見出し画像

4周年、これまでと、これからと。

 これはストラクト・モトヤシキの目線であり、当時を思い出しながら書いたものです。(他のメンバーなら角度や解釈が違うかもしれません。大丈夫だと思いますが。)

 それは2010年の晩夏だった。

 友人を介して知人だったプロダクトデザイナー・渡利氏から「国内で生み出すスニーカーのブランドを始めようと思ってるんだけど手伝ってくれへん?」そう声をかけてもらったのが全てのきっかけだ。

 様々な方々から「この不景気にメンズのスニーカーだって?」とか「絶対儲からないからやめておけ」などと、ありがたい忠告を沢山いただいた。

 氏がサポートを願ったけれど、本腰を入れて参加する者は少なかった。

 そんなこんなで最終的に、靴職人を含め、それぞれ役割が違う5人が集い。この先どうなるかも分からずに、手探りのなかプロジェクトをスタートした。(この時、blueoverという名前はまだなかった)

 当時、集まった時には、それぞれ自分がどんな役割を果たせるか、それさえも大体しか分からないという状況だった。もちろんちゃんと成立するように自分の役割を果たそうとするけど、うまくいくかどうかは誰にも分からない。

 でも目の前には、一人の男が人生を賭けてやってみたいことがあり、そんな尊くて“面白い”ことに参加しない訳はない。

 やれるだけやってみて失敗したのなら、それは自分への投資だと思った。

 集まった5人はそんな共通認識を持っていた。それを持っていて、感じていたからこそ、関わりたい、やってみたいと思い集ったのだ。(もちろん他にもサポートしてくださった人々はだくさんいるけれど)

 2010年の秋から冬、そして2011年の春にかけての半年間、人間で言うのなら、母のお腹の中で育ち、この世に生まれてくる準備をメンバーと行っていった。

 渡利氏が考え思っていた、未来の日本のために生み出す場所を絶滅させてはならない。その理念を元に、大切に、時に激しく、みんなで育んだ。(なぜそれが“スニーカー”だったのかと言うと、渡利氏がマニアというくらい大好きだったからだ。好きな物だからこそ、それを生み出していた日本があるからこそ「残したい」と考えていた。)

失敗はならない。だけど、どこか文化祭の前夜のような、ワクワクするミーティング。皆で、製品のサンプルに対して年の差に関係なく意見し合い、ブランドや製品の名前を決め、コンセプトを決めていった。

 ちなみに今でもそうなのですが、ある程度の方向性などは渡利氏が考え構築してサンプルを作り、それに対しては、みんな忌憚なく自分の意見を言える。(言いやすい)これは素晴らしいことだし、続けていかなきゃならない事だと思ってます。

 大海原を行く船旅でいうのなら、どんな船にするか、まずはどこを目指して、どういう海路をどんな風に進んでいくのか、出発前に出来るかぎり計画していった。

 いつ、その海に出るのかも決めた。

 2011年4月17日。4年前の今日だ。

 当時、ブランドとストア立ち上げの直前1ヶ月前に、東北の震災があった。

 やりたくても出来ない事、実際に自分たちに出来る事、自分たちがやって行きたい事、より一層、明確に、痛烈に感じた。

 声をかけてもらってから、メンバーが集まりプロジェクトが動き出してから約半年。

blueoverは大海原に出た。

 あれから4年。色んな事がありました。そしてこれからも色んな事が起こると思いますが、船は皆様のお陰で、なんとか沈まずに進んでおります。

 そして仲間も増えております。(巻き込まれてね笑)本当に皆様のお陰です。

 もちろん沈まぬよう、より良い物をご提供できるよう、今まで同様、いや、より一層、関係者一同、精進して参ります。

 まだ生まれて4年。人間で言うと、自分の意志を自分の言葉でようやく表現できるようになった所です。まだまだ未熟者でございます。末永くご指導ご愛情を賜わりますようどうぞよろしくお願い申し上げます。心よりお願いして4周年のご挨拶といたします。

blueover / struct 本屋敷隼人

2015.4.17. 現時点での言葉と思いを

追伸:一番はじめの日記です。ここから始まりました。

4年前の日記を掘り返してもどうしようもないですが、

暇で暇で仕方が無いという時に是非どうぞ。↓

http://goo.gl/0dwKqS

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?