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厭な話『ゆびきり 後日談』

「と、いう話を聞いたんです」

僕がそう言葉を結ぶと、湊町黒絵(みなとまちくろえ)先輩は「ああ、そう」とつまらなそうに言った。

「ああ、そう、って……。もう少しなんかこう、感情のこもった言葉はないもんですか」

僕は毎度の態度に呆れながらも先ほどまで開いていたメモを鞄に突っ込んで言った。

「偉いっ。さすが君だね! 今日も今日とてぼくなんかのために怖い話を探し蒐めてきてくれて本当にありがとうっ。感謝の極みだよ。毎回毎回有能な担当編集者様には頭が上がらぬ思いであるよ。今日もほら、こんなに美味しいお酒と食事をご馳走になってしまうし、君、ぼくにできることがあったらなんなりと言ってくれ給え。なんでもすると約束しよう」

黒絵先輩はいけしゃあしゃあと心にもない言葉を一気に並べ立てる。しかもこの人、今日の食事代も僕に出させるつもりなのをサラッと既成事実にしようとしているぞ。

「先輩に出来る約束といえば一つだけ。新作の原稿を書き上げてくださえすれば僕は他に何もいらないですけどね」

「君ね、ぼくにだってできることとできないことがあるぞ?」

黒絵先輩は三白眼気味の目を逸らしながら生ビールの入ったジョッキに口をつける。

「あんた今なんでもするって約束したじゃないか」

「やる気があるということとできるということはまた別の話だよ」

「じゃあやる気を出してください。そのための打ち合わせなんです。そうならないのであればこれは打ち合わせではなくただの飲み会ということになり、必然的に会社から経費は出ませんので、今日の飲み代は割り勘ということになります」

「それは困るよ。ぼくは今日、帰りの電車賃しか持ち合わせていないのだからね」

黒絵先輩は露骨に不満そうな顔をして真っ黒でダボダボの服のどこかからか小銭を取り出してテーブルに広げた。

「いい大人が電車賃しか持たずに外出するのにどうしてそんな偉そうな態度ができるんですか」

「偉そうな態度には金がかからないからなあ」

わけのわからない理屈をほざいている。

「まあ割り勘になって困るのはどのみち君だけどな。ご覧の通りぼくには手持ちがないからぼくに金を貸すか店員さんの隙を見て走って店を飛び出すかしなけりゃならないからね」

黒絵先輩はテーブルの上の小銭を集めながら平然と言ってのけた。

「先輩はともかく勤め人である僕がそんなことできるはずないでしょう。わかりましたよ。なんとか経費にしますから、原稿へのやる気とプロットをなんとか出してください。それと……」

僕は言い淀む。これは打ち合わせの範疇を超えた願いになってしまうだろうか?

「それと、今の話が、どうしてぼくには全く面白くもなかったのか、教えてください、だろう?」

黒絵先輩はこちらの思惑を見透かしたかのように、形の良い唇をニヤリと曲げて言った。

ここは新宿西口にある『やまと』という居酒屋の二階である。

出版社に勤めている僕は、担当作家であり、高校時代からの先輩でもある湊町黒絵「先生」との打ち合わせを、頻繁にこの店で行う。

黒絵先輩の書く小説のジャンルはいわゆる怪奇・幻想小説と呼ばれるものであり、最近はベストセラーになりにくい種類ではあるが、発表すればそれなりに話題になるし、なによりも一度読むと忘れられない印象を残すので、ファンが多い。業界内からも評判だし、単行本が出さえすればそれなりに話題になるはずだ、と僕は信じているのだが――

なにしろ、この先生は、書かない、のだ。

小説家としてデビューしてもうすぐ三年になるが、今だ短編小説を五本発表しただけで、これではまだ一冊の本に纏まらない。

だから早く書き上げてストックを溜め、一冊の本にしてしまえさえすれば電車賃しか持たずに飲みに出ることもなくなると思うだけれど、本人にいまいちその気があるんだかないんだかわからないので、こうして頻繁に――飲み屋とはいえ――打ち合わせをすることが会社でも許されている状況ではある。

