにとって大切なお客様である。普通ならばVIPシートの客に絡んでいる者がいれば、セキュリティーが飛んで来る。
 こちらを見ている事から、セキュリティーが揉め事に気が付いている事は間違い無い。それなのにこちらにやって来ようとする気配が無いのは、アルギニナがVIPルームを取っている更に上得意客だからなのだろう。
「これ以上俺に付き纏うのは止めてくれ。俺は君のような女性は好きじゃ無い。付き纏わられて迷惑しているんだ」
 早くこの場から去れという蔑んだ目でアルギニナを見ながらオタベックは言った。
 店に入る前、オタベックはアルギニナに迷惑であるという事を告げると言っていた。それを聞いていても、狼狽してしまうほどオタベックの言葉は辛辣なものであった。ここまでの事をオタベックが言ったのは、アルギニナがユーリを侮辱した事に憤慨したからなのだろう。
 アルギニナを見ると、まさかそんな事を言われるとは思っていなかったという様子であった。ここまで言われて傷つかない女性はいないだろう。哀れむつもりは無いのだが、アルギニナが泣き出すのでは無いだろうかと身構えてしまう。
「……何よ。私がこんなに好きだって言ってあげてるのに。普通はこんな可愛い子から好きだって言われたら喜ぶもんでしょう。私にそんな事言うなんて信じられない!」
 伏せていた顔を上げたアルギニナの表情は険しいものであった。泣き出すのだと思っていたのだが、アルギニナはオタベックの言葉に憤慨したようだ。
 捲し立てるようにして言ったアルギニナがソファーから立ち上がる。全く予想していなかった反応に目を丸くして驚いていると、アルギニナの視線がユーリに移った。
「覚えてなさいよ!」
 まさか負け惜しみを言われる事になるとは思っておらず呆然としていると、アルギニナがその場を離れる。その後を追って、先ほどから黙って事の成り行きを見守っていた。否、口出しする事ができなかったのかもしれない。取り巻きがアルギニナを追いかけていく。
 ユーリが我に返ったのは、アルギニナと共に取り巻きの姿が見えなくなった時である。
「あれ、大丈夫なのか?」
「何かあったら直ぐに俺を呼んでくれ」
 ユーリはアルギニナが怒りからオタベックに何かするのでは無いのだろうかという事と、自暴自棄にならないのかという事を心配していた。しかしオタベックはユーリの身を心配しているだけであった。
「俺は大丈夫だ。オタベックの変な噂をあいつが流したりしないかって心配になって。それに、あの様子じゃ自棄になって何かやりそうで。アルギニナの事は心配する道理はねえんだけど」
 最後の言葉は自分に言い聞かせる為に言ったものだ。
「アルギニナの事は心配する必要は無い。何かあっても本人の責任だ。だからユーリが気に病む必要は無い」
「ああ」
 アルギニナに何かあった場合自分のせいであるという思いがあったので、オタベックの言葉によって気持ちが軽くなった。
「もしも変な噂を流された場合は、訂正したら良いだけだ。アルギニナよりも俺の話を皆信じるだろう」
「確かにそうだな」
 アルギニナの素行は皆知っている。そんなアルギニナの言葉よりも、オタベックの言葉を皆信じるに決まっている。気がかりが無くなった事により、ユーリは漸くアルギニナから解放されたのだという事に胸を撫で下ろした。
 あそこまで言われたアルギニナは、もうオタベックにちょっかいを出す事はしないだろう。これで平穏な日々が戻って来る。

05.赤い靴

「今度の休みに行かないか?」
「ああ、良いな」
 ユーリはオタベックの手の中にあるスマートフォンの画面を覗き込みながら返事をした。
 スマートフォンの画面にあるのは、近々サンクトペテルブルクで開催されるフィギュアスケートのショーのページである。今はショーで活躍をしているだけで無く振り付け師をしているヴィクトルの話をしていた事により、今度ヴィクトルが出るショーがサンクトペテルブルクであるという話になったのだ。
 サイトに載っているヴィクトルの写真は、最後に見た時よりも老けていた。ユーリよりも十二歳年上のヴィクトルは既に四十代である。いつまでも若々しい方が怖い。
「じゃあ、チケットを取っておこう」
 オタベックがスマートフォンを片付けながら言った。
「悪いな。代金は今払っておいた方が良いか?」
 オタベックから誘われたのだが、それでも代金を払って貰うつもりは無い。
「後で良い。当日までに払ってくれたら良い」
「分かった」
 忘れないようにしておこうと思いながら、ユーリはオタベックと密着していた体を離す。
 氷が溶けた事により濡れているグラスを手に取り、中に入っているコーラを飲む。店に入った時に頼んだ物は既に飲み終わり、今飲んでいるのは二杯目だ。
 普段はコーラは体に悪いので飲まない。飲むのはクラブに来た時だけである。昔は甘い炭酸飲料が好きで頻繁に飲んでいた。滅多に飲まなくなったのは、シニアデビューの際ヤコフの元妻であるリリア・バラノフスカヤの元で過ごしてからだ。
 プリマになりなさいと言ったリリアの元で過ごしている間、生活面まで指導される事になった。リリアと過ごした経験は、ユーリにとっては人生で大きな資産になっている。
 そんなリリアももう高齢だ。心配であるので、時折リリアの元を花などを持って尋ねている。また近いうちに花とお菓子を持って遊びに行くつもりだ。
 今度行く時はどの店でお菓子を買おうと思いながらグラスを置くと、こちらにやって来ている者がいる事に気が付いた。クラブで知り合った相手がオタベックとユーリの姿を見てやって来たのだと思っていた。しかし、二十代前半だろう見た目をした男の顔にユーリは見覚えが無かった。
「オタベックってお前か?」
 側までやって来ると、男はオタベックに声を掛けた。顔を知らない事と発言の内容から、面識の無い相手なのだという事が分かる。
「何だ?」
 見知らぬ相手から急に声を掛けられたからだけでは無いだろう。アルギニナの取り巻きの一人なのかもしれないと思っていたからなのだろう。オタベックは怪訝な顔へとなっていた。
 普段でも知らない相手には怒っていると勘違いされる事がオタベックはある。目つきが良いとは言えないオタベックのそんな顔を見て、男は微かに身構えていた。
 オタベックは厳つい見た目通り喧嘩が強い。何か武術の類いを習っていたのでは無く、喧嘩慣れしているからのようだ。武者修行の為に世界中を転々としていた時に、若かった事もあり喧嘩をする事が多かったらしい。しかし、ユーリと友人になった時には既に落ち着いていたオタベックは、何か無ければ喧嘩をする事は無くなっている。
 不要な心配であると思ったのだが、男はそんな事は知らない。おどおどとした態度へとなったままになっていた。
「機材の調子がおかしいらしい。オタベックにしか頼めないから来て欲しいって言ってくれって頼まれたんだ」
「そうか」
 行くか行かないかという事をオタベックは迷っている様子である。
 男にそんな事を頼んだのは、今日この店でDJをしているオタベックの友人なのだろう。友人から助けを求められたというのに直ぐに決断をしなかったのは、先ほどのアルギニナの事が気に掛かったからなのかもしれない。ユーリを一人ここに残せば、アルギニナがまたやって来るかもしれないとでも思ったのだろう。
「行ってやれよ。あんだけはっきりオタベックに言われたアルギニナが、もう俺に何か言って来る事はねえよ」
「……悪いな。何かあったら直ぐに呼んでくれ。遠慮しないでくれ」
 直ぐには返事をしなかったオタベックであったが、ユーリの言葉に従う事にしたようだ。
「分かってるって」
 心配性であると思いながら小さく笑うと、オタベックが未練を残している様子で椅子から立ち上がる。
 オタベックの姿が見えなくなる迄見送ると、ユーリはポケットの中からスマートフォンを取り出す。オタベックがいなくなってしまい暇になったので、戻って来る迄スマートフォンで時間を潰す事にした。
 オタベックと話をしている最中は店の中に流れている音楽が全く聞こえなくなっていたのだが、今はそんな音楽を聴きながらアプリを立ち上げる。今日のDJの選曲はオタベックほどでは無いが、それでも趣味が良い。ただ客層が若いからだろう。少し煩いと感じるものが多い。もう少し落ち着いた音楽の方が自分は好みであると思いながら、ユーリは画面をタップする。
「なあ」
「ああ?」
 インスタグラムを見ていると声を掛けられたので相手を睨み付ける。聞こえて来た男の声が聞き覚えの無いものであったので、アルギニナの取り巻きである事を警戒して相手を威嚇した。
「邪魔して悪い」
 男は何かしているのを邪魔したのでユーリの機嫌を損ねたと思ったようだ。不機嫌そうな声を出したのはそんな理由では無いのだが、勘違いを訂正する事はしないでおく事にした。
「何の用だよ?」
「オタベックの調子が急に悪くなったから、呼んで来て欲しいって言われたんだ」
「はあ!」
 オタベックは病気とは無縁の男である。十五年以上の付き合いがあるが、風邪をひいたという話すらも聞いた事が無い。そんなオタベックが出先で体調を崩した事など今まで無い。
 初めての事であるので、ユーリは動揺してしまい持っているスマートフォンを落としそうになった。
「直ぐに行く」
 落とさずに済んだスマートフォンをポケットに戻しながら椅子から立ち上がると、ユーリは迎えに来た男の後に付いてその場を離れる。

 オタベックは大丈夫なのだろうか。直ぐに病院に連れて行った方が良いだろう。
 オタベックは何かあった時いつも何処の病院に行っているのだろうか。金に困っていないので、国立病院では無く質が高い医療を受けられるのだが費用が必要な私立の病院に行っているのかもしれない。何処の病院に行っているのかという事を訊かなくてはいけない。
(いや、こっちに来てまだ病院に行った事がねえ可能性もあるよな。俺が行ってる所で良いよな)
 質が高いからでは無く国立病院は待ち時間が長いので、いつもユーリは私立の病院に行っている。経験豊富で親切な医者のいる病院であるので、オタベックも安心して受診することができる筈だ。そんな事を考えながら歩いていると、前にいる男が足を止めた。
「ここだ」
「何でVIPルーム」
 オタベックは機材の調子が悪いと言っていた友人のところに行っていた。その為、DJブースかスタッフルームに連れて行かれるのだと思っていた。予想外の場所へと連れて来られユーリは困惑した。
「たまたまVIP取ってた奴がいたから、そこで休ませようって話になったんだ。寝れるぐらい広いからな」
「そうか」
 男の話は納得ができるものであった。あり得る話であると思い、ドアを開けた男の後に付いて中に入る。
 そこまではオタベックの事で頭がいっぱいになっていたのだが、中で不遜だと思うような態度の人物の姿を見てユーリの思考が停止した。部屋の中にはアルギニナの姿があった。
「何でお前がここに……?」

  ★  ★  

 オタベックは、先ほどまで側にいた筈の自分を席まで迎えに来た男がいつの間にかいなくなっている事に気が付いた。
 何処に行ったのだろうか。今日は客の入りが良いので、人に流されてしまったのだろうか。探した方が良いのだろうか。否、その必要は無いだろう。どうしても一緒に行かなくてはいけないという事は無い。DJブースに後から来る筈なので、先に行っていればやって来るだろう。
 そんな事を考えながら店内を進んでいると、DJブースが見えて来た。そこには、付き合いの長いDJ仲間の姿がある。機材の調子がおかしくなったと聞いたので狼狽えているのだと思っていたのだが、平然とした態度で曲を掛けている。機材の調子がおかしいようにも見えない。
(どういう事だ?)
 オタベックは不審に思いながらも側まで行く。直ぐにどういう事なのかという事を聞きたかったのだが、今は話しかける事ができる様子では無い。
 今DJをしている友人は、オタベックと違いそれを趣味でやっているのでは無い。仕事としてやっている。仕事の邪魔をする事はできない。
 仕方が無いので、声を掛ける事ができる機会を見つける事ができる迄側にいる事にした。

06.わがままな巨人

 何故ここにアルギニナがいるのかという事が分からないというようにして言ったが、何故なのかという事は分かっている。
 オタベックが倒れたというのは嘘だったのだろう。一人になったユーリを、誰にも邪魔をされない密室であるここに連れて来たかったのだろう。そう思った事により、ユーリは先ほどアルギニナがVIPルームを取っていると言っていた事を思い出した。その部屋はここの事なのだろう。
 革張りのソファーに腰を下ろしてグラスを手に持っていたアルギニナは、それをがつんという音を立ててテーブルに置いた。
「あんたがいたせいで私は恥をかく事になったのよ」
 椅子から立ち上がったアルギニナの顔は赤い。テーブルの上には空になっていると思われるボトルが何本もある。オタベックの元を離れここに戻ってから今まで、やけ酒をしていたのだろう。
 何も言わず部屋から出て行く事も考えたのだが、そんな事をすれば再び同じ事をアルギニナがするとしか思えない。こんな事はこれ一度だけにしておきたい。それに、オタベックがあそこまで言ったのならば自分も何か言っておいた方が良いだろうとユーリは思った。
「そうか。それは悪かったな。だけど、俺にはどうする事もできねえ。オタベックは俺の事が好きなんだ。それに、オタベックをお前に渡す事はできねえ。だから、オタベックの事は諦めてくれ」
「はあ! 何であんたにそんな事言われなきゃならないの」
 アルギニナが素直に話を聞き入れるとは思っていなかった。それでも、言った事により更に逆上させる事になってしまった事が分かりユーリは顔を顰めた。これ以上何を言っても無駄であるようだ。これ以上話をしない方が良いと判断したので、部屋を離れる事にした。
「俺は戻るぞ」
「待ちなさい! ユーリを捕まえて」
「……っ!」
 アルギニナの耳をつんざくような声が聞こえて来たと思うと、部屋の中にいる男たちに周りを囲まれる事になった。進む事ができなくなり足を止めると、腕を左右に立ってる男に拘束される。
「何すんだ」
「私に恥をかかせた罰は受けてもらうからね」
 男たちの手を離そうと体を揺らしていたのだが、ユーリはそんな声を聞き体を動かすのを止めた。何故そんなものを受けなければいけないのだ。全く理解する事ができない。反論しようとしたのだが、その前にアルギニナが言葉を続けた。
「ついでに二度とオタベックに会えないようにしてやるんだから!」
 アルギニナの意味深な発言からだけで無く、この状況から今から何を男たちにさせようとしているのかという事を察する事ができた。男たちに暴行させるつもりなのだろう。しかもそれはただの暴力では無い筈だ。性的なものである筈だ。
 普通男はそんなめには遭わない。それなのに直ぐその事に気が付く事ができたのは、中性的な外見が原因で男から性的な目で見られた経験が何度もあったからだ。
「んな事してもオタベックはお前の事を好きになる事はねえよ」
「煩いわね!」
 男たちから逃れようと体を動かしながら言うと、癇癪を起こした子供のようにしてアルギニナは言った。
 やろうとしている事は子供のする事では無いのだが、思考はまだ子供であるのだという事が分かった。だからといって、こんな事をしようとしているアルギニナを許すつもりは無い。そして、なすがままになるつもりも無い。
「離せ!」
 拳を握りしめると、ユーリは先ほどまでよりも激しく抵抗した。相手はユーリよりも上背があるだけで無く体格も良い。そんな男二人から逃れる事ができる筈が無かった。どんなに抵抗しても全く歯が立たない事を悔しく思っていると、鋭い声が聞こえて来る。
「さっさと済ませて!」
 女王様のようにアルギニナから命令された男たちに床へと座らされる。このままの状態でいては駄目だという事が分かっていたので腰を上げようとしたのだが、体を押さえつけられる事になった。
「離せっ、やめろっ!」
 大声を出せば廊下にその声が響き誰かの耳に届くかもしれない。男でありながら誰かに助けを求めるような真似はしたく無い。しかし、自分の力ではどうする事もできないので助けて貰うしか無い。
 部屋に響くような声を出していると、男が上着を捲る。肌に外気を感じると、暗闇の中に突き出されたかのような恐怖心がこみ上げる。声を出す事ができなくなってしまうと、男がズボンのベルトを外した。
「やめろ……やめろ!」
 抵抗が止まっている事に気が付き、ユーリは再び声を張り上げながらじたばたと暴れる。
 誰かが声に気が付く事を期待していたのだが、誰もやって来る様子は無い。部屋の中まで聞こえるほど、外には大きな音楽が流れている。そんな中でユーリの声に気が付く者はいないだろう。それが分かっても、声を出す事を止める事はできない。そして、無駄である事が分かっていても暴れるのを止める事ができなかった。
「やめろ! 止めろ!」
 ズボンのジッパーを下ろした男の手が肌を這う。
「んっ!」
 男の手の動きは淫猥なものであった。オタベックに同じように触られた時は性感が高まったのだが、今は不快感がするだけであった。肌を粟立たせ眉間に皺を寄せていると、下肢の中心をズボンの上から触られる。
「やめろっ! やめろ! クソっ」
 吐き気すらもする程の不快感がしていた。
「往生際が悪いわね」
 陵辱されそうになっているユーリを椅子に座って眺めているアルギニナの姿は、楽しそうなものであった。先ほどまでは男を急かしていたというのに今はそんな風に変わっていたのは、もうユーリが逃げる事はできないのだと思ったからなのだろう。
「やめろ……やめろ。触るな」
 このまま男たちに陵辱されてしまうのだろうか。そう思った事により、胸が押しつぶされてしまいそうなほど怖くなる。
 オタベック以外の相手と性交をするのは絶対に無理だ。そしてしたくない。オタベックと体を重ねた際はそんな風に思った事は無いというのに、男たちに体を好き勝手にされるのだと思うと体が汚れてしまうように感じる。
「止めろ!」
 絶叫とどんという大きな音が重なった。その直ぐ後に、ばんっという何かが部屋の中に倒れ込む音が聞こえて来た。
 聞こえて来た場所と音から、ドアが壊れた音のように感じる。何が起こったのかという事が分からず困惑しながら、ユーリは入り口に視線を遣る。そこには、オタベックの姿があった。

