何故ヒトは泣くのか?

聖書でお気に入りの箇所というと、私は邪悪ゆえにペテロの改悛、号泣するところである。

彼は我が身可愛さに主イエスを否認したとされる。カイヤパの尋問に嘘をついて逃れたのであるが、この事はヒトはつくづく弱い存在であり小利を取り義を捨てる事は日常茶飯事、普遍で長らく変わる事がない事例を象徴する世界で最も知られたエピソードではないか。

イエスが連れ去られる際に一瞥された後に、彼は居た堪れなくなり外に出て激しく泣いたという。慈愛に満ちた許しとしばしば評されるが、福音書には、心情を事細かに何に泣いたか?は書かれてはいない。

このあたりの機微は信仰に篤い人の心のモノだからいちいち詮索はしない。全く野暮だからだ。 
このシーンが裏切りではなく咄嗟に吐いたウソであり、普段から剣をふるってまでイエスを庇うペテロの弱さを表しているというが、なかなか含みがあるところでもある。

話は変わるが哭泣の習慣は世界中にある。何故かはわからない。

バンシー
泣き女
なきさわめのかみ

古代社会の一員が失われた際に、哀悼の意を広く伝える職業があったという。 この事は実に逆転した話に感じる。つまりその様な儀式を執り行わないと死者の遺志に反する様なコトに取り掛かれない可能性があるという話にすらつながる。一般の社会は血縁と資産により繋がるものだから、血縁関係がなく資産関係もない人間にとり、他人の死は社会全体の損失が計上されたとしても、基本的に影響は少ない。少なくとも他の生活環境下にある他人同士の相互扶助は、通信手段がなければ起こりにくい。隣り村、つまり隣接コミュニティは生活環境を共有して資産の奪い合いすら起きるのだから、血縁関係がなければ助ける事もないだろう。寧ろ縁者間で争いはつきものだ。
故に遺産相続に至る前に、如何に物故者の遺志に準ずるモノであるかを示す為の社会的宣言、物故者が保有していた社会への権力の喪失届たる哭泣儀式が必要となったと考えられる。
斉の国の晏嬰は、彼の諫言を嫌いやがて不義密通の挙句に弑殺された主君に形ばかりの哭泣をしたという。泣くとは感情表明であり哭泣も形である。

感情失禁に対する考察はしばしば時間がかかる。

まぁ私の様な平凡なヒトは他愛なきもの泣いてしまう。 風が吹いても泣く、災害にも心揺らぎ泣く。 酔っ払いが酔っ払いを研究することに似て難しい。 我が父の晩年は脳梗塞による障害によるものかやたら感情失禁で泣いていた。あまりさしたる理由もなく泣くのだ。
イギリスの科学者ジョン・ドルトンは色盲であったとされ、自らもその研究をしている。化学の実験家として様々な功績を残している彼だが自らの色覚異常に対する仮説は否定されて限界を露呈している。泣く人には百人百様の理由がある。故に私には未だ、何故突然泣いてしまうのかを説明出来ない。

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