しかしいくらなんでも限度というものがある。

このまま原稿が上がらずにいればいよいよ編集長も「もう打ち合わせしなくていいから」と言い出しかねない。

そうなっては困るので、僕としては毎度毎度通常業務や他の先生達との打ち合わせや原稿チェックなどの合間を縫って、黒絵先輩のために「不思議な話」「怖い話」を取材して回っているのだ。

そう。「不思議な話」や「怖い話」を聞くのは黒絵先輩の趣味というかもはやライフワークのようなもので、彼女はそこから自身の小説のアイデアを思いつくことが多いため、担当編集である僕がこうやって打ち合わせで自分の蒐めてきた話を語って聞かせるのは立派な打ち合わせである。

――はず。なの、だが。

今回のように、時折、僕が語った話に対して黒絵先輩は「へえ」とか「はあ」とか「ああ、そう」といったようなつまらなそうな態度を露骨に取ることがある。

そんなとき、彼女はその話の裏にある、誰も気づいていないような事柄に目を向けているのだ。

つまり、僕では気付かなかった、

「なぜ、湊町黒絵はこの話をつまらないと感じたのか?」

を、僕が聞きたくなるのは自然の事だった。

「でも、怖くないですか? ゆびきりさん」

新しく届けられた生ビールに口をつけてからそう言うと、黒絵先輩は「なんで」と訊いた。

「なんでって……だって、指切って持ってっちゃったんですよ。おっかないじゃないですか」

うーん、と唸ってから黒絵先輩はこれまた新しく届けられたハイボールに口をつけると、

「指を切り落として持ち去ったのは、ゆびきりさんなんかじゃなあないさ。あれは、人間のやったことだよ」

と、言った。

「そうなんですか?」

「そうですよ」

黒絵先輩はダボダボの黒い服の中のどこからか今度はマルボロを取り出し、一本咥える。

「そもそもゆびきりさんなんて神様はいないんだけれど、まあ、この話はいいとして」

そう言って火をつけると、紫色の煙を細長く吐き出した。

「ゆびきりさんの役割じゃあないからね、それは」

「それって、指を切って持ってくのがですか?」

「だからそう言ってるだろう」

黒絵先輩は普段から不機嫌そうな顔をより一層際立たせる。

「じゃあじゃあ、ゆびきりさんの役割って、なんなんですか?」

「そんな神様なんかいないって前提を理解してくれるなら話すけど――」

「理解します、それは、もう。教えて下さい」

「ふん。ならいい。神様なんてのは信じている人にしか影響をなさない、っていう前提で話していかないとややこしいことになるからね」

それは理解る。

神様や奇跡、他に、幽霊や妖怪、悪魔などは、それが見えている人にしか見えない。

極端な話、個人にしか見えないもので、第三者がそれを目撃することは、まずない。

誰かが見た神様を、第三者も目撃するためには、その人物も、その神様の存在を信じこまなければならない。

Aという人物が見た神様と、Bという人物が見た神様とで、風貌や言動が異なっては、意味を成さないわけだ。

だから、その他大勢で一つの神様を共有するために、テキストが必要とされる。

神様を自分の中で作り上げるためのマニュアル、というわけだ。

神様の場合だとそれらは聖書であったり経典であったり教えであったり説教であったりとなり、幽霊や妖怪のたぐいであれば怪談話であったり都市伝説であったりする。水木しげる先生の妖怪百科事典などは現代の妖怪マニュアル本として非常に有効だ。