 何故ここにオタベックがいるのかという事が分からない。オタベックはDJブースに行っていた筈である。それが終わり戻るとユーリの姿が無かったので、探していたのだろうか。
 誰にもここにいる事を言っていない。どうやってここにユーリがいる事をオタベックは知ったのだろうか。誰かに教えて貰ったのだろうか。ユーリの声が届いたのだという事は考えられない。
 どうやってここにいるのが分かったのかという事を知りたくなっていると、ユーリに視線を遣っているオタベックの顔が怒りに染まる。
 オタベックの姿は、人を殺してしまいそうなものであった。殺意を向けられている相手ではない事は分かっていたので、それを見ても恐怖を感じる事は無かった。しかし、そんな顔を見たのが初めてであったので唖然としてしまう。
 オタベックの視線がアルギニナに向かう。突然オタベックが現れたからなのだろう。言葉を失っているアルギニナの元へとオタベックが無言で向かう。アルギニナの前で足を止めたオタベックが手を振り上げた後、ばちんという音が聞こえて来た。
「何するの!」
 オタベックに頬を打たれたアルギニナは怒りによって真っ赤な顔へとなっていた。
「君が女で無ければこれで済まさなかった」
 冷淡な声でオタベックが放ったその言葉にアルギニナは恐怖を感じたのだろう。怯えた様子へとなっていた。
 アルギニナの反応を気にする事無く側を離れたオタベックがこちらまでやって来る。足を止めたと思うと、オタベックは時間が止まったかのようになっている男の胸ぐらを掴んだ。
「――っ!」
 オタベックが男を殴ろうとしているのだという事に気が付き息を飲んでいると、男の体が勢いよく部屋の端へと飛んでいった。それと共に、男の叫び声が聞こえて来た。地面に倒れ痛みを訴える声をあげている男から、オタベックの視線がもう一人の男へと向かう。
「やめ……やめてくれ……ひっ!」
 自分も先ほどの男のように殴られる事になるのだという事に気が付いたのだろう。悲痛な声をあげながら男が懇願した。しかし、その言葉にオタベックが耳を貸す事は無かった。氷のように冷たい表情へとなっているオタベックは、その男の胸ぐらを掴むと頬を勢いよく殴る。
「ああっ!」
 先ほどの男と同様に男の体が部屋の端に吹き飛んでいく。ユーリは驚きから瞬きすらも忘れてオタベックを見詰めながら、地面から体を起こす。今度の男は痛みによって声を出す事ができなくなっているのだろう。無言で苦しみもがいていた。
 苦痛に悶えている男からオタベックの視線が別の男に向かう。先ほどの二人と自分は同じ目に遭うのだという事に気が付いたのだろう。真っ青になった男はその場から逃げようとした。しかし、直ぐにオタベックに捕まってしまう事になった。
「やめ……やめろ……ああっ!」
 部屋の中にいる男たちをオタベックが次々に地面に沈めていく。
 最後の一人が倒れるまであっという間の出来事であった。呆然としている事しかできずにいると、側までやって来たオタベックが腰を屈める。オタベックと視線の高さが同じになった事により目が合う。
 苦渋の表情を浮かべたオタベックの手が伸びて来る。オタベックが何をしようとしているのかという事が分からず硬直していると、乱れたままになっていた服を直される。
 オタベックに殴られる事になるという事は心配していない。そんな事をオタベックがする筈が無いという事は分かっていた。それでも目的が分かり、ユーリは安堵した。
「立てるか?」
「ああ」
 オタベックが手を貸そうとしている事が分かった。その必要は無いという事を態度で示し立ち上がると、オタベックも起立する。オタベックが部屋を出て行こうとしているのだという事に気が付き、ユーリは先ほどから一言も放っていないアルギニナに視線を遣る。
 魂が抜けた姿になっているアルギニナは、もうオタベックにもユーリにも何かして来る事はなさそうである。何か言いたかったのだが、アルギニナの姿を見たことによりそんな思いが無くなってしまった。オタベックと共に部屋を出ると、ユーリは驚きから立ち止まる。
「えっ……」
 部屋を出て直ぐの場所には人が倒れていた。
「邪魔をするからちょっと大人しくして貰った」
 オタベックの発言から部屋の前で倒れているのが、中に入る事ができないように見張っていた男なのだという事が分かった。そして、そんな男をオタベックが部屋の中に入る前に気絶する程殴った事が分かった。床にいる男はどう見ても意識が無い。
「死んでねえよな……?」
 顔を伏せて倒れているので、生きているのかどうかという事を確認する事ができない。先ほどのオタベックの行動を見る限り、手加減をしたとは思えない。
「大丈夫だ。人間はそう簡単には死なない」
「そうか」
 まだ不安であったが、それでもオタベックの言葉を信じる事にした。そのままクラブを出て行くのだと思っていたのだが、オタベックが向かったのはスタッフルームであった。そこにいた店長に事情を話し警察を呼んで貰った。
 相手がVIPルームの客であるというのに店長が素直に応じたのは、オタベックと知り合いであったからのようだ。オタベックの事を店長は知っていた。この店でDJをした事は無い筈なので、DJをしている中で知り合ったのだろう。

07.モミの木

「ユーリ、少しは落ち着いたか?」
「ん、ああ」
 声を掛けて来たオタベックに視線を遣ると、ペットボトルを差し出して来ていた。首を縦に振り青いペットボトルを受け取ると、オタベックが隣に腰を下ろす。ミネラルウォーターを受け取ったのだがそれを飲む気分になる事ができずにいると、隣にいるオタベックの腕が肩に回って来る。
 ぐいっと体を引き寄せられオタベックと密着する事になると、ユーリは肩に頭を預ける。
 オーナーが呼んだ警察から解放され、先ほどオタベックの自宅へと戻って来た。
 やって来た警察に事情を話していると、アルギニナの両親がやって来た。成人しているが、アルギニナはまだ若いので警察が両親を呼んだのだろう。夜中に突然呼び出されたというのに、アルギニナの両親はどちらも出かけていたのか煌びやかな格好であった。
 娘を無責任に甘やかしているのだという事が、アルギニナに対する二人の態度から分かった。そんなアルギニナの両親は警察から事情を説明されると、直ぐにユーリとオタベックに示談を持ちかけて来た。提示された金額は、かなりの額である。何の躊躇もせずにそんな金額を出す事を決めたのは、娘が可愛いからだけでは無いだろう。金に不自由していない事も理由だろう。
 ユーリが何か言うよりも先に、オタベックがそれを拒んだ。示談を受け入れるつもりは無かったので、そんなオタベックの行動をユーリは不満に思う事は無かった。
 何を言っても。どんなに金額をつり上げてもオタベックが取り合わないという事が分かると、アルギニナの両親の嘆願先は警察に変わった。
 アルギニナの両親から解放された事により再び警察と話をする事になり、オタベックはやり過ぎた事を注意される事になった。その時まで、アルギニナが悪いのでオタベックが咎められてしまう事になるという事をユーリは想像もしていなかった。
 自分のせいでオタベックが捕まってしまうかもしれないと不安になったのだが、厳重注意だけで済んだ。警察との話しが済んでもまだ、アルギニナの両親は警察に哀願したままとなっていた。
 二人の事が気になったのだが、警察から解放されたので帰宅する事になった。
 ここに戻って来る途中、アルギニナの両親がどんなに切願しても何らかの罪に問われる事は間違い無いだろうとオタベックは言っていた。
 あんな事をしたアルギニナを哀れむつもりは無い。それに、あんな事をしたというのに無罪放免になれば、更に凶悪な事をいずれしでかすだろう。捕まるのはアルギニナの為でもあるのだ。
 罪の意識に苦しむ必要は無いのだと思い、その事を気にしない事にした。そんな事をしているうちに、オタベックの自宅へと戻って来た。
 オタベックの体温を感じながら先ほどまでの出来事を回想していると、どうやってあの部屋に自分がいる事を知ったのかという事がユーリは気になった。帰宅している間に気持ちが落ち着いたのか、オタベックはいつも通りの様子になっている。今ならば質問する事ができそうだ。
「どうやってあそこに俺がいるって分かったんだ」
 軽く顔を上げながら言うと、オタベックと目が合う。
「アルギニナがVIPルームを取ってると言ってたからだ」
 そこからオタベックは、ユーリの元に現れるまでの経緯を話し始める。
「機材の調子が悪いっていうのが嘘だったって事が分かった後、直ぐにあの男がアルギニナに頼まれてそんな嘘を吐いたんだって事に気が付いた。一人になったユーリに何かするつもりなのかもしれないと思って、慌てて戻るとユーリの姿が無かった。VIPルームに連れて行ったのかもしれないと思って行ったら、思っていた通りだった」
 先ほどまでの出来事を思い出した事により、怒りがぶり返したようだ。再びオタベックは殺気を孕んだ顔へとなっている。
 思い出させるような事を言わなかった方が良かったのかもしれない。しかし、今更そんな事を思っても遅い。オタベックの怒りを鎮める方法が無いので、落ち着くのを待つしか無いだろう。そう思った後、話しを聞いている途中気になった事をユーリは尋ねる事にした。
「さっきの店のVIPルームは一つじゃ無かったのに、俺がいるのが何であの部屋だって分かったんだ」
「入り口で見張ってる男がいたから、この部屋なんだと分かったんだ」
「そっか」
 納得した後、不意にVIPルームでの出来事がユーリの頭の中に蘇る。
 暴行されそうになっている最中は恐怖がしていたのだが、現れたオタベックの行動によりそれが吹き飛んでしまった。忘れていたというのに、思い出してしまった事により再び怖くなってしまった。
「ユーリ?」
 顔を伏せていると、オタベックの心配そうな声が聞こえて来た。
「何でもねえ」
 先ほどの事を思い出しもの恐ろしさを感じている事を告げなかったのは、言えばオタベックを心配させてしまう事になると思ったからだ。しかし、オタベックはその事に気が付いたようだ。再び鋭い目つきへとなっていた。
「殺しておけば良かった」
 オタベックの表情や口調は、本気でそう思っているのだという事を示すものである。その相手は、ユーリを暴行しようとしていた男たちでは無くアルギニナなのだろう。否、どちらに対してもそう思っているのかもしれない。このまま放っておけば、オタベックは本気でそれを実行しかねない様子である。
 ユーリは体を離すとオタベックの服を掴む。
「んな事よりも忘れさせて欲しい」
 オタベックの気持ちを別に向ける事によって殺意を薄めようとしているだけでは無い。その言葉の通り忘れさせて欲しいという気持ちもあった。しかし、誤魔化そうとしているのだと思ったのだろう。オタベックは煩慮している様子へとなっていた。
「オタベック」
 求めるようにして名前を呼ぶと、腕を掴んだオタベックにぐいっと体を引き寄せられる。唇を塞がれた事に一瞬は驚いたのだが、体を重ねる事をオタベックが選んだのだという事が分かりユーリは体から力を抜いた。

