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バスケットボール・ダイアリーズ in 川崎【KJ's Subject】

これは一人の少年の蹉跌の話である。

かといって、バスケ少年が「川崎」のパブリックイメージよろしく非行に走り、少年院送りになって社会からドロップアウトしたとか、全国大会出場を賭けた決勝戦でラスト1本のシュートを外して1点差で負けたとか、そんな「絵」になる話ではない。
顧問とソリが合わなくてレギュラーを外されたまま部活を辞めるでもなく不貞腐れて過ごしました、という同世代の100万人くらいが経験していそうな、取るに足らないダサい話である。

それでも、このありふれた思い出について語ることが、40半ばという立派な中年に差し掛かった僕が自分自身と改めて向き合うために必要なピースである気がしてならない。いや、ありふれたものとして自分自身でもフォーカスしてこなかったが故に、のちに大人になる僕を形成しているファクターなのかもしれないと30年も経って思い至ったのである。

さて、時は1992年の川崎市の中部に位置する武蔵小杉という町。
2000年代に再開発されて以降はタワーマンションで知名度と地価が爆上がりして、「ムサコセレブ」なんていう半分以上揶揄された流行語を生み出したこの町も、90年代までは工場と住宅街だけのエリアだった。
ただ当時から、縦に東急東横線、横に南武線で交わっており、交通の便だけはひたすらに良好で、渋谷にも横浜にも川崎にも15〜20分でアクセスできるという圧倒的な利便性があった。
この地政学的要素は、僕を含めたムサコの少年少女にハイブリット(悪くいうと中途半端)なユースカルチャーをもたらし、僕自身のキャラクター形成にも因果関係があるんじゃないかと訝しんでいるのだが、その話は別の機会に掘り下げてみたいと思う。

ムサコのMJ

そんな中途半端な街の公立中学に通い始めた僕は、「野球部がないから他に良さげな部活」ということでバスケットボール部に入部した。市大会で1,2回戦は勝てるけどベスト4には程遠いくらいの、ごくありふれたチームだった。

顧問は、鈴木先生という中年の男性教師で、生真面目で掌が分厚く(ビンタされると張り手のようだった)、持病の痔が辛いらしくドーナツ型クッションをいつも携えていた記憶がある。
まだ昭和の雰囲気や文化を多分に残した時代、入部した1年生を数々の理不尽な難関が待ち受けていたことは全国共通であろうが、うちの部で象徴的だったのは「インターバル走」という練習メニューだった。
そう、コートの内側を一定秒数ジョギングして、一定秒数全力ダッシュして、それを延々と繰り返すやつだ。今でこそHIITという名で科学的に謳われた高強度トレーニング手法のそれに近しいのだが、似て非なるもの。
でも、試合中は似たような動きを繰り返すスポーツであるから、そいういった面では理屈は通ってはいたのかもしれない。

そのインターバル走でいきなり頭角を現した。
1年生内ではおろか、上級生のなかでもほぼ先頭を走っていた記憶がある。
小学校まで徒競走で1番になんてなったことがない自分が、である。実際はめちゃくちゃきつかったけど、「え?!俺って持久力勝負になるとこんなに走れるの?」と内心びっくりもしていた。
そんなガムシャラに練習と向き合う僕を鈴木先生は買ってくれた。
1年生試合ではガードでゲームメーカーだったし、3年生主体のAチームの試合に、20人弱いた1年生のなかから一番最初に出場したのも僕だった。
さらに、同学年で一番最初に彼女ができたのも僕だった。

実は1990年というのは「スラムダンク」の連載が始まった年であり、マイケルジョーダン率いるシカゴブルズが初優勝を飾った年。まさにバスケットボール元年だ。
そんな時代の雰囲気も感じながら、僕はムサコジョーダンを気取っていた。(本当はピッペンのサブキャラが好きだったけど)

そんな有頂天になったバスケ少年にちょっとした環境変化が訪れる。
僕を寵愛してくれていた鈴木先生が転勤してしまったのだ。

宿敵現る

2年生の学年を迎えた春、新しい顧問がやってきた。
岩本先生という40代くらいのその女性体育教師はボーイッシュなヘアスタイルにジャージ姿がとても似合う、典型的なアンチ「チャラい」な人物で、規則や風紀を乱す事物への嫌悪感がにじみ出てもいた。
髪の毛を染めてみたり、彼女と手を繋いで下校したり、校舎裏でタバコを吸ったり...。そんな多くの中学生が抱くであろう「チャラさ」への憧憬の片鱗を見つけては、規則と説教と体罰をもって速やかにその芽を紡ぎ取るタイプの昭和教師だ。