「で、今回のこのゆびきりさん、という神様なわけだけれど」

黒絵先輩はおでんの大根を箸で切り分けながら言う。

「ぼくは不勉強ながらそんな神様、今までに聞いたこともない。都市伝説でさえも、だ。君は知っていたか?」

もちろん僕も初耳だった。

「つまり、このゆびきりさんという神様とやらは、沙香さんの中にしか存在しない神様、というわけですよね?」

「沙香さんだけじゃあ、ないな」

「え、でも他に誰かいましたっけ」

「沙香さんの中に、ゆびきりさん、という神様を植えつけた人たちがいただろう」

あっ、と僕は思い至る。

「沙香さんの、ご両親、ですね?」

「そう。ひょっとしたらそのご両親も他の誰かから植え付けられたのかもしれないけれど、とにかく、沙香さんに、ゆびきりさん、という神様を誕生させたのは、ご両親だ」

――私がこの歳まで生きていられているのは、両親が昔、ゆびきりさんに約束事をしてくれていたからだ、って言うんです――

その言葉を、僕は思い出した。

「沙香さんは元々体が弱かったんだろう? それを、ご両親がなんとか健康になってもらおう、と祈り、それが、ゆびきりさん、という神様によって叶えられた。そういったテキストが、沙香さんたちの実家では、浸透していた。それによって沙香さんは、自分が生きながらえていられるのは、ゆびきりさんと交わした約束事を守っているからだ、という祈りが通じた形として、心の支えになる」

「なるほど。それはわかりました。でも、それがなぜ、ゆびきりさんが沙香さんの指を切り落としたことは、役割ではない、という話になるんですか?」

ここまで整理できたので、僕はようやくその疑問を口にすることが出来た。

黒絵先輩はハイボールを飲み干してしまうと、

「祈りというのは、呪いと同義語だからさ」

と言った。

「沙香さんは、ゆびきりさんに祈りを叶えてもらうと同時に、ゆびきりさんの呪いにかかってしまっていたんだ」

「ゆびきりさんの、呪い、ですか」

店内は暖房が聞いているはずなのに、背筋が薄ら寒くなる。

「ゆびきりげんまんってのは、なんだか知っているかい?」

黒絵先輩は右手の小指を立てて突き出し、唐突にそんなことを言った。

「約束事の誓い、ですよね。ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます、ってやつ」

「そう。その、おまじないの、由来と意味を、君は知っているのかな」

黒絵先輩は新たなハイボールを注文すると、形の良い唇をニヤリと曲げて言った。

「いやあ、わかりません」

僕も新たな生ビールを注文して、そう言った。

「君なあ。少しは考えてから諦めなさいよ。どうせ君のことだから、賢くて美人な黒絵先輩が何でも教えてくれるから思考は放棄したって構わない、とか考えてるんだろう。情けないったらないな。君の大好きなそのスマートフォンで調べてご覧よ。なんなら呟けばいい。拡散希望。とか言って。さ、早くそれをするがいいさ」

痩せた頬を膨らませて何を子供じみた拗ね方をしているのだこの先輩は。

「いやあ、そんな事をするよりももっと早くて正確でしかもわかりやすくて面白い先輩の話を聞いている方が時間が有意義に使えますからね」

「あ、そう?」

もう笑った。ある面では非常に扱いやすいのだ、この先輩は。

「そこまで言うなら教えてやらんこともないけど、ゆびきりっていうのは文字通り、指切り、もっと言うと、小指の第一関節を切り落とすことを言う」

黒絵先輩は簡単な煽てに気を良くし、新たな煙草に火をつけて話しだす。

「そもそもは、心中の証として成り立ったという説がある」

「心中って、あの、一家心中とかの、そういう」

「そう、それだよ。男女間における、自分たちの愛は本物である、という証として、髪の毛や爪などを切り落とした、っていうのが心中のそもそもだ。心中ってのは文字通り、心の中――真心、とか、本音、とかそう意味だ。心中お察しします、なんて時代劇でもよく言われる台詞だろう。まあ、最近じゃ、命を切り落とすっていう行為こそが、心中、という言葉そのものになり変わりつつあるけど、髪の毛や爪と、生命の間には、小指の先、があったわけだよ」

「はあ。ということは、男女間の愛の証として小指の先を切り落とすという風習が、心中として、存在したわけですね」

「存在したわけです。それらは主に、江戸時代から起こる遊郭の中でね。遊郭で、遊女と客とが恋に落ちてしまうことがあった。しかし、遊女は仕事で他の男とも寝なければならない。けれども、それは仕事であり、本当の愛はお前さんにだけだよ――そういう証として、小指の先を切った、という説があるのさ」