「ん……あっ……ん……」
 離れては重なる事を繰り返している唇が徐々に深く重なっていく。首へとしがみつくと、唇を重ねたままオタベックが体を前に動かす。自然と体を倒していく事になり、ユーリは背中をベッドに預ける。
 覆い被さる格好になっているオタベックは、唇を舐めるとその舌を口腔へと忍ばせた。今までの経験から、オタベックが舌を絡みつけようとしているのだという事を推し量る事ができる。
「んぅ……あっ……」
 舌を伸ばすとそれにオタベックの舌が絡みついて来た。舌を絡みつけられるだけで無く絡みつけると、気分が高揚して体が火照った。まるで炎の中にいるようであると思っていると、歯列の裏側を舐められ粘膜をくすぐられる。
「あっ……ん……」
 ぞくぞくとしたものを舐められた場所だけで無く首筋に感じ肩を縮こまられていると、体を服の上から撫でられる。脇や腰などを撫でていた手は、腹部に移動するとすっと胸まで動く。
 円を描くようにして胸の上で手が動く事によって、体の芯が熱くなる。口づけの合間に熱い吐息を零していると、重なったままになっていた唇が離れた。
 十分過ぎるほど口づけをした筈であるというのに、まだ物足りなさがしていた。しかし、もう一度と言ってねだる事をしなかったのは、何度しても満足する事ができそうになかったからだ。
「はっ……ん……」
「固くなってる」
 口元を緩めながらオタベックが言った。手の平で撫でられる事によって、柔らかであったユーリの乳首は固くなっていた。
「あっ……ん……やっ……」
 嫌がっているような事を言っているが、本心からの言葉では無い。無意識に口から出てしまった言葉でそれはある。感じるのが恥ずかしくて勝手にそんな声が出てしまったのかもしれない。
 頬が熱くなるような恥ずかしさを感じていたのだが、それ以上に胸に快感へと直ぐに変わる事を予期する事ができる疼きがしていた。
「ん……あっ……あっ!」
 もう片方の手で、オタベックにズボンの上から固くなっている下肢の中心を触られる。形を確かめるようにしてそこを指ですっと撫でられると、背筋から溶けていってしまいそうな恍惚感がした。
「ん……あっ……もっと……もっと」
 ユーリは更なる快楽を欲し、それを求める言葉を口走ってしまった。恥ずかしい事を言った事を後悔しながらも、気持ちが高揚していた。更にそれを欲し次々に恥ずかしい事を言ってしまう。
「んっ……あっ……きもちいっ……そこ……もっと……それすき……あっ……」
 まるで砂糖水の中に浸かっているような気持ちへとなっていると、上着の中にするりと手が入って来た。
 肌にオタベックの厚みのある手を感じていると、指先が乳首に触れる。かりかりと指で引っかけるようにして触られると、敏感になっているそこから全身に甘い痺れがじんと広がっていく。
 体に雅音が響いている時のようであると思っていると、上着を捲りあげられる。触られた事により、普段は慎ましい色をしている乳首が今は淫らな色へとなっている。熟れた果実のようになっているそこを、オタベックに口へと含まれる。
「んぅ……あっ……ん……きもちい……おっぱいきもちいい……あっ……」
 口に含むだけで無く、オタベックは大きく熱い舌で何度もそこを舐めた。快楽によってユーリは体を大きく捩ったのだが、オタベックの口唇愛撫が止まる事は無かった。
「あっ……んぅ……」
 強く乳首を吸うと、オタベックはそこから唇を離した。それと共に下肢の中心を撫でたままになっていた手をそこから離す。
 上着を脱がしたオタベックに、ズボンも脱がされる。脱がした服をベッドの下に落としたオタベックに、今度は下着を脱がされる。素裸になるとまるで真夜中の街の中に放り出されたような気持ちへとなり、それを誤魔化そうと足を動かしてしまう。
「足を広げてくれ」
 恥ずかしいのだが足が勝手に開いてしまう。
 オタベックの視線が、下肢の中心で昂ぶっている物だけで無く、その奥にある部分へと向かっているのを感じる。興奮と期待からずんと腰の辺りが重くなった。それは蟠りのように腰に留まったままになっている。
 ごくりと息を飲むと、性器を掴んだオタベックにそこを手の平でなぞられる。
「んぅ……」
 ぞくぞくしたものを太股の付け根に感じ、自然と足が動いてしまう。先端を手の平で捏ねるようにして撫でた後、オタベックはそれを口に含んだ。
「あっ……んぅ……」
 そこを初めて口唇愛撫された時には慌てふためいた。そして、そんな事などしなくて良いと訴えたのだが、オタベックはそれを止めようとしなかった。
 ねっとりと暖かい口腔に包み込まれ舌でそこを舐められ、とえも言われぬ快感がする。それを経験した後は、もう何も拒む事はできなくなってしまう。だからといって、恥ずかしさが無くなった訳では無い。今も忸怩たる思いである。
「んぅ……あっ……きもちい……あっ……」
 感じている事を吐露しているのは、それを告げれば同じ事を再びして貰える事を今までの経験から知っていたからという理由もある。
 快感に心を奪われていると、オタベックの手が肘窩に入って来る。ぐいっとオタベックが肘窩を押した事により、ユーリは体を折り曲げる格好へとなった。
 元々体が柔らかいので、引退したからといって固くなる事は無い。普通の人間ならば辛いのかもしれないが、ユーリは全くその体勢を苦しいと思う事は無かった。しかし、そのままでいる事はできなかった。今からオタベックが何をしようとしているのかという事が分かっていたからだ。
「やぁっ……それやだって言ってんだろ」
 ばたばたと足を動かしたのだが、手を離そうとしなかったオタベックに会陰部を舐められる。
「やっ……んぅ……あっ……」
 会陰部を舐められて感じるのだという事など、オタベックにされるまで知らなかった事である。気持ち悦いからといって、そうされたままでいる事はできない。それは、そこを舐められる事が恥ずかしいからだけでは無い。オタベックがそれだけで終わらない事を知っていたからだ。
「やだっ……あっ……やめっ……んぅ……」
 体を捩りながら背中を動かす事によって、ユーリはオタベックから離れると共に顔をそこから離そうとした。しかし、足を固定されているので大きく動く事ができず、顔を離す事はできなかった。そして、オタベックから離れる事もできなかった。
 オタベックの舌が、ぴちゃぴちゃと会陰部を舐めたまま後方へと移動していっている。このままでは汚らわしい場所を舐められてしまう事になる。
「だめ……やっ……あっ……んぅ」
 抗っても無駄である事は分かっていたのだがそこを舐められたく無くて抵抗を続けていると、ねっとりとしたもので窄まりを舐められる。
「やだっ……それやだっ……んぅ」
 ここを性行の際に何度も舐められているのだが、何度されても慣れる事ができない。こんな行為に慣れる事ができる筈がないので、それは当然なのかもしれない。
「やだっ……やだっ……あっ……んぅ……ああっ……」
 襞を伸ばすようにして丹念に後孔を舐めていたオタベックは、そこが食べ頃の果実のように柔らかく解れると舌をずるりと中に沈めた。中をかき混ぜるようにして舌を動かしては抜く。再び沈めてはかき混ぜるという事を繰り返される。
「んぅ……あっ……ああっ……」
 嫌悪感と羞恥が薄れる事によって強くなった快楽に意識を飲み込まれてしまう。快感を夢中で追い求めていると、オタベックが秘められた場所を舐めるのを止めた。
 オタベックが手を下ろした事により、体が元通りになる。
「んぅ……あっ……」
 肘窩から手を離したオタベックに脇腹を撫でられると、そこにぞくぞくとしたものを感じるだけで無く、触られていない体内がむずむずとした。体内を指で抉られたくなっていると、後孔に指が触れる。
「あっ……んぅ……ああっ……」
 ずぶずぶとオタベックが熟れて柔らかくなっている肉の中に指を沈めていく。
 欲していたものを得る事ができた事により、既に何度も経験した事がある中毒性のある麻薬のような快感がそこにした。
「んぅ……ああっ……あっ……だめ……イきそっ……」
 ずぶずぶと体内で指を動かされると、快感が高まり今にも高見へと上り詰めてしまいそうであった。
「ユーリ」
 低音の声が耳に響いている。耳の奥を擽られているように感じながらユーリは達した。
「んぅ……」
 指を締め付けるのを止めると、埋まっていたそれが体内から出ていく。先ほど体に籠もっていた熱を放ったというのに、まだ体内が疼いたままである。
「だめ……もっと……」
 再び指を沈めて欲しいのでは無い。もっと固く大きな物で体内を犯されれば更に気持ち悦い事を知っているので、それを体が求めていた。
 最初はオタベックの物を受け入れると苦しいだけであった。しかし、徐々に感じるようになっていき、今ではそれを求めてしまうほどである。
「分かった」
 オタベックの顔は欲情に染まったものへとなっていた。ユーリの姿を見て興奮しているのだと思うと、自然と頬が熱くなり息を飲んでしまう。視線を離す事ができずにいると、オタベックが服を脱ぎ始める。
 筋肉が付き難い体のユーリと反対に、オタベックは筋肉が付きやすい体である。現役時代から、スケーターとしては筋肉質な体をしていた。
 オタベックが引退をしてから、それでも筋肉が付き過ぎてしまわないように調整していたのを知った。気を遣う必要が無くなった今は、現役時代よりも筋肉隆々とした体をしている。
 何度見ても壮観である。オタベックの体に釘付けになっていると、丸裸になったオタベックが足の間に入って来た。
 下肢の中心に視線を遣ると、そこにある物は昂ぶり立ち上がっている。早く欲しい。はしたないという事は分かっていながらも、そう思わずにはいられない。目を眇めながら性器を見詰めていると、それを掴んだオタベックが後孔に先端を宛がう。
「挿れるぞ」
「あっ――」
 大きな物が体内を埋め尽くしていく。頭の芯が痺れているようである。瞼を閉じながら体を弓なりにすると、体を満たしていた血を沸き立たせるような物が体から溢れる。
 びくびくと体を震わせながら性器を締め付けると、体に入っていた力を抜く。
「イったのか?」
「ん……きもち悦くて……」
 肩で息をしていると、汗で髪が張り付いている額を撫でられる。
「んぅ……」
 達したばかりであるので全身が敏感になっており、感じる場所でそこは無いというのにそこから甘く溶けてしまいそうになった。
「動いても平気か?」
「へいき……動いてほしい……」
 そう言ったのは、まだオタベックが欲望を吐き出していない事が分かっていたからだけでは無い。まだ体が夢中になってしまうような快楽を求めたままになっていたからという理由もある。
「あっ……ああっ……きもちい……オタベック……あっ……」
 オタベックが動き出した事により怒濤の勢いで快楽が次々に体を襲う。腰の辺りにうだるような熱さを感じる。そこから全身が溶けてしまいそうだ。
「ユーリ」
 行為の最中に名前を呼ばれると、ぞくぞくしたものをいつも体に感じてしまう。今も甘い痺れが背筋にしている。
「んぅ……もっと名前呼んで……」
「ユーリ、ユーリ」
 オタベックは望んだ通り何度も名前を呼んでくれた。胸が満たされるのを感じながら、ユーリは体内で抽挿しているオタベックの欲望へと意識を向ける。先走りの液によって性器は滑るようにして体内で動いている。そんな肉の塊は最初よりも大きくなっていた。
「あっ……んぅ……。あっ……ん……おたべっく……あっ」
「ユーリ……っ」
 聞こえて来た声は掠れたものであった。
「んぅ……イきそう?」
「もう少しだ」
 いつもならばそろそろ限界を迎えるのだが、まだ射精感がしていないようだ。しかし、決して感じていない訳では無いようだ。今日はただなかなか達する事ができないだけなのだろう。
「んぅ……はやく欲しい……なかに欲しい……あっ……いっぱい欲しい……」
 早く達して欲しいと思っているのは、終わらせたいと思っているからでは無い。オタベックに絶頂へと上り詰めるほど感じて欲しいという気持ちと、体内を熱い飛沫で満たして欲しいという気持ちからである。
 オタベックの白濁が体内に放たれるのだという事を考えるとぞくぞくしたものを感じ、自然と体が震えてしまう。
「ユーリ、煽らないでくれ」
「はっ……イって……あっ……オタベック……んぅ」
 達してしまわないように気を張っていると、オタベックの動きが激しいものへとなる。その事と体を掴んでいる手の力が強くなった事から、限界が近づいているのだという事を感じ取る事ができた。
「あっ……んぅ……」
「ユーリ、出すぞ」
 熱い吐息と共にそんな声が聞こえて来た後、体内で灼熱の飛沫が放たれる。
「あっ……んっ……」
 体の中でびくびくとオタベックの物が動いているのを感じる事によって、背中を押されるようにして絶頂に上り詰める。性器を締め付けながら体を大きく捩っていると、体を襲っていた全ての感情を奪うようなものが薄れた。
 体に入っていた力を抜くと、ずるりと体内に埋まっていた大きな物が抜ける。長時間それが入ったままになっていたからなのだろう。まだ体内に空洞ができたままになっている。それはいつも徐々に無くなっていく。
 まだ体内に意識を向けたままになっていると、横に体を倒したオタベックの手が伸びて来る。ぐいっと体を引き寄せられた事によって、ユーリは肩に頭を預ける格好へとなった。
 映画の中で、頭を相手の肩に乗せている女性の姿を見た事がある。それを見た時肩が邪魔になるのじゃないのだろうかと思ったのだが、実際にその体勢になった事により、意外に楽な格好である事を知った。それと共に、相手の体温を感じる事ができるので、落ち着く体勢であるのだという事を知った。
 真綿に包まれているような気持ちへとなっていると、オタベックに頭を撫でられる。その手つきは、大切な物を触っているようなものであった。オタベックに愛されているのだという事は十分に知っているのだが、それでも気持ちがふわふわとする。まるで雲の上にいるかのようである。
「ユーリ」
 名前を呼んでいるオタベックの声が心の中に染みこんでいく。誰かに名前を呼ばれてそんな風に思ったのは初めてかもしれない。
(俺もしかしてオタベックの事が好きなのかも)
 漠然とそう思った事により、難しい謎が解けた時のような開放感がした。その事から、オタベックの事が好きなのだという事を確信する。
 いつから好きなのだろうか。付き合うようになってから好きになったのだろうか。しかし、オタベックに対する気持ちが変わったような感じはしない。友人になった頃のままであると思う。それならば、友人になった時から好きだったのだろうか。
 確かにオタベックは、ユーリの特徴的な外見ばかりに惑わされて中身を見てくれない者たちと違っていた。今までどんなに欲していても貰う事ができなかった言葉をくれた。だから友人になったのだが、その時から好きだったとは思えない。その時は確かに友人であると思っていた筈だ。
 いつから特別な存在になったのだろうか。少しずつ気持ちが変わっていったのだろうか。否、ユーリの中でのオタベックの存在が徐々に大きくなっていったのかもしれない。
 少しずつオタベックに浸食されていったという事なのだろう。その事実は、ユーリを不快にするものでは無かった。
 納得すると急に眠くなってしまった。
「眠るのか?」
 瞼を閉じると手を止めたオタベックから声を掛けられた。その声は心地の良い子守歌のように聞こえるものである。
「ん」
 オタベックの声を聞いた事により一層眠くなり、返事をするのすらも億劫になった。短い返事をすると、水の中に沈んでいくように意識が薄れていく。