バスケ部の顧問としても相当硬派なタイプで、黒いシューズはNG、リストバンド等の装飾的なアイテムもNG、バックパスのような派手なプレーもNG。シカゴブルズと湘北高校に憧れたバスケ少年たちは極度の抑圧を受けることになる。

そんな教師にとって、調子に乗った中2の僕が格好の標的になったことは想像に容易い。
生活態度からプレーの雑さまでことごとく叱責を受けた。反抗することが一種のファンションだと思っていた当時の僕はまったく改めようとも迎合しようともしなかった。
挙句「女とバスケどっち取るんだ?」とまで言われ、「どっちもです!」と返答したら渾身のビンタを食らった。
校内でタバコを吸ったことが問題になった時にはもはや怒られもしなかった。
まぁ簡単に言いうとこうやって干されたわけである。

逆境において人間の真価が問われるのだとしたら、この時期の僕は最低だろう。
悔しさをバネにして、ぐうの音も出ないほどバスケに関して上手くなってやろうという気概や努力もなければ、部活を辞めて本物の不良になったり、他のスポーツや勉強で見返してやろうということもなかった。
ただ漫然とバスケ部には居座ってほどほどに練習し、試合に出る時間もどんどん少なくなっていった。

きっと、心のどこかで小さくプライドが傷ついていた。

でも、そんなものは見ないようしていたし、チームメイトにも遊び仲間にも彼女にも戯けてみせては可視化されないように自己防衛していた。
僕の心はますますバスケから遠ざかっていった。

そんな僕の承認欲求を満たすイベントもあった。
市の駅伝大会に出場するために「駅伝部」というものが冬の一時期だけ臨時結成される。陸上部はもちろん各部活からの選抜メンバーで構成されるそのチームに入って、駅伝選手に選ばれることは名誉の一つだった。

中学2年の時に僕は文句なしで4区の出場選手になった。(中3の冬はすでに常時喫煙して不摂生な生活を送っていたのでドロップアウトしていた。もったいない。)1年生のインターバル走で持久力に目覚めた僕はこの駅伝部シーズンにぐんぐん記録を伸ばし、1500メートルを4分40秒くらいで走っていた。陸上部の同級生や先輩より速かった。
このときだけは、バスケ部での不遇に対して名誉挽回してやろうという真剣さを持っていたと思う。

結局、つかの間の名誉挽回もちっぽけな自尊心を満たしただけで、3年生になっても緩慢なバスケ部生活は続き、そのままチームは最後の大会で2回戦負けして引退となった。
最後の試合は自分が出たか出てないかも憶えていないくらいどうでもよかった記憶がある。

30年前の自分に贈る言葉

先日、20年ぶりに再開したチームメイト(キャプテン)から「お前、途中から真面目にバスケやらなかったからなー」と言われた。その言葉の裏に「真面目にやってればもっと強かったのに」という意味合いを感じ取って勝手に自己肯定しながらも、その反面、悔しさを表現できなかった30年前の自分と今の自分を比べてしまって、気恥ずかしさを感じながら目の前のウーロンハイを飲み干した。

もし、いま、僕の目の前に中学2 年生の自分がいたら、僕はどんな声をかけるだろうか。

逆境を歓迎するような生き方はやっぱりお勧めしないだろう。そんなキャラじゃないから。飄々と軽やかに生きている自分が好きではある。
でも、人生において追い風ばかりではないことも事実だ。ちょっとした向かい風に出会った時に、気が付かないふりをするのか、少しでも立ち向かおうとするのかで何年後かに足腰の強さは変わる。そして、その足腰の強さは飄々と生きていくために必要不可欠なものでもある。
奥底から滲み出た汗と涙こそが、その人の模様であることは間違いない。

中学2 年生の「彼」に端的に何かを伝えるなら、きっと村上春樹のこの言葉を送るだろう。

「腹が立ったら自分に当たれ、悔しかったら自分を磨け」

それはそっくりそのまま、今の自分に対して言える言葉じゃないだろうか、なんて思う。


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