黒絵先輩は長い真っ直ぐな黒髪を片手で流しながら、色っぽく話す。

「で、でも、心中なんて――遊女は、遊郭では仕事なわけでしょう? そんな、他の誰かに愛を誓った小指の先がない女性が、遊郭で仕事ができるとは思えないのですが」

「もちろんそうさ。だから、心中、なんだよ。そして当時、遊郭での大罪は、枕荒らし、起請文乱発、足抜け、密通、阿片、など――それぞれの意味は自分で調べてくれ――だったんだけど、その中に、心中、もあった」

「じゃあ、駄目じゃないですか」

「駄目なんですよ。でも、それを止められないのが、愛や恋ってもんなんじゃないのかい?」

僕は、一瞬、沙香さんが不倫をしてしまっていたことを思い出した。

旦那と同じ職場の人間で、いつバレるかもしれないような状況で、しかも、自分自身が結婚式での誓いという約束事を破ってしまう、という状況でありながら、なぜ彼女がそのような行為に陥ってしまったのか?

――止められなかったのかもしれない。

「当時遊郭では」

黒絵先輩はそんな僕の思考を遮るように話を続ける。

「大罪を犯したものは、罰を受けなければならなかった。他の遊女たちに対する見せしめの意味も込めてね。お前たちも同じことをしたらこうなるぞ、というわけだ」

「どんな罰だったんですか」

「そりゃあひどい罰さ」

黒絵先輩は面白くもなさそうに言う。

「当時の遊郭で信じこまれていたのは、『人間と同じような扱いをしたら、化けて出るから、犬畜生と同じ扱いにしなければならない』という教え――経典、だったわけだな。だから掟を破った遊女たちは、そりゃあ酷いことをされた」

「具体的にはどういう」

「君は知ってるはずだよ」

黒絵先輩はそう言って新たなハイボールを注文して、

「げんまん、はりせんぼんのます」

と、言った。

「げんまん、ってのは、拳骨が万回、という意味さ」

「……つまり、徹底的に殴打する、と」

「そう。そして針千本飲ます……これは実際に口を開けさせてゴクリ、と飲ませたわけじゃなくて、恐らく比喩だろうね。針を千回、刺したのさ。爪の間とか、眼球、鼻孔、唇、性器などに執拗に、ね」

気分が悪くなってきた。

同時に、有名な岡山県出身の女流作家が全編方言で書いたホラー小説を思い出す。映画化もされたはずだ。確かタイトルは――

「ゆびきりげんまん、の由来と意味がわかったかい?」

黒絵先輩の言葉で再び思考が遮られた。

「わ、わかりました」

「――だったら、ゆびきりさん、が、指を切り落とすのが役割じゃないことも、理解できただろう?」

黒絵先輩は形の良い唇を、ニヤリと曲げた。

僕が何も答えられずにいると、

「単純な話」

と、黒絵先輩は続きを話し始めた。

「指切り、をしたことに対する罰は――命を奪う、ってことなんだよね」

あっ、と、僕は思い当たる。

沙香さんが、ゆびきりさんに祈った見返りに受けた呪い――それは、

「沙香さんが、今まで、生きていられること。それこそが、ゆびきりさんから受けた――呪い――なわけですね?」

黒絵先輩は、新たな煙草に火をつけ、

「そういうこと」

と、言った。

「それを破ってしまった沙香さんが受ける罰は、死んでしまうこと、で終わりなはずなんだよ。でも、沙香さんは更に、死体から指を切り落とされてしまっている。これは――ゆびきりさんの役割の、範疇外だ」

ゆびきりさんという神様の役割は、命を奪うこと。

――ゆびきりさんの役割じゃあないからね、それは――

黒絵先輩のその言葉の意味が、ようやく理解できた。

ゆびきりさんという神様が、沙香さんの指を切り落とすことは、そもそも、沙香さんとその家族が信じていた経典にはなく――

「やり過ぎてる、と――先輩は、そう言いたいんですね?」

「まあ、そうかな。――日本の警察は賢くて優秀だから、警察の見立て通り、沙香さんの死因は、心不全なんだろうさ。でも、それで終わっておけば良かったのに、そこから、沙香さんの指を切り落とした愚か者がいるんだよ」