08.雪だるま

 濡れたタオルでユーリの体をオタベックが拭いている。
「少しやり過ぎてしまった」
「そんなに柔じゃねえよ」
 くすくすと笑いながら言うと、オタベックが安心した様子へとなった。
 疲れに逆らう事ができず性交が終わった後そのまま眠ってしまったのだが、一時間程度で目を覚ました。頭は冴えていたのだがまだ動くのが億劫になっていると、オタベックが後始末を始めた。
 浴室から持って来た濡れたタオルで体を拭いていたオタベックがそれを止める。
「後でシャワーを浴びに行こう」
 ユーリがまだ動きたく無いのだという事が分かっていたので、浴室に連れて行くのでは無く濡れたタオルで体を拭いたようだ。
「ああ」
 返事をしながらオタベックと一緒に入るのも良いなと思った。他人と風呂に入るのが好きであるので、ユーリは時折一緒に風呂に入ろうとオタベックを誘っていた。
 恋人同士になる前も誘っていた。その際困ったような顔へとオタベックがなっていたのは、ユーリに恋愛感情を持っていたからなのだろう。今更になって疑問に思っていた事が解決した。
「喉は渇いて無いか?」
 オタベックからそう言われると急に喉が乾く。喉が渇いていたのだが、それを言われるまで自覚していなかっただけなのだろう。
「乾いた」
「何が飲みたい?」
 冷蔵庫の中に無ければ買いに行ってくれそうな様子でオタベックはある。
「水で良い」
「遠慮せずに何でも言ってくれ」
 先ほど感じた事は正しかったのだという事がユーリは分かった。
「本当水で良いから」
 確かに冷蔵庫にありそうな物にしておいた方が良いだろうと思った。しかし、水が飲みたいと思ったのは本当である。今は甘い物よりも水の方が飲みたい。
「スパークリングと普通のどちらが良い?」
 漸くオタベックが納得したのだという事が分かった。
「スパークリング」
 普通の水を飲みたいと思っていたのだが、選択肢の中に入れられると急にスパークリングが飲みたくなってしまった。
「分かった」
 タオルをサイドテーブルに置きベッドを離れキッチンまで行ったオタベックが、冷蔵庫からペットボトルを持って戻って来る。差し出された緑色の瓶を受け取ると、ユーリは微炭酸のそれを飲む。
 乾いていた喉が潤う。半分ほど飲むと満足したので飲むのを止めると、飲み終えるのを待っていたオタベックから声を掛けられる。
「お腹は空いてないか?」
「今は腹減ってねえから大丈夫だ」
 甲斐甲斐しくオタベックが世話を焼いてくれる事に笑みを零しながら、ユーリは質問に答えた。
「飲み終わっているのならば片付けよう」
「ああ、頼む」
 手を差し出して来ているオタベックにペットボトルを渡す。ペットボトルを持ったままベッドを離れたオタベックはキッチンに向かう。
「愛されてるな、俺」
 オタベックの背中を見つめたまま、ユーリは頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。
「そうだな」
 ペットボトルを片付けたオタベックが小さく笑いながらこちらへと戻って来る。その姿を見ていると、このままずっと一緒にいたくなる。直ぐにユーリは、オタベックから一緒に暮らさないかと言われている事を思い出した。
 オタベックのその言葉に応ずるのは、気持ちを受け入れるのと同等の行動だ。オタベックの事が好きだという事に気が付いたのだから、迷う必要など無いだろう。
「なあ、オタベック」
「どうした?」
「一緒に暮らさないか?」
 目を見張った後、オタベックが春風のような優しい笑みを浮かべた。何故そんな事を言ったのかという事が伝わったのだという事が、反応から分かった。先ほどまでは安穏としていられたのだが、今は恥ずかしくて真っ直ぐに顔を見ている事ができない。
 赤い果実のように赤面しながら顔を背けていると、オタベックに体を抱きしめられる。
「一生大切にする」
 オタベックの声は、結婚式で誓いの言葉を述べるような誠実なものであった。胸が熱くなっているのを感じながら、ユーリもオタベックの体を抱きしめる。

 この半年後、皆に祝福されながらユーリはオタベックと結婚式を挙げた。

epilogue

 鳥の鳴き声を聞き目を覚ましたリズは、レースの付いた掛け布団の中から出ると窓まで行く。勉強机の側にある窓に掛かっている白いカーテンを開くと、既に見慣れている町並みと青く澄んだ空が見えた。
 昨日見た天気予報の通り今日は晴れであった。朝の空気を纏った明るい外を見詰めていると、聞こえて来ている鳥の声がおはようと言っているように感じる。
 一頻り外を眺めると、リズは窓を離れ優しい色調で纏められた部屋の中にあるワードローブに向かう。ピンクと白の扉を開けると、入浴した後に着たパジャマを脱ぎ中から今日着る服を取り出す。
 様々な色の服が詰まっているワードローブの中から選んだのは、ネイビーと白の爽やかな見た目の夏を感じるワンピースだ。それに着替えると、靴下を履き子供部屋を出る。
 廊下を歩いていると、美味しそうな匂いがして来た。いつも先に目を覚ましているユーリが、キッチンで朝食の準備をしているのだろう。
 空腹感がしているのを感じながらバスルームに向かっていると、にゃあと鳴く声が聞こえて来た。直ぐに廊下の向こう側から灰色と白の毛をした猫が姿を現す。
「おはよう、ピョーチャ」
 リズは側までやって来たピョーチャの頭を軽く撫でる。
 ユーリが昔から飼っている猫のピョーチャは、二十年近く生きている高齢の猫だ。そんなにも猫が長生きをするのだという事を知らなかったので、ピョーチャの年齢を知った時には驚いた。
 ピョーチャと共にバスルームの中に入ると、洗面台まで行きそこで顔を洗う。清潔な良い香りのするタオルで顔を拭き部屋を出ると、廊下を再び進む。
 奥にキッチンのあるダイニングの扉の前まで行くと、中から料理をする音が聞こえて来た。扉を開け部屋の中にピョーチャと共に入ると、エプロンをしてキッチンで料理をしているユーリが振り返る。
「おはよう、パパ」
「もう起きて来たのか。顔は洗ったか?」
「洗った」
 柔らかな笑みを浮かべたユーリは、映画に出て来そうなほどの美貌の持ち主だ。毎日見ているというのに、そんなユーリの顔にいつも見惚れてしまいそうになる。凜として美しいユーリには、楚々とした白いサマーニットがよく似合っている。それは、伴侶からプレゼントで贈られた物だそうだ。
「そうか」
 料理の手を止めているユーリの元まで行くと、体を抱きしめ頬へとキスをしてくれる。その時、甘いのだが清涼感のある香りがした。
 ユーリに抱きしめられると、いつも良い香りがする。どんな香水をしているのかという事が気になり尋ねた事が以前あるのだが、何も使っていないそうだ。その香りはユーリの香りのようだ。
 キスをして貰った時には、同じようにキスをするのが決まりになっている。リズも同じようにユーリの頬へと唇を軽く押しつける。
「もう直ぐ飯ができるから待ってろ」
 体を解放したユーリから離れると、明るい色の花が生けてある花瓶の置いてあるテーブルに行く。花瓶の隣にはパンが盛り付けられている木でできた皿がある。その横にはジャムが置いてある。パンはいつも買っている近所にあるパン屋の物なのだろう。
 椅子へと座りリズはユーリが料理している姿を眺める。
 コンロの火を止めたユーリが食器にスープを注ぐ。色と香りからミネストローネなのだろう。椅子から立ち上がったリズは、手伝いをする為にユーリの元へと行く。
「手伝うよ」
「サンキュ」
 中に入っているスープを零してしまわないように注意しながら、リズはワークトップに置いてある皿をテーブルに運ぶ。
 食事の準備の手伝いは、ユーリにして欲しいと言われてするようになったのでは無い。見ているとしたくなり、自発的にするようになった。その事をユーリは、良い子だと言っていつも褒めてくれる。それが嬉しくて一層お手伝いをしたくなる。
 テーブルに皿を運び終えユーリの元に戻る。
 ユーリは皿にスクランブルエッグを盛り付けていた。皿には他にベーコンやソーセージという肉類。アスパラガスやトマトなどという野菜も盛り付けられていた。料理を全て盛り付け終わった事が分かると、それもテーブルに運ぶ。その途中、ドアが開いた。
「お父さん」
 部屋の中に入って来たのは、普段は掛けていない眼鏡をしたオタベックであった。目が悪いのだが、普段はコンタクトをしているらしい。
「おはよう」
「おはよう!」
 ユーリが挨拶をしたので、それに続きリズも朝の挨拶をした。先ほどまでは不機嫌にも見える顔であったというのに、今は目尻を下げている。
「二人ともおはよう」
 オタベックは鋼のように硬質な印象があるのだが、笑うと少し可愛い。そんなオタベックの姿を見て頬を緩めたリズは、皿をテーブルに置くとオタベックの元へと行く。
「お父さん」
 父親が二人いるので、ユーリの事はパパと呼びオタベックの事はお父さんと言っている。
 側まで行くと、片手に新聞を持ったオタベックが腕を広げる。毎朝オタベックはダイニングに現れる前に、朝食の後に読む新聞を玄関に取りに行っている。
 オタベックに体を抱きしめられ、先ほどユーリがしたように頬へとキスをされる。体を屈めているオタベックに、リズも同じように頬へとキスをする。ユーリとだけで無く、オタベックとも毎朝こうやって愛情を確認していた。
 ここに来たばかりの頃は恥ずかしかったのだが、今は慣れ幸せな気持ちへとなるだけになっている。
 体を解放したオタベックの視線がテーブルに向かったので、リズもテーブルを見る。オタベックとキスをしている間に、朝食の準備が終わったようだ。テーブルには美味しそうな料理だけで無く、飲み物も並んでいる。
「今日も美味しそうだな」
 料理を見やりながら、オタベックが眼鏡の奥にある目尻を下げた。
「今日はビーンズをたっぷり入れたミネストローネにしてみた。ジャムは昨日買ったやつだ」
「美味しそうなジャムがあったって言ってたな」
「ああ」
 ジャムは昨日リズが学校から帰った後に行ったスーパーマーケットで、ユーリがどれにするのかという事を悩んでいた物だ。
 新しく入荷した無農薬の果物を使ったジャムは、種類が豊富であった。どれが食べたいのかという事をユーリから訊かれたので、リズはイチジクのジャムが良いと言った。その結果、ユーリが選んだのはイチジクと杏のジャムである。
 今テーブルに並んでいるのは、イチジクの方である。そちらをユーリが先に出したのは、リズが選んだ方だからなのだろう。
 オタベックがテーブルに向かって歩き出したので、リズもテーブルまで行く。オタベックと別れると、愛用している花柄の可愛らしい絵が描いてあるスプーンとフォークが置いてある席まで行く。腰を下ろすと、テーブルまでやって来たユーリもオタベックの向かいにある椅子へと腰を下ろした。
 ダイニングのテーブルにはユーリとオタベックが向かい合って座り、リズはユーリの隣にいつも座っている。
「では、食べるか」
「そうだな」
 オタベックの言葉にユーリが返事をする。フォークとナイフをオタベックが手に取るとそれに続いてユーリも食事を取り始めたので、リズも香りが良いだけで無く見た目も良い料理を食べ始める。
 二人はリズの両親だ。男同士である二人は勿論、リズの本当の親では無い。リズは二年前に二人に引き取られ、二人の子供になった。
 二人に引き取られるまでリズは、児童養護施設にいた。若くして子供ができた為に育てる事ができなかった母親に、リズはそこに預けられた。否、まだ赤ん坊の頃そこに捨てられてしまったと言った方が良いだろう。
 児童養護施設にいれば不自由の無い生活をできるが、そこは家では無い。施設の職員はいるが、親はいない。親が欲しくて養育者を求める者が周りに多くいたが、リズは養子に出たいと思った事は無かった。それなのに、ある日二人と出会った。
 同性の夫婦は異性の夫婦よりも少ないが、偏見などは無い。学校で普通の事であると教えられたからだ。それでも、自分を引き取る事になったのが同性の夫婦で驚いた。
 最初は親になった二人の事を怖い人だと思っていた。見た目は正反対なのだが、二人とも冷たそう見えたからだ。特に高価な人形のような見た目をしたユーリは、氷のように冷たく見えた。しかし、二人とも怖い人では無いのだという事を直ぐに知った。
 笑いそうに無い見た目であるというのに、ユーリは小さな子供のような顔で笑う人であった。そして、荒っぽい喋り方をする人であった。しかし、怖いとは思わなかったのは、言葉の端々から情の厚い性格をしているのだという事を伺う事ができたからだ。
 オタベックも暫く一緒にいる事により、無口で感情を読み取り難いだけで優しい男の人であるという事を知った。
 そんな二人をリズは直ぐに好きになり、二人に好かれたと思うようになった。それに二人は気が付いたのだろう。二人から、子供が親から愛情を貰うのは当然のこと。難しい事は考えなくて良いと言われた。
 そんな事を言われたのは初めてである。そして、そんな事を考えた事も無かった。愛して貰うには、相手から好かれなくてはいけないのだとずっと思っていた。そんな言葉により、リズは一層二人の事が好きになった。そして、親が欲しいと思っていないのでは無かったのだという事に気が付いた。
 愛してくれる親が欲しい。そんな風に思っていたが、自分では愛して貰う事ができないと思っていたのだ。
 それから二年が経過した事により、リズは八歳から十歳へとなっている。ここに来てからの二年間は、幸せ過ぎるほどであると思う毎日だ。
 食事を終えると、空になっていたグラスにユーリがオレンジジュースを注いでくれる。既にオタベックは食事を終えていたが、ユーリはまだパンを食べていた。たっぷりとジャムを乗せたパンを食べているユーリの姿は幸せそうなものであった。
 実家が貧しかったので、幼い頃食べたい物を食べる事ができないと以前言っていた。何を食べても美味しそうにしているのは、それが原因なのかもしれない。
 ジュースを飲みながら食べている姿を見ていると、ユーリは視線に気が付いたようだ。ユーリの視線がリズに向かう。
「どうかしたか?」
「パパが美味しそうに食べてたから」
「そうか」
 照れたように顔を赤らめながら、ユーリはパンを再び食べ始める。
 今度は斜め前に座っているオタベックへと視線を遣ると、目を眇めてユーリを見詰めていた。時折オタベックはこんな風にユーリを愛おしそうに見詰めている時がある。それを見ると、ユーリの事がどれだけ大切でどれだけ愛しているのかという事を感じる事ができる。
 それに対して全く嫉妬しなかったのは、オタベックに対する愛情が薄いからでは無い。自分の事も愛してくれていて、ユーリとは家族であるからだ。オタベックの視線に気が付かずパンを食べていたユーリが、食事を終えミルクを飲む。
 朝食の際、リズの飲み物はいつも果汁ジュースで、ユーリはミルクでオタベックは珈琲だ。ユーリが珈琲を飲まないのは苦手だからのようだ。父親であるのだが、そんなユーリの事を可愛いと思ってしまう。
「ごちそうさま」
「ああ。美味しかったよ」
「美味しかったよ!」
 オタベックの言葉にリズも続くと、ユーリが嬉しそうに頬を緩めた。
 食事の後読んでいた新聞をオタベックがテーブルに置く。
「今日はどうする?」
 オタベックは何処に行きたいのかという事を訊いて来ているのだ。今日はリズだけで無くオタベックも休みである。
 休みの日は、何か無ければ二人は必ずどこかに連れて行ってくれた。ここに来てから幾つも大切な思い出が増えた。
「んー」
 オタベックだけで無くユーリの視線もリズに向かう。結婚と同時に仕事を辞めており今は専業主夫をしているので、ユーリは仕事をしていない。
 子供が欲しいので仕事を辞めたそうだ。ユーリが結婚をするまで何の仕事をしていたのかという事は知らない。何故か教えてくれないからだ。華やかで人を惹きつける容姿に、痩せすぎでは無いのかと思うほどの痩身をしている。
 モデルをしていたのかもしれない。教えてくれないのは、その事を言うのが恥ずかしいからなのかもしれない。人を魅了するような外見をしているというのに、ユーリは自分の容姿が好きではないようだ。
「スケートしたい」
 いつもは微笑ましそうな顔へとなる二人であるというのに、リズの台詞を聞き目を丸くしていた。何かおかしな事を言ってしまったのだろうか。そう思っていると、二人が顔を見合わせた。
「何でスケートがしたいんだ?」
 ユーリの様子は何か心配をしているように見えるものであった。何故そんな様子へとなっているのかという事が分からず不思議に思いながらも、リズは質問に答える。
「こないだテレビで見たスケートの試合が凄い格好良かったから!」
 見るつもりは無かったのだが、見たい番組が見つからずにいた時に偶然スケートを見る事になった。最初は軽い気持ちで見ていた筈であるというのに、気が付いた時には夢中になっていた。その時見た演技を思い出してしまった事によって、声に熱が入ってしまった。
 二人が真剣な顔へとなっている事に気が付き、リズははっとした。いつもならば二人はこんな反応はしない。今までそんな話を一度も聞いていないだけで無くそんな素振りも無かったのだが、二人はスケートが嫌いなのかもしれない。
「ごめんなさい」
「何で謝るんだ?」
 ユーリは慌てた様子へとなっていた。その事から思い違いをしてしまったのかもしれないと思った。
「パパとお父さんはスケート嫌いだったのかもしれないって思って」
「嫌いでは無い」
 そう言ったのは、黙って話しを聞いていたオタベックである。三人で会話をする際、オタベックはユーリとリズの話を聞いている事が多い。
 思った通り勘違いである事が分かり安堵した後、それならば何故あんな態度へとなったのかという事がリズは気になった。
「ユーリも俺も少し驚いてしまっただけだ。さすが俺たちの娘だ。リズがスケートをしたいんだったらしよう」
 何故そんな風に言ったのかという事は分からなかったのだが、誇らしいと言わんばかりの様子でオタベックから言われ頬が緩んでしまう。
「ユーリはどうだ?」
「ああ。オタベックと同じ気持ちだ。お前がスケートしたいっていうんだったらしたらしよう」
 こうしてリズは、二人の父親と共にスケートをする事になった。
fin.

白鳥の王子
01.ネズミのおんがえし

 白で統一された広いバスルームの中には大きな浴槽がある。琺瑯でできた床置き式のバスタブは、古めかしさを感じるが美しい見た目をしている。そんなバスタブだけで無く、バスルームにある棚なども骨董品のようである。どれも、インテリアに拘りのあるオタベックが選んだ物だ。
 入浴剤によって甘い香りがしている湯から出ると、ユーリは栓を抜く。湯が排水溝の中に吸い込まれていく音を聞きながら、棚まで行くとそこにあるバスタオルで体を拭いていく。
 使い終えたバスタオルを銀色の籠に入れると、ユーリは薄水色のナイトウエアに着替える。ナイトウエアは、伴侶であるオタベックと共に行った専門店で購入した物だ。オタベックは同じデザインの紺色の物を選んだ。
 着替えが終わったので簡単に片付けをすると、ユーリはバスルームを出て廊下を進む。
 寝室までやって来たので中に入ると、先に入浴を済ませたオタベックがタブレットで何か読んでいる姿が目に留まる。真剣な顔であるので、読んでいるのは仕事関係の物なのかもしれない。
 ユーリがやって来た事に気が付いたオタベックが、タブレットから顔を上げる。オタベックがいるベッドは、男二人で寝ても余るほど広いキングサイズだ。この家に引っ越して来た際に、二人で行った家具屋で選んだ物だ。
 靴を脱ぎベッドに上がりオタベックの隣にいくと、肩に腕が回って来る。オタベックと密着するのは好きなので、そんな風にされた事を不快に思う事は無かった。
「まさかリズがスケートをしたいって言うとはな」
「そうだな」
 ユーリの漏らした言葉にオタベックが同意をした。
 何処に行きたいかという質問に対するリズの返答に狼狽してしまったのは、ユーリもオタベックもスケートをしていた事を話していないからだ。わざわざ話す必要が無いと思ってそうしたのでは無く、知られたく無いという気持ちから言っていない。そんな風に思っているのは、スケートをしていたと言えばリズもしたいと言い出すかもしれないと危惧したからだ。
 リズにスケートをさせたく無かったのは、スケートは楽しいだけでは無い競技である事をユーリだけで無くオタベックも知っていたからだ。決して、養子であるリズにスケートをさせたくないという気持ちからでは無い。リズを迎え入れた日から、リズの事をユーリは本当の娘であると思っている。
「本当にさせて大丈夫か?」
 昼間リズの意見によりスケートをする事になったのだが、結局行き先が変わった。それは、準備ができていないので、急に行く事ができないからだ。ユーリとオタベックがそう言うとリズは納得してくれたので、今日は結局動物園に行った。
「本格的にしたいと言うとまだ決まった訳じゃ無い。ただ遊ぶだけで満足する可能性も大きい」
「確かにそうだな」
 スケートをすれば魅了されてしまいスケーターになりたいと言い出すと思っていたが、そうだと決まった訳では無いという事に言われるまで気が付かなかった。スケートには抗う事ができない強い魅力があるが、誰もがそれに捕らわれてしまうとは限らない。そんな当たり前の事に気が付く事ができなかった。
 胸を撫で下ろしていると、ユーリはオタベックが目を細めた事に気が付いた。胸に顔を擦り寄せると、そんなオタベックの手が頭へと移動する。包み込まれているような気持ちへとなりながら、ユーリは頬を緩めた。

 飲み物の準備が終わり、ユーリはもう一度今日持って行く荷物の中身を確認する。必要である物は全て鞄の中に入っていた。忘れ物は無い筈である。
「よし」
 昔は大雑把な性格が原因で忘れ物が多かったのだが、今は滅多に必要な物を忘れてしまう事は無くなっている。そうなったのは、リズを養子に迎えてからだ。
 必要な物を忘れてリズに恥をかかせたり困らせたりしたく無いので、忘れ物をしないように気を付けるようになった。この変化は、親になったからなのだろう。
 結婚が決まってから子供が欲しい。血の繋がりは必要無い。オタベックと子供を育てたいと強く思うようになった。一人で勝手に決める事ができない事であるのでオタベックに相談した事によって、養子を迎え入れる事になった。そして、子育てに専念する事ができるように結婚と同時にコーチを辞めた。
 スケートから離れる事に全く未練が無かった訳では無い。しかし、子供が欲しいという気持ちの方が強かったので、その事を後悔していない。
 今日はスケートをするので動きやすい格好をしたユーリは、鞄を持ってリビングを離れる。
 廊下を進みリズの部屋に向かう。この家は、結婚が決まった時にオタベックと共にお金を出し合って購入した物だ。結婚前、オタベックは賃貸で暮らしていたが、ユーリは持ち物件に住んでいた。そのマンションはオタベックと共に暮らすのならば十分な広さがあったのだが、子供を育てるには少し手狭であった。
 養子を迎える為にこの家を買った際、ユーリも金を出そうとしている事に気が付いたオタベックから、全て自分が金を出す。そのぐらいの甲斐性はあると言われた。しかし、それに対して自分も家を買う金を出す事ができるぐらいの蓄えはある。それに、全て出して貰うのは嫌だ。今まで通りの平等な関係が良いと告げた。
 オタベックは最初は渋っていたのだが、説得をした結果同意してくれた。全く同じ経緯で、結婚式の費用もユーリが半分出している。しかし、結婚指輪は自分が全て出す。それだけは譲る事ができないとオタベックが言うので全て出して貰った。
 オタベックと共にジュエリーショップに行って選んだのは、普段邪魔にならない華美で無く落ち着いた銀色の指輪だ。中にお互いの名前を刻んでいるそんな指輪は、結婚指輪であるが左手の薬指に嵌めている。それは、ロシアでは結婚指輪は右手に嵌めるのだがカザフスタンでは左手に嵌めるからだ。
 どちらの指に嵌めるのかという事は、オタベックと話し合って決めた。
 リズの部屋まで行くと足を止め扉を軽く叩く。
「準備は終わったか?」
 まだ反抗期になっていないが、リズは多感な年齢である。異性の親に勝手に部屋に入られるのは嫌に決まっているので、声を掛けてから部屋に入るようにしている。
「終わったよ」
「入っても良いか?」
「良いよ」
 リズの許可を貰ったので部屋の中に入る。可愛らしい家具の中にいるリズは、普段とは全く違うTシャツに長ズボンという格好である。何を着ていけば良いのかという事が分からないと言ったリズに、ユーリは動き易い格好をすれば良いと言っていた。
 養子に迎えたばかりの頃は地味な格好をしていたリズであるが、今は砂糖菓子のような可愛らしい格好をしている。家にやって来たばかりの頃服を買いに行った時、リズが本当は可愛い格好がしたい。しかし、それはお金が掛かるのでできない。だからしないのだという事に気が付いたので、着たい物を着れば良い。お金の心配はしなくて良いと言った。
 それでもまだ最初は遠慮していたのだが、漸く着たい物だけで無く欲しい物を気兼ねなく言ってくれるようになった。
 長い髪を邪魔にならないように一つに結んでいるリズが、髪を左右に揺らしながら側までやって来る。
「これで大丈夫だよね?」
「ああ」
「変じゃない?」
「変じゃないぞ」
 服装を気にしているのは、年頃の女の子だからなのだろう。否、性別は関係が無いのかもしれない。リズと同じ年頃の自分も服装を気にするようになった事をユーリは思い出した。
 それは、試合に出て賞金を貰うようになり自由に使える金ができたからという理由もある。リズには己のように、幼い頃から自分で金を稼がなくてはいけないという環境に置く事は絶対にしたくない。
「行くか」
「うん」
 元気よく返事をしたリズと共に部屋を出るとリビングに戻る。
「準備できたみてえだな」
「ああ」
 リビングの中には、出かける準備を済ませているオタベックの姿があった。自室に行っていたオタベックは、準備が終わりリビングにやって来たようだ。寝室は一緒であるのだが私室を別々に持っている。それは、お互いに衣装持ちであるのとオタベックがCDなどを大量に持っているからだ。
 結婚をする迄は休みの度にクラブに行っていたオタベックなのだが、結婚をしてからその頻度がぐっと下がった。そして、リズがやって来てからは全く行かなくなった。
 子供がいるというのに遊んでは駄目だと思ったのだろう。確かに頻繁に夜遊ぶために出かけるのは、リズの教育に良くないだろう。しかし、息抜きも必要である。時々であればクラブに行っても構わないと言ったのだが、その必要は無いと言うだけであった。
「お父さん、どう似合う?」
 ユーリの返事だけではまだリズは不安であったようだ。
「ああ、リズはどんな格好をしても似合うぞ」
 側までやって来たリズを見詰めたままオタベックは目を眇めた。
 リズの母親は白人で金髪碧眼であったようだ。しかし、リズは黒真珠を思わせる黒い瞳と髪をしている。そして、顔立ちも白人かアジア人かという事を悩むようなものだ。それは、父親がアジア人だからのようだ。
 オタベックがアジア人でユーリが白人であるので、リズは自分たちの間に子供ができたのならばこんな容姿なのかもしれないという見た目をしている。一緒に暮らしているうちに表情が似たからなのかもしれない。オタベックだけで無くユーリにも似て来た気がする。その為、時々血の繋がった子供であるように錯覚してしまう時がある。
 漸くリズは納得したようだ。表情からその事が分かったので、ユーリは二人と共に部屋を出る。
 自宅の駐車場には三台車がある。一台はユーリが結婚をする前から乗っている物だ。残りの二台はオタベックの物で、片方は仕事用でもう一つは私用の物だ。
 結婚した際に買い換えた私用の車は、家族でキャンプに行く事ができるような大きな物だ。子供を迎えるならばこちらの方が良いだろうと言って、オタベックがその車を選んだのだ。
 スケート場まではオタベックが運転する私用の車で行く事になっている。車まで行くと、二人と共に車内に乗り込んだ。