黒絵先輩は、紫色の煙を細く吐き出す。

「もう少し言うと、沙香さんとそのご両親にしか見えていなかった、ゆびきりさん、という神様が――そいつにも見えてしまったのかもしれないな。だから後先考えずに、沙香さんの指を切り落としてしまったんだ」

黒絵先輩は何が楽しいのか唇の両端を上げて、そう言った。

「そいつは、一体、誰なんですか」

「沙香さんの不倫相手、だろうさ」

「これはあくまで憶測でしかないんだけれど」

黒絵先輩は、何杯か目のハイボールを飲み干してから、そう言った。

「沙香さんが亡くなってしまった時、不倫男はその場に一緒に居たのさ」

「そうなんですか?」

「恐らく、だけどね。でもそうじゃないと、彼が沙香さんの指を切り落とせないからね」

「沙香さんの旦那さんっていう可能性はないんでしょうか?」

「可能性としてはもちろんあるよ、それは」

黒絵先輩は新たに運ばれてきたハイボールで唇を湿らせる。

「第一発見者だしね。ただ、今回の話で言うと、命題は、指を切り落とさなくてはならなかったのは誰であるか? って話だ。旦那さんはその時点で外れてしまうよ」

「それは一体なぜなんでしょう?」

「どうして沙香さんは指を切り落とされなくてはならなかったのか? それは恐らく、彼女の指がそのままの状態であると、まずい理由があったためだ」

僕は自分も生ビールを飲みながら考える。

沙香さんの指がそのままの状態だとまずい状況ってなんだ? 普通の指の状態ではなかったというのだろうか?

だめだ、だいぶ酔いが回ってるせいもあるが、まるでわからない。

「降参です。沙香さんの指は、その時どうなってたんですか?」

「ふん。少しは考えてから降参したようだね。いいだろう、教えてあげるよ。恐らくその時、沙香さんの指には、マニキュアが塗ってあったはずだよ」

「マニキュアが……でも、それがなんだっていうんですか?」

「呆れたな。褒めてやるとすぐこれだ。少しは考えてから白旗あげなさいってのに」

黒絵先輩は眉間の皺を一層深くして煙草に火をつける。

「思い出してご覧よ。沙香さんという人が、一体、どういう女性だったのか」

僕は藤城さんの言葉を思い出す。

「……確か、お嬢様みたいに育てられて、子供っぽくて……」

「綺麗なものが大好きで、化粧品会社に就職したような人、だ。そして、そんな沙香さんの不倫相手は、同じ化粧品会社の、どんな部署にいる男だった?」

不倫相手は確か、

「――営業だったはずです」

「そう。そして、その化粧品会社は、当時、新しいシーズンの新作発表を控えた時期、だったよね?」

あっ、と、僕は気づいた。

「沙香さんは、その時、新作のマニキュアを、その指に塗っていたんですね?」

「恐らく、ね。これも予想でしかないけど、そもそも、その営業男と近づいていったのも、いち早く新作やなんかが手に入るからとか、そんな理由だったんじゃないかな。営業の男がまだ発売されていない新作のサンプルを持ち歩くなんてことは、恐らく難しいことでもなんでもないだろう」

「いや、でも待ってください。沙香さんの旦那さんも、同じ会社の人ですよ? 部署がどこまでかは聞いていませんけど、旦那さんが新作を持ち帰る機会があったとしてもおかしくなくないですか?」

「おかしくなくないね」

黒絵先輩は、煙草を灰皿に押し付けながら言った。

「でも、旦那さんは新作のマニキュアを沙香さんが塗っていても、指を切り落とすまではいかないわけさ。沙香さんの化粧台を少し調べれば、除光液がすぐに見つかっただろうしね」