 自宅を離れた車はスケート場まで行くと駐車場の中に入って行く。
「ここなの?」
「ああ」
 リズが驚いたようにして訊いて来たのは、やって来たのが大衆スケート場では無かったからなのだろう。やって来ているのは、自宅から車で一時間ほど掛かる場所にあるユーリが長らくホームリンクにしていたスケート場だ。
 外観からも大衆スケート場では無い事が分かるので、何も言っていないというのにそうでは無いという事にリズは気が付いたようだ。
 何も連絡をせずに、一般人は入る事ができないスケート場を使おうとしている訳では無い。事前に許可は貰っている。
 コーチを辞めているので、ユーリも今は部外者になっている。そして、ロシアのスケート連盟と全く関係の無いオタベックとリズも使う事ができる事になったのは、ユーリがロシアのスケートに多大に貢献して来たからだ。
 大衆のスケート場では無くわざわざ国が運営している練習場で滑る事にしたのは、今はオフシーズンで使っている者が少ないのでのんびり滑る事ができるからだ。許可が下りたのは、オフシーズンである事も理由の一つだ。
 車が駐車場で停まったので、荷物を持って降りる。オタベックとリズも車から降りたので、練習場の入り口へと向かう。建物内に入ると、物珍しそうにリズが中を見る。リズほどあからさまな態度は取っていないが、オタベックも中が気になるようだ。
 オタベックもロシアの練習場に入るのは初めてなのだ。
「ユーリ!」
 受付まで行くと、中にいるスタッフから弾んだ声で名前を呼ばれた。ここに来なくなってもう二年が経過しているのでスタッフは全て変わってしまっているかもしれないと思っていたのだが、まだここに務めたままになっている者がいた。
「久しぶり」
「二年ぶりかしら?」
「そうだな」
 二年前は毎日のように顔を合わせていたからなのだろう。もっと長い間受付のスタッフと会っていないように感じる。
「今日の事は上から話しを聞いているから、入って」
「サンキュ」
 受付のスタッフに礼を言うと、ユーリはここまで一緒にやって来ているリズとオタベックの方を見る。
「行こうぜ」
「ああ」
 オタベックが返事をしたので建物の奥へと入って行く。
 スタッフとの会話を聞き一層不思議になったのだろう。後を付いて来ているリズは、何か言いたそうな顔でユーリを見ている。スケートをやっていた事をリズにまだ話すつもりは無いので、何故受付のスタッフと顔馴染みであるのかという事を教えるつもりは無い。
 二人と共に奥にあるロッカーまで行くと中に入る。
「名前が書いて無い所だったら何処でも使って良いぞ」
「分かった」
 リズの返事を聞きながら、自然と視線が長らく使っていたロッカーに向かう。
 サンクトペテルブルクにやって来たばかりの頃に宛がわれたロッカーを、コーチを引退するまで使い続けた。二十年ほど使っていた事になるだろう。使っているうちに愛着が沸き、別を使う事はしなかった。
(あ、誰も使ってねえのか)
 もう二年が経過しているので、誰かそこを使っているだろうと思っていたが名前が書いてあるシールは貼られていなかった。鍵も付いたままになっているので、誰も使っていないという事なのだろう。
(俺に気を遣って誰も使わなかったとか。いや、それはねえだろ)
 いなくなっている相手にわざわざそんな事をする必要が無い。偶然誰も使っていないだけなのだろう。空いているので、ユーリは長年使っていたロッカーを使う事にした。
 ロッカーまで行くと、中に上着と荷物を入れてオタベックに視線を遣る。何故目線を遣ったのかという事にオタベックは気が付いたようだ。分かったというように小さく首を縦に振った。
「リズ」
「どうしたの?」
 ユーリの近くのロッカーに荷物を入れていたリズは、声を掛けられオタベックに顔を向けた。そんなリズにオタベックがここまで持って来た大きな鞄を差し出す。
「君のだ」
 鞄の中身を全く想像する事ができなかったからだろう。リズは不可解な面持ちでオタベックから鞄を受け取っていた。
 中に入っているスケート靴を取り出すとリズが目を輝かせる。
「もしかして買ってくれたの?」
 直ぐに借りた物では無い事にリズが気が付いたのは、スケート靴が真新しい物であったからだろう。数日前、仕事が終わったオタベックと待ち合わせをして、二人でこっそりケート用品店に行っていた。
「ああ。ユーリと一緒に選んだんだ」
「お父さん、パパ。ありがとう」
 リズから眩しさすらも感じる笑みを向けられ胸がじんとする。子育てをしていて大変な事が無いとは言わない。初めてのことばかりで戸惑うだけで無く、苦労する事もあった。しかし、リズの笑顔を見るとそんな事などどうでも良くなってしまう。
 一度すれば満足する可能性もあるというのにわざわざスケート靴を購入したのは、リズの笑顔が見たかったからだ。使わなくなった場合は、チャリティバザーに出すつもりにしている。
「気に入ってくれたか?」
「凄い可愛くて嬉しい!」
 本心からそう言っているのだという事が、弾んだ声と満面の笑みから分かる。
 リズの好みは既に把握している。可愛らしい物が好きなので、甘さを感じるピンクと白の物にした。リズの好きそうな物を選んだのだが、それでも気に入ってくれた事が分かりユーリは安堵した。
「良かった。靴の履き方分かるか?」
「分からない」
「じゃあ教えてやるから、そこのベンチで待ってろ」
 言いながらユーリは、ロッカーの中に入れた鞄からスケート靴を取り出す。
「それはパパの?」
 リズが不思議そうに言ったのは、鞄の中から出て来た事から借りたのでは無くユーリの物である事が分かるのだが、スケート靴が履き古した物であったからだろう。
 自分のスケート靴を持っているというのにわざわざ借りるような事はしない。それに、借りた物は滑り難いうえに怪我をする可能性がある。その為ユーリは、自分のスケート靴を持って来た。
「そうだ」
「ふーん」
 言いながらリズの視線が、同じようにロッカーの中に入れた鞄からスケート靴を取り出したオタベックに向かう。
「それはお父さんの?」
「ああ」
 オタベックも同じくスケーターであったので、当然自分のスケート靴を持っている。そんなオタベックのスケート靴もユーリの物と同じように使い古された物である。色はユーリの物が白でオタベックの物は黒だ。
「二人ともスケートした事あったんだ」
「ああ」
 リズの台詞は、ユーリとオタベックの現役時代を知っている者が聞けば驚くようなものだろう。小さく笑いながらロッカーを閉めると、ユーリはスケート靴が気になりこの場に残ったままになっていたリズとベンチに移動する。
 オタベックもベンチまでやって来たので、二人でリズにスケート靴の履き方を教える。
 リズが靴を履き終えたので、飲み物やタオルが入ったバッグを持ちベンチから立ち上がると二人と共にロッカーを離れる。スケート靴を履き慣れていないリズは、歩き難そうにしていた。その姿を見て、ユーリは自分もスケートを始めたばかりの頃はこんな風であった事を思い出した。
 ユーリも最初っから上手くスケート靴を履きこなせた訳では無い。
「凄い、広い!」
 リンクまで行くと、整氷された広いリンクを見てリズが目を丸くした。
「そうだろ。ここのリンクはスケートの練習場の中ではトップクラスだからな」
 長らくホームリンクにしていたリンクを見て感激しているリズを見て、ユーリは自分の物を褒められたかのように誇らしい気持ちへとなっていた。
 美しいリンクにはオフシーズンであるので、シーズン中のように沢山の選手の姿は無い。練習をする為にやって来ている数少ない選手の中には、コーチを辞めてから二年が経過しているので教え子の姿は無い。ユーリの教え子でまだ現役なのは一人だけだ。
 スケーターは選手生命が短い競技である。ヴィクトルのように三十歳近くまで現役を続ける選手は希だ。次々に辞めていく選手を見て来たのでその事を十分に知っているのだが、それでも寂しくなってしまう。
 リンクサイドにあるベンチまで行くと、緑色をしたそこにここまで持って来たバッグを置く。関係者以外入る事ができない練習場の中であるので、目を離していても取られてしまう心配は無い。
「じゃあリンクに上がってみるか」
「転んだりしたない?」
「俺が手を持ってやるから転んだりしねーよ」
 リズが安堵した様子へとなったので、共にリンクまで行くと先に中に入り手を差し出す。ユーリの手を掴んだリズが恐る恐るリンクに入る。まるで転んでしまうと大怪我をしてしまうかのように真剣だ。
「少し膝を曲げた方が良い。そうだ。そうそう。上手いぞ、リズ」
 弟子たちに指導するように厳しい態度になりそうであったので、そんな自分を抑えながらユーリはリズに氷上での立ち方を教える。子鹿のように小さく足を震わせているリズの手を持ったまま、ユーリは入り口を離れる。
「手を離すぞ」
「転んだりしない?」
「教えた通りにしたらしねえから大丈夫だ」
 不安そうな顔へとなっていたリズが覚悟を決めた様子へとなる。手を離したのだが、リズの体の均衡が崩れてしまう事は無かった。ユーリだけで無くリズもその事に安堵していた。
「ちゃんと立てるじゃねえか」
 褒めるとリズがはにかんだ。親馬鹿と言われるかもしれないが、その顔は幾つかあるリズの可愛い顔の一つである。写真に撮ってしまいたくなるような顔を見ていると、ユーリの顔も自然と綻ぶ。
「それじゃあ歩いてみるか」
「うん!」
 まだ歩くのは怖いと言うかもしれないと思っていたのだが、リズの様子は新しい事に挑戦したいというものであった。
 わくわくとしている姿は、ユーリの気持ちも高揚させるものであった。この感覚は久しぶりである。やはり自分はスケートが好きなのだと思いながら、リズが歩いている姿を見守る。
「歩けた!」
 転倒せずに歩く事ができたリズは、顔に喜色を浮かべるだけで無く全身で喜びを表現していた。
「今度は滑ってみるか」
「うん!」
 返事をしたリズに、ユーリは体を左右に揺れ動かしながら少しずつ前に体を進める自然滑走という滑り方を教える。この滑り方ができるようになれば、直ぐに自力滑走ができるようになる。
 最初は不安そうな顔をしながら前に進んでいたリズなのだが、直ぐに要領を掴んだ。
「さっきまでよりも早く滑ってみろ。もう滑れる筈だ」
「分かった!」
 自信に満ちた顔へとなっているリズは、言われた通り先ほどまでよりも早く滑り出した。転んでしまうかもしれないという心配があったのだが、バランスを崩してしまう事は無かった。
 リズの姿を見ていると、ユーリは初めてスケートをした時の事を思い出す。一緒に滑っていた同年代の者は皆足を滑らせていたのだが、ユーリは全く倒れてしまうような事は無かった。幼い頃の事であるというのにその時の事を今もよく覚えているのは、皆よりもスケートの才能がある事が嬉しかったからだ。
 実家が恵まれた家庭では無かったので、それが初めて感じた特別感であったのかもしれない。スケートに熱中したのは、祖父が褒めてくれるからという事もあったが、そんな感情を更に感じたかったからという理由もあったかもしれない。
 リズに自分の昔の姿を重ね、ユーリは目を眇める。
 リンクを滑っているリズの速度が速くなる。全く体勢を崩してしまいそうな様子が無かったので、そんな姿を安心して眺める事ができた。思い通りに滑る事ができるのが嬉しいのだろう。今まで見た事が無いほどであると思うほど、リズは楽しそうな顔である。
 暫く滑っている姿を眺めていると、快然たる気持ちでも疲れて来たのだろう。リズの呼吸が荒くなり顔に微かにではあったが疲労の色が出て来ている。
「ちょっと休憩するか」
「分かった」
 リズは名残惜しそうな顔へとなっていた。
 もう少し滑りたいのだろう。そんな顔をされるとまだここに居ても良いと言いたくなってしまう。それに、その気持ちは十分に分かるのだが、初めてであるので無理をして怪我をしてしまう可能性がある。それだけは避けたいので、ユーリはその言葉を飲み込む。
「オタベックの所まで行こう」
「うん」
 オタベックはリンクサイドでリズの姿を見詰めている。
 今日初めてであるとは思えないほど滑らかに滑る事ができるようになっているリズは、すいすいと入り口まで行く。リンクサイドに上がりオタベックの所まで行くと、両手を広げているオタベックにリズは抱きついた。
 オタベックが上手であった言って褒めると、リズは破顔しながら喜んでいた。微笑ましい二人の姿に頬を緩めながら、ユーリも二人の元へと向かう。入り口まで行きリンクサイドに上がると、ユーリが来るのを待っていた二人の元まで行った。
「ベンチで休憩するか」
「そうだな」
「うん」
 二人に声を掛けると、オタベックに続きリズが返事をした。
 二人と共にベンチまで行くと、そこに腰を掛ける。オタベックとリズもベンチに座ったので、ユーリは用意している飲み物を二人に渡す。
「ちゃんと水分補給すんだぞ」
「分かった」
 リズが飲み物を飲み始めたので、ユーリも水分補給をする。ボトルの中身はスポーツドリンクだ。現役時代にいつも飲んでいたスポーツドリンクを中に入れている。長い間毎日のように飲んでいたそれは、懐かしさすら感じる味であった。
 スポーツドリンクを飲み終えると、側に誰かやって来ている事に気が付いた。視線を遣った事によって、顔を強ばらせた少年がやって来ている事が分かった。
「どうした?」
「プリセツキー選手ですよね?」
「ああ」
 先ほどまでは緊張した面持ちであった少年の顔が明るいものへとなる。
「子供の頃、テレビで見て以来ずっとファンだったんです。引退されてコーチになられたって知って、プリセツキー選手の弟子になりたかったんです。……でも、なれなくて」
 少年は肩を落とし残念そうな様子で言った。やって来ている中にユーリがいる事に気が付き、わざわざそれを言う為に少年は声を掛けて来てくれたようだ。コーチ時代を知っているというのにわざわざ選手と言ったのは、彼の中でユーリは選手であるからなのだろう。
「そうか、サンキュ。お前の演技をテレビで見た事があるぞ」
 声を掛けて来た少年は、今年シニアに上がったばかりの十六歳の選手で名前はアグバエフ・マクシムだ。シニアデビューで金メダルは逃したが銀を取り、これからの活躍を期待されている選手だ。
「え、本当ですか!」
「当たり前だ。なかなか良かったぜ。あ、お世辞じゃねえぞ。俺はお世辞は言わないからな。まだ未熟な点は確かにあるが、それは経験でどうにかなるだろ。これからが本番だ。まだまだ伸びしろがお前にはある」
「ありがとうございます!」
 今にも泣き出しそうな顔をしてアグバエフは頭を深々と下げた。アグバエフが心の底から喜んでいるのだという事が、そんな態度から分かった。
 ここまで慕ってくれている相手を弟子にする事ができなかった事を残念に思う。しかし、もうコーチに戻るつもりは無い。スケートは今も変わらず好きだが、それ以上に大切なものができてしまったのだ。
「もうプリセツキー選手の演技を生で見る事ができないのが本当に残念です。勿論、プリセツキー選手がパートナーとお子さんと幸せに暮らしてる事は知ってます! それを壊そうなんて思っていないんで!」
 誤解されて嫌われたくないというように、慌てた様子でアグバエフは付け加えた。アグバエフの反応は、ユーリの頬を緩ませるものである。
「そんな心配なんかしてねえよ。だったら、生で見せてやろうか?」
「え」
 間抜けであると思うほど、面食らった顔へとアグバエフはなっていた。
「ブランクあるから昔みてーに滑る事はできねえだろうけどな。幻滅されなきゃ良いんだけど」
「そんな事する訳がないです! 光栄です」
 熱の入った返事に小さく笑みを零した時、隣からリズの視線を感じる。
 リズは目を丸くしてユーリを見ていた。先ほどの話を聞き、ユーリがスケーターであったのだという事に気が付き驚いているのだろうか。否、理解が追いつかず混乱しているのだろう。
「ちょっと見てろ」
 スケーターであった事を告げなかったのは、驚かせたいという気持ちからだけで無く、愛娘に格好良いところを見せたいという気持ちからでもある。ベンチから立ち上がったユーリは、ポケットの中からスマートフォンを取り出す。
「ブルートゥースのスピーカーまだ置いてあるか?」
 アグバエフに問い掛けながら音楽再生アプリを立ち上げ、プレイリストの中から曲を探す。
「置いてあります!」
「じゃあ、俺が真ん中までいったら再生ボタン押して、その曲を掛けてくれ」
 曲を選び終えたユーリは、アグバエフにスマートフォンを差し出す。自分が触っても良いのだろうかという様子になりながらも、アグバエフがスマートフォンを受け取ったのでリンクに向かう。
 リンクの中心まで行くと、アグバエフがスピーカーを置いている場所まで移動していた。目線で音楽を掛けても良いという事を伝えると、いつでも演技を始める事ができる体勢へとなる。
 音楽が聞こえて来ると、伏せていた顔を上げる。十五年以上前のプログラムであるというのに、音楽を聞くと体が勝手に動く。
 現役時代幾つものプログラムを滑った。スマートフォンの中には、その際に使った音楽が全て今も入ったままになっている。その中から選んだのは、最も思い入れが深いプログラムであるアガペだ。
 アガペを披露した時はまだ幼く、高得点を獲得したが最後まで無償の愛というものを理解できぬままであった。しかし、今はそれを理解する事ができている。あの時とは違った演技をする事ができる。大切な者を思い浮かべながら、ユーリは今無償の愛を全力で表現する。
 最初は意識をして体を動かしていたのだが、次第に演技に意識を乗っ取られたように体が勝手に動くようになった。
 楽しい。
 これが自分に天から与えられた唯一の才能であるのだ。
 音楽が終わると共に体を動かすのを止めると、体力不足であったシニアデビューの大会の時以上に息が乱れた。現役を引退してからもう何年も経過しているのだから当然だろう。選手時代よりもスタミナが無くなっているうえに、もう三十代半ばが近づいている。実際の年齢よりも若く見られる事が多いが、体の中までいつまでも若いままでいる事はできないのだ。
 観客である三人の反応が気になって来る。特にユーリがスケートをしていた事を知らないリズの反応が気になった。
 リズは目を丸くしてユーリの姿を見ていた。リズの反応に満足した後、アグバエフを見る。全力を出したが、現役時代と同じ演技が今もできる筈が無い。失望した様子になっているかもしれないと思っていたのだが、アグバエフは感涙していた。
 泣くとは思っていなかったので驚きながら、ユーリはオタベックに視線を遣る。オタベックは慈しみが混じった笑みを浮かべていた。ユーリの演技を昔から見ているオタベックを満足させる事ができたのだと、そんな表情から分かった。安堵すると、ユーリはリンクサイドに向かう。
「パパ、凄かった!」
 リングサイドに上がると、駆け寄って来たリズに勢いよく抱きつかれる。そんなリズの頭を撫でていると、アグバエフとオタベックも側にやって来た。
「昔と変わらない演技でした! もう一度プリセツキー選手の演技を生で見られるなんて感動です! ありがとうございました」
 興奮が収まらないといった様子でアグバエフが言った。
「そうか」
「グランプリファイナルで見た時の事を思い出した。あの時と全く変わっていなかった。いや、昔よりもずっと洗練されていた」
 アグバエフの後にオタベックは熱い眼差しと共にそう言った。その表情はパートナーのものではなく、懐かしい選手のものであった。
「サンキュ」
 口元を緩めながら言うと、オタベックの視線がアグバエフに向かう。
「アグバエフ、これを掛けてくれ」
「あ、アルティン選手」
 突然オタベックから声を掛けられただけで無く、スマートフォンを差し出されアグバエフは狼狽していた。すんなりとオタベックの名前が出て来たのは、ユーリの配偶者として知っているからでは無いのだろう。選手と付けていた事から、選手時代を知っているという事なのだろう。
「ユーリ、折角だからリズにもっと面白いものを見せてやろう」
 オタベックがリンクに向かったので、リズの体を離しユーリもそれに続く。何をするつもりなのだろうかと思いながらリンクに入ると、昔オタベックと軽い気持ちで作ったペアスケーティングのプログラムの曲が聞こえて来た。
 男同士でペアに出る事はできないだけで無く、お互いにシングルスケーティングから転向をするつもりは無い。お遊びの一環として作ったのだが、お互いに選手であるので大会に出場する事を前提としたものを作った。その結果、大会でそれなりの得点を取る事ができる程のものに仕上がった。
 リズにそれをオタベックは見せようとしているらしい。
「分かったよ」
 面白い考えである。口元を引き上げると、ユーリは振り付けを思い出しながら体を動かす。
 先ほどの演技とは違い、今度は楽しんでやる。大会に出る事を想定して作ってはいるが、このプログラムはオタベックと楽しんでする事ができる構成になっているのだ。
 時折オタベックと笑い合いながら演技をしていると、プログラムが終盤にさしかかる。オタベックとこのプログラムを滑った時は、いつも終わってしまう事が寂しいと終わりが近づくと思っていた事を思い出す。今もユーリはこのままオタベックと滑り続けたい気持ちへとなっていた。
 だが、終わりはやって来てしまった。
 最後の振りをすると音楽が終わる。お互いに体を動かすのを止めると、大きな拍手がリンクサイドから聞こえて来た。
 観客が二人しかいないので、そんなものが聞こえて来る事を全く予想していなかった。続けざまに滑ったので先ほどよりも息を乱しながら、ユーリはリンクサイドを見る。そこには、興奮した様子で拍手をしているリズの姿があった。
 驚きから目を丸くしたままオタベックに視線を遣る。視線に気が付いたオタベックが頬を緩めたので、リンクサイドに向かう。それに続くようにしてオタベックもリンクサイドに向かった。
「プリセツキー選手とアルティン選手のペアスケーティング初めて見ましたが、凄かったです!」
 リンクから上がるのと同時に、ユーリとオタベックが戻って来るのを待ち構えていたアグバエフから声を掛けられた。
「サンキュ」
 賞賛に対して感謝をすると、先ほどからユーリとオタベックに視線を遣ったままになっているリズの方へと体を向ける。
「凄い、お父さんとパパ」
 目が合うと同時に、気持ちが昂ぶっている様子のリズはそう言った。スケートを褒められた事など今まで数え切れないほどあるというのに、リズから手放しに賞賛され頬が緩む。溺愛している娘が相手であるからだろう。
 先ほどまではまだ息が切れていたのだが、呼吸が落ち着いて来た。
「何でそんなに二人ともスケートが上手いの」
 もうこれ以上スケートをしていた事を隠し通す事は無理だろう。それに、そろそろ話したい。スケーターであった事を告げても良いかという事を、ユーリはオタベックに表情だけで確認する。
 思っている事が伝わった様子へとオタベックはなった。そして、構わないという顔へとなる。
「二人とも元々はスケーターだったんだ」
「凄い! パパも?」
「ああ、そうだ」
 オタベックがスケーターであった事はあっさり納得したようなのだが、ユーリがそうであった事はまだ疑心暗鬼であるようだ。オタベックよりもユーリの方がスケーターらしい体格をしている。リズはスケートが詳しく無いのだが、それでも不思議に思う。
「パパはモデルだったんだって勝手に思ってた」
 リズの言葉にユーリが面食らっていると、隣にいるオタベックが小さく笑った。
「笑うなよ」
「そう思うのは仕方が無いな。リズは何も知らないし、君はとても綺麗だからな」
 オタベックの言葉は、恥ずかしくなってしまうようなものであった。大輪の赤い花のように頬を赤くしていると、くすりと笑ったオタベックが言葉を続ける。
「いつまでもユーリは綺麗過ぎるぐらいだ。眩しくて時々真っ直ぐに見る事ができなくなってしまう」
 オタベックは愛おしそうな顔で言っていた。
 浮ついた事は普段言わない男でオタベックはある。ユーリのご機嫌を取ろうとしてそう言ったのでは無く、本心からそんな風に思っているのだ。それが分かっていたので、一層恥ずかしくなり頬が火照る。今ならば、リンクさえも溶かす事ができそうだ。
「何言ってんだ、馬鹿」
「本当の事だ」
 目を眇めたオタベックの視線がリズに戻る。
「ユーリは、ロシアの妖精や花開くダイヤモンドと称されていたようなスケーターだったんだ。ユーリと出会ったのは、まだそんな風に呼ばれるようになる前だった。その頃からユーリは宝石のように美しかったが、瞳はソルジャーのものだった」
 懐かしそうな顔へとなっているオタベックの脳裏には、出会った時の事が思い浮かんでいるのだろう。
「オタベックだって有名なスケーターだったんだぜ。いきなり世界選手権三位でダークホースって言われてたぐらいだ」
 褒められてばかりではいられないと、負けじとユーリはオタベックの事を話した。
「私もパパとお父さんみたいなスケーターになりたい!」
 話を聞き目を輝かせていたリズの言葉に、ユーリは目を丸くした。

02金の斧銀の斧

 ユーリはベッドルームまで行くと、ドアを開け部屋の中に入る。いつもはタブレットで何かを読んでいるオタベックであったが、今日は何もせずにユーリがやって来るのを待っていた。それは、昼間の事が原因なのだろう。
 ドアを閉め、調光の仄かな明かりによって照らされているベッドルームの中を進む。オタベックが腰掛けているベッドまで行くと、前から体を抱きしめられる。それに抵抗せず、ユーリはオタベックの首にしがみつき膝に上がる。
 オタベックの膝の上に座ると安心する事ができるので、付き合う前から時折オタベックの膝の上に座る事があった。オタベックはそれに対して嫌そうな顔をした事は無い。それどころか、その格好になるといつも目を眇めて慈しむような顔へとなっていた。
 今から考えると、普通友人相手にそんな顔はしないだろう。その事からオタベックの気持ちに気が付くべきであった。過ぎた事を考えても無駄でしかないので、ユーリは悩むのを止める事にした。
「まさかリズがスケーターになりたいって言うとはな」
 確かにスケーターになりたいと言い出すかもしれないと思っていた。だからスケートをしていた事を隠していたのだが、それでもスケーターになりたいと言い出した事に狼狽せずにはいられなかった。
 昼間リズからその発言を聞いた際、驚いた後子供の思いつきであるのかもしれないと思った。しかし、その後返事をせずにいると駄目なのかという事を繰り返していた事や、今まで何かをしたいと自発的に言った事が無い事から本気で言っているのだという事が分かった。
「そうだな」
「本気みてえだし」
 リズには苦労をさせたく無い。好きな事ややりたい事はさせたいという思いを持っているので、これが別の事であればすんなりと受け入れる事ができただろう。本当にやらせても良いのだろうかと考え、リズの言葉にユーリは曖昧な返事しかできなかった。
「本人がしたいと言っているんだからやらせたら良い」
「でも今からじゃなあ」
 リズはもう十歳である。もう同じ年頃の才能のある選手はノービスになっている年齢である。スケートを始めるには遅い年齢であるだろう。
「ユーリや俺は小さい頃からやってたが、あのぐらいの年齢から始めてそれなりの成績を残した選手もいるだろ」
「確かにそうだな……」
 幼い頃からスケートだけで無くバレエもやっていなければいけないと思ってしまったのは、スケートが盛んな国であるので幼い頃からどちらもやっている者が多いからなのだろう。他国の選手には、そうでは無い者も多い。
「それに、スケーターだからといって、必ずしも成績を残さなければいけないという訳じゃない。成績はあまり気にせずに、ただ好きでやっている選手もいる」
「そうだった」
 スケーターになったのならば、金メダルを取り好成績を残さなければいけない。リズもそんな風に思う筈だと思っていたのだが、そうだとは限らない。自分を基準にしては駄目なのだ。
 ユーリがそんな考えを持っていたのは、勝ちたいという気持ちがあったからだけでは無い。家族を支えなければいけないという理由もある。リズにはその必要が無い。勿論、そんな状況に置く事は絶対にさせない。
「でも。やっぱり」
 まだスケートをさせる事に迷いがあるのは、他にも理由があるからだ。直ぐには言葉を続ける事ができなかったのだが、オタベックは急かす事はしなかった。その為、落ち着いて続きを言う事ができた。
「スケーターなんかになったら、今までみたいに友達と遊べなくなる。やっと友達ができたばっかりなんだぜ。俺みたいに寂しい子供時代を送らせたく無い」
 オタベックと友達になるまで、友達と呼べるような相手がいなかった。素直であるとは言いがたい性格をしているからという理由もあるのだろうが、そんなものを作るような余裕が無かったからという理由もある。周りにいるスケートをしている同年代の者を敵であるとしか思えなかった。
 その時は余計な事を考えている余裕が無かったのでその状況を寂しいと思った事は無いのだが、大人になった今は友達がいなくて孤独であったと思う事がある。
「大丈夫だ。リズならきっと直ぐにスケーターの友達ができる」
 ユーリと違いリズはどうしても勝たなくてはいけない状況では無い。周りを全て敵だと思う事は無いので、ユーリのように同年代の者と親しくできないという事は無いのかもしれない。オタベックの言う通りなのかもしれない。
「そうだよな」
 不安はこれだけでは無い。全ての心配を払拭しなければ、リズにスケーターになる事を認める事ができない。
「もしも上手く台乗りなんかするようになったら、ゴシップ雑誌に書かれたく無い事とか根も葉もないようなデタラメなこと書かれたりするに決まってる。いや、台乗りしなくても俺たちの子供だから絶対書かれるに決まってる」
 リズが養子である事は、直ぐに誰でも気が付く事だ。本当の両親が誰であるのかという事を、記者が詮索するに決まってる。触れられたく無い事を訊かれているリズの姿を想像した事により、ユーリは母親の事を書かれた時の事を思い出した。
 ユーリにとって母親の事は触れられたくない事であった。しかし、母親が一世を風靡したアイドルであったので、暫く間を騒がせる事になってしまった。その時の事を思い出した事によって、硝子の破片で胸を抉られたような気持ちへとなる。顔を伏せ拳を強く握りしめると、オタベックに体を強く抱きしめられる。
 母親の事を書かれた際、オタベックに泣き言をいっている。ユーリが泣き言を言える唯一の相手でオタベックはあった。その事を知っているので、オタベックは何を考えているのかという事を察したのだろう。
「大丈夫だ。リズはそんなに弱く無い。強い子だ。それに、俺たちが側にいるから守ってやる事ができる」
 ユーリとは状況が違うというようにしてオタベックは言った。
「そうだな」
 もしもリズの両親の事をゴシップ記者が書くような事があれば、黙っているつもりは無い。オタベックも同じ気持ちなのだろう。伏せたままになっていた顔を上げると、体を抱きしめたままになっていた腕が離れる。
 ユーリはオタベックから体を離し顔を見上げる。優しく包み込むような笑みを向けられると、固くなっていた気持ちが解れた。
「それに、リズは俺たちの子供だ。だからスケートの才能がきっとある。そんな才能を摘み取るのは可愛そうだ」
 リズは自分たちの本当の子供では無い。オタベックがその事を分かっていない筈が無い。何故そんな事を言ったのだと思うだけで無く、それを口にしようとした。
 しかしユーリは、口を開くだけでそれを言葉に出す事はしなかった。オタベックがその事を分かっていながらも言ったのだという事に気が付いたからだ。リズを本当の子供であるかのように言っているオタベックの言葉を、肯定するべきであるだろう。
「そうだな」
「リズにはスケーターとしてやっていくにはどれだけ大変なのかちゃんと話しておこう。それでもなりたいというのならば、俺たちはリズを応援してやろう」
「ああ」
 先ほどまで胸で渦巻いていた不安が綺麗に無くなった。オタベックに相談して良かったと思うだけで無く、結婚して良かった。好きになって良かったという事をユーリは思った。
 オタベックを見詰めていると、先ほどまでと様子が変わる。先ほどまでは真面目な顔であったのだが、今は瞳に劣情が滲んでいる。その事から、ユーリを欲しているのだという事が分かった。ユーリもオタベックを欲しているので、拒むつもりは無い。
「リズに兄弟を作ってやらないとな」
 オタベックがこんな戯れ言をいうのは珍しい事である。あり得ない事であるのだが、不快な気持ちへとなる事は無かった。それどころか、話を合わせたい気分へとなる。
「そうだな」
 くすくす笑いながら言うと、笑みを浮かべたオタベックの顔が近づいて来る。唇を重ねようとしているのだという事に気が付き瞼を閉じると、肩を両手で前から掴まれる。体を押されベッドに背中を預けると、オタベックの唇がユーリのそれに重なる。

 何度も唇が重なって来た後、口腔へと入って来た舌がユーリの舌に絡みついて来る。オタベックが舌を絡みつけるのを止めると、今度はユーリが舌を絡みつける。
「んぅ……ん……」
 何度も舌を絡みつけると、口腔で体液が混ざり合っているのを感じる。オタベックと唇から溶け合ってしまいそうだ。
 このまま一つになる事ができるのならば、そうなってしまいたい。オタベックとキスをしていると、そんな事を思ってしまう時がある。
 唇が離れると腕を引っ張られ体を起こす。ベッドに座ると、背後に移動したオタベックの胸に背中を預ける格好へとなる。背丈はそれほど変わらないのだが、オタベックとは体の厚みが全く違う。厚い胸に背中を預けていると安心する事ができる。体から力を抜いていると、上着の中に後ろから手が入って来る。
「ん……んぅ……」
 肌を這いながら移動していった手が胸で止まる。今までの経験から、オタベックが今からどうするのかという事が分かっていたので息を飲んでしまう。オタベックの顔を見る事ができない状態であるのだが、それでもユーリはくすりと笑ったのだという事を感じ取った。
「あっ……」
 期待しているのを知られた事を恥ずかしく思っていると、乳首を親指と人差し指で摘ままれる。ぐりぐりと指の腹で擦られると、腹の底から痺れるような疼きが湧き上がって来る。体が自然と震えてしまう。オタベックと性交する迄、そんな場所を触られると感じる事を知らなかった。
 体を重ねるようになったばかりの頃よりも、そこを刺激される事により感じるようになっている。下肢の中心が立ち上がり、下着を押し上げていた。性器が締め付けられて苦しい。ズボンまで押し上げているような気がして下肢へと視線を遣ると、思っていた通りズボンの下にある部分が固くなっている事が分かった。
 何度もそれを見られているのだが、オタベックに見られてしまう事が恥ずかしくてユーリは太股で隠す。
「はっ……んぅ……」
 ぐりぐりと何度も乳首を刺激され、はしたない声が口から出てしまう。羞恥によって体が熱くなるだけで無く興奮してしまう。そんな自分を淫らであると思ったのだが、気持ちを落ち着ける事ができない。
「んぅ……あっ……」
 乳首を弄んでいた二つの手の内の片方が下肢の中心へと移動する。オタベックは固くなっているそこを手で触ろうとしているのだ。
 感じる場所であるそこを触られれば気持ち悦い事は知っている。その為そこを触って欲しいと思っていたのだが、その気持ちと同じぐらい乳首を弄られただけだというのに性器を固くしてしまっている事を知られたく無いという気持ちもあった。
「あっ……」
「感じてくれてたみたいだな」
 下肢の中心を掴まれると共に背後から聞こえて来た声は、嬉しそうなものであった。オタベックが感じている事に対して喜んでいる事が分かっても、まだ恥ずかしさによって胸の中に灯った火を消す事ができない。
「あっ……んぅ……」
 性器を掴んでいる手をオタベックが上下に動かすと、尾てい骨に甘い痺れが走っていく。激しい快楽の中にいるというのにそれだけでは満足する事ができないのは、更に濃厚な快感を知っているからだ。
 体内が疼き後孔をぎゅっと閉じる。そうする事によって物欲しさを誤魔化そうとしたのだが、一層そこに異物が欲しくなってしまうだけであった。
「オタベック」
「ああ」
 何故名前を呼んだのかという事が伝わったようだ。性器から手を離したオタベックが枕に手を伸ばす。枕の下には、行為に使う為のローションが常に置いてある。
 洗濯をする為に枕を退ける度にそれを見つけては、ユーリは忸怩たる思いへとなっていた。しかし、それがあった方が受け入れる時に楽であるので、ローションを捨てる事はしなかった。
 ローションをベッドに置いたオタベックに、ズボンと共にその下に履いている下着を脱がされる。小ぶりな性器が立ち上がるだけで無く、先走りの液によって濡れている。部屋の調光によっててらてらと性器が輝いている光景は、目を逸らしてしまいたくなるほど淫猥なものであった。
 それなのにそこから目を離す事ができずにいると、オタベックが手の平にローションを流し出す。
「ユーリ」
「ん」
 下肢の中心へと伸びて来た手で性器を握られる。ローションが付いている手で触られると、ぬるっとした感触をそこに感じた。
 肌が粟立ってしまう程の快感に体を捩っていると、性器を軽く何度か触った手がそこから離れる。吸い寄せられるようにして双丘の間へと入っていった手が後孔へと触れた。
「あっ……んぅ……」
 擽るようにして窄まりを触られ、淡い快感がそこにする。そして、既に疼いている体内が異物を求めて一層疼いた。
 襞を広げるようにして後孔を触っていたオタベックが、体内につぷりと指を沈める。
「はっ……」
 甘い吐息を零すと、ずずっと指が体内に沈んでいく。
 もっと深くまで指を沈めて欲しいというようにして体内が動いている。無意識に取ってしまった己のそんな行動に気が付いたのだが、体内を動かすのを止める事ができない。オタベックの指を締め付けていると、粘膜をかき混ぜるようにして指が動き出す。
「あっ……ああっ……」
 媚肉を擦られ目眩がするほどの快楽がしたのだが、まだ満足する事ができない。もっと太い物が欲しくなり口に唾液が溢れる。まるで好物を目の前に出されたかのようであると思いながら唾液を飲み込むと、オタベックが今度は指を抽挿させた。
「あっ……ん……きもちい……あっ」
 自然とそんな声が口から溢れていた。
 既に数え切れないほど体を重ねているオタベックは、ユーリの感じる場所やどうすれば感じるのかという事を熟知している。優しくされるよりも少し乱暴にされる方が感じるという事を知っているオタベックは、体内で激しく指を抽挿させていた。
「んぅ……あっ……ん……」
 指を引き抜いたオタベックが、二本に増やした指を体内に戻す。昨晩も愛し合ったので、体を暫く重ねていなかった時のような違和感や異物感がする事は無かった。
 すんなりと指を受け入れると、根元まで沈んでいるそれが再び動き出す。
「あっ……ん……だめ……出そう……」
 体内の浅い場所には、触られると震えてしまう程に感じる前立腺という場所がある。時折オタベックの指がそんな場所へと触れた事により、今にも高見に上ってしまいそうであった。
「イきたいならイってくれ」
「んっ……あっ……ああっ!」
 ぐいぐいと前立腺を小刻みに押し込まれた事によって、ぶわっと体の中に甘い痺れが広がっていった。
 体を弓なりにしながら指を締め付けると、絶頂感が薄れていく。背中をベッドに預けて浅い呼吸をしていると、動くのを止めていた指が再び動き出す。
「はっ……んぅ……」
 先ほど達したばかりであるので体内が敏感になったままになっており、粘膜を擦られる度に軽い浮遊感がした。大人しくしている事ができなくなり体を捩っていると、オタベックの指が出ていく。
 いつも三本の指を難なく受け入れる事ができるようになるまで、オタベックは体内を解す。その事から、まだ終わりでは無いのだという事がユーリは分かっていた。期待をしていると、三本の指が体内へと潜り込んで来る。
「あっ……ああっ……」
 根元まで埋めた指を体内で動かされると、止めどなく快感が襲って来る。
 感じているというのに絶頂へと上り詰める事が無かったのは、既に二度も達しているからだ。絶頂に上り詰める度にその間隔は長くなっていく。それでも気持ちが悦いので快楽の波に意識を浸してしまう。
 まるで甘い蜂蜜の中に沈んでいるような気持ちへとなる。このままここにずっといたいと思っていた時、不意に口寂しくなりユーリは顔を後ろに向ける。
「舐めたい」
 困ったような顔をしながらも体内から指を引き抜いたオタベックが、体の場所を移動させる。ユーリの前で膝立ちの格好へとオタベックがなると、ズボンの上からでも固くなっている事が分かる性器を撫でる。
 自分のそこが立ち上がっている事を知られるのは恥ずかしかったのだが、オタベックの性器が熱を帯びているのだという事を知ると歓喜した。満足するまでズボンの上から撫でると、ユーリはズボンと共にその下に履いている下着を引き下ろす。
 中から現れた重量感のある物を見て生唾を飲み込んでしまう。うっとりと性器を見詰めた後、その感触を確かめるように手で軽く擦る。既に隆起しているそれが、一層反り上がる。早く口に含みたくなり口を大きく開けると、ぱくっと先端を口に咥える。
「ん……ん」
 ユーリは肉の感触を舌で楽しみながら先端をなめ回す。それだけではオタベックを十分に感じさせる事はできないという事が分かっているので、性器を掴んでいる手を動かす。
「はっ……ん……」
「ユーリ、気持ち悦い」
「ん」
 オタベックが感じてくれている事は、性器が張り詰めている事から分かっている。それでも、言葉でその事を示してくれた事により嬉しくなった。
 ユーリは目を眇めて更に性器を愛撫していく。甘い飴を舐めるようにして何度もそれを舐めると、手が唾液によってぐっしょりと濡れる。普段ならば不快にそれを思いそうであるのだが、今は全く気持ちが悪くなる事は無かった。
 性器を舐める事に没頭していると後孔に指が触れる。
「はっ……」
 体内に三本の指が沈んでいく。根元まで指を埋めると、オタベックは体内で指を動かし始めた。
「あっ……んぅ……」
 ばらばらに動いている指が、体内の様々な場所へと触れる。じんじんとしたものを体内に感じながらも奉仕を続けると、既に固くなっているそこが更にがちがちへとなる。ユーリはまるで岩でも握っているような気持ちへとなった。
 体内に潜り込んだままになっていた指がずるりと出ていく。
「もう良い」
 オタベックが何故そう言ったのかという事が分かっていたので素直に口から性器を離すと、オタベックに肩を掴まれる。なすがままになっていると、体を仰向けの格好でベッドに預ける事になった。
 直ぐに覆い被さって来たオタベックが体を密着させる。散々解された事によって柔らかくなっている秘めた部分に固く大きな物が触れる。ユーリは上半身を軽く起こすと、オタベックの首に腕を回し耳に唇を近づける。
「早く欲しい」
「ああ」
 首に顔を埋めると、後孔に触れていた物で体内を貫かれる。
「あっ――」
 背筋に痺れが走るほどの快感に目を剥いていると、双丘にオタベックの肌がぶつかる。直ぐに性器を引き抜いたオタベックは、それを再び体内に潜り込ませた。
「あっ……あっ……ああっ!」
 粘膜を雁で抉られ、夢中になってしまうほどの快感がしていた。頭の中を溶けさせ思考能力を奪うものでそれはあった。ただ快感を追い求める事しかできずにいると、急速に熟した実が弾ける。
「んぅ――! あっ……だめぇ……ああっ……」
 絶頂に上り詰めてもまだオタベックの性器は体内で動いたままになっていた。
 オタベックが達するまでこの行為は続くのだ。己だけ気持ち悦くなりたい訳では無い。オタベックにも感じて欲しいというのにユーリが制止したのは、強い快楽に気持ちが追いつかなかったからだ。
「やぁ……あっ……やっ……」
 どんなに嫌がっても、オタベックは双丘に腰を打ち付けるのを止めようとしなかった。
 普段ならば嫌がるような事は絶対にしない男である。こんな風に拒絶されても続けるような事は絶対にしない。それなのに今は止めようとしなかったのは、ユーリが本気で嫌がっているのでは無い事が分かっているからだろう。
 確かに強烈な快楽から逃れたいと思っていたが、それと同じだけ更なる麻薬のようなそれを体が求めていた。
「あっ……んぅ……。んぅ……あっ……ああっ……!」
 腰を動かすのを一度止め、膝立ちの格好へとなったオタベックに奥を穿たれた。
 再び快感が高まっていく。ぐるぐると体の中で熱の塊が旋回している。それは、出口を探していた。だが、先ほど達したばかりであるので体内を内側から苛んだままになっていた。
「あっ……ああっ」
 のたうち回るようにして体を動かしていると、オタベックの腰の動きが先ほどまでよりも乱暴なものへとなる。
「ユーリ」
 聞こえて来た声は熱を孕んだものであった。オタベックの鋭い双眼には劣情が滲んでいる。そんな目で見詰められると、腰がずんと重くなってしまう。口から出ている声が先ほどまでよりも自然と大きくなってしまう。
「ああっ……あっ……オタベック……あっ……」
「ユーリ、出すぞ」
「んぅ……出して……いっぱい出して。お前ので俺のなかいっぱいにして」
 頭が回らなくなっている為、自分が口走ってしまった言葉をはしたないものであると思う事ができなくなっていた。今言ったようにオタベックの白濁で体内を満たしたくなっていると、奥を何度も強く穿たれる。
「ああっ――」
 まるで宙に浮いているかのようであった。突然の浮遊感に戸惑いながらも絶頂に上り詰めると、体内に熱いものが溢れる。腰を動かすのを止めた事からも、オタベックも達したのだという事が分かった。
 体を襲っていた強い快楽が薄れると、ユーリはオタベックが体内に放ったものを感じようと腹部へと手を伸ばす。下腹部を触っても白濁を感じる事ができる筈が無いというのに、灼熱の飛沫を感じているようであった。そして、男であるのでそんな事はできないという事は分かっているというのに、オタベックの精子が体内で受精しているように感じてしまう。
 腹部を撫でながら目を眇めると、欲望を放った事により萎えている性器を引き抜いたオタベックに体を抱きしめられる。
「これからも大切にする」
「ああ」
 腹部から手を離していたユーリは、今度は首に顔を埋めているオタベックの頭を愛おしい我が子にするようにして撫でる。
 リズはオタベックと結婚しなければ、ユーリの元へとやって来る事が無かった子供である。それは、やはりオタベックとの子供であるという事であるのだろう。

03.みにくいアヒルの子

「おはよう、パパ」
「おはよう」
 リズの声が聞こえて来たので、キッチンで朝食を作っていたユーリは料理の手を止める。今日は起きるのが遅くなってしまったので、いつもよりも簡単なものを作っている。
 ドアを閉めたリズが側までやって来たので、体を抱きしめて頬にキスする。嬉しそうに頬を緩ませたリズが今度はキスをしてくれる。
 リズはユーリの顔が好きなようだ。よくユーリの顔を眺めている。今もユーリの顔を鑑賞するように眺めていた。これが他の相手であれば自分は観賞用の動物では無いと思うのだが、リズが相手であると見詰められても嫌な気持ちになる事は無かった。
 ユーリの顔を見詰めたままリズが不思議そうに首を傾げる。
「昨日眠れなかったの?」
「えっ! なっ、なんで!」
 昨晩オタベックに何度も求められ、眠ったのは明け方近い時間であった。起きるのが遅くなってしまったのはそれが原因である。痕跡を残していない筈であるというのに、リズがその事に気が付いた事に狼狽した。
「だって目が赤いから」
「えっ……あっ……何でもねえ!」
 咄嗟に言った後、ユーリは上手く誤魔化せば良かったと後悔した。
 何故寝不足であるのかという事に気が付いたのでは無く、目が赤い事から寝不足である事に気が付いただけだ。そんなリズにもっと上手い返事をする事ができた筈である。
 顔を顰めていると、リズが一層不思議そうな顔へとなった。それに対して何も言えずにいると、扉が開く音と共にオタベックの声が聞こえて来た。
「おはよう」
「お父さん、おはよう!」
 部屋に現れたオタベックに元気の良い声で挨拶をしたリズが、そちらに向かって駆け出して行った。
 ユーリの様子がおかしい事に気が付いたのだろう。リズを抱擁しながらも、オタベックの視線はユーリに向かっていた。
 どうしたんだという事を目線だけで訊いて来ているオタベックに、ユーリは何でもないという事を顔を横に振って伝える。それでもまだ気になった様子のままであったオタベックであるのだが、リズの頬に唇を寄せると目尻を下げた。
 二人の姿は何処にでもいる普通の親子である。そんな姿を見ていると、先ほどまで考えていた事を忘れてしまう。口元を緩めながらユーリは二人に声を掛ける。
「直ぐに朝ご飯できあがるぜ」
「お手伝いする」
 オタベックの元を離れ側までやって来たリズに手伝って貰いながら、ユーリは朝食の準備をした。
fin.

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