「それを言うなら、不倫男だって、別に探せば」

「探したと思うよ。だけれど、彼には見つけられなかったんだ」

「どうしてですか」

「除光液が、どの瓶に移し替えられてしまっているか、わからなかったからだよ」

思い出した。

藤城さんは確かに言っていた。

――シャンプーとかだけじゃなく、油やお醤油なんかも、全部自分の好きな瓶に移し替えるんですよ、買ってきてわざわざ――

「不倫男は、目の前で死んでしまった沙香さんの指に、自分が持ち出しているマニキュアの新色が残っているのは、まずい、と考えたわけだ。除光液を探そうにも、見つからない。マニキュアを重ね塗りしてすぐに拭くと落ちる、なんて緊急の方法もあるけど、どうしたって色は残ってしまうし、確実とは言えない。また、長居しているような時間もない。咄嗟に思いついたのは、沙香さんの指を切り落として、持ち去る、というものだったわけさ」

信じられなかった。

たかが新色のマニキュアが指に残っていたくらいで、指を切り落とすなんて行為が、人間にできるものだろうか?

普通ではない。普通の人間なら、決してそんなことはしようと思わない。

だけれど、実際に、沙香さんの左手の指は、五本全部、死後に切り落とされてしまっていたのだ。

「……どうして、そんなことをしよう、と思い至ったんでしょうか」

「わかりませんよ、そんなことは」

黒絵先輩は、ぶっきらぼうなトーンでそう言った。

「ただ、まあ、そいつも、呪われてしまってたんだろうな、ゆびきりさんに」

「不倫男もですか? 一体、どうして」

「もちろん、ただの憶測だけどね」

黒絵先輩は、そう前置きをした。

「これはただの憶測でしかない。ぼくはそんな出来事がほんとうに、実際に、現実に起こったのかどうかもわからないんだけど」

ハイボールのジョッキに口をつけたまま黒江先輩はこちらを睨みつける。

もう大分酔いが回ってきているようだった。

「不倫男は、沙香さんに随分前から、自分がゆびきりさんとの約束事を破ってしまったせいで、命を奪われてしまう、という恐怖を聞かされていたんだと思う」

それはきっとそうだろう。

沙香さんは目に見えてやせ細っていったと聞くし、藤城さんにすら、そのことを相談しているくらいなのだ。

不倫相手の男に「私は貴方と浮気したせいで、ゆびきりさんに殺されてしまうのだ」と語っていたとしても、意外ではない。

「もちろん不倫男はそんなことは信じない。もしかすると、そんな迷信から気を紛らわせてあげようと、新作のマニキュアなんかを持ち込んだのかもしれないね。だけど、可哀想に、沙香さんは、不倫男の目の前で、実際に死んでしまう」

僕はその時の状況を想像した。

沙香さんの家のリビングで、新作のマニキュアを塗っていた沙香さんが、突然心臓を止めてこの世からいなくなってしまう――

「不倫男は思っただろうね。ああ、本当にゆびきりさんが彼女を殺してしまった、と」

――僕ならどう考えるだろう。不倫なんてもちろんしたことはないが、どんどん弱っていった不倫相手が、彼女の家で突然死んでしまったとして……。冷静でいられるだろうか。

落ち着いて脈を取り、病院や警察に連絡し、不倫の事実を全面的に認めながら、彼女の死を受け入れることができるだろうか――。

情けない話だが、到底そこまでの全てを、世間的にも社会的にも後ろめたい立場の状態のまま、受け入れる覚悟はできそうになかった。

で、あるならば――

「彼は、ゆびきりさんの存在を、受け入れてしまったんですね」

「そして同時に、彼の心の中にゆびきりさんが入り込み、彼にも、その姿を見ることが出来たわけだ」

彼には、不倫相手の死体の向こう側、リビングの壁の角から、ゆっくりと現れる、その影が――見えたのだ。

「そして彼は思い出す。自分も、沙香さんと、約束をしていたということを」

ああ、そうか。

藤城さんは言っていた。沙香さんは確か。

――あと、誰とでもすぐに約束事をしたがりました――

旅行の行き先や女子会の日取りなどをすぐに「内緒ね」とゆびきりをしたがった、のだ。

不倫相手の男とは、幾度と無く、その小指を絡ませあったことであろう。

「ゆびきりの約束は、違えるわけにはいかない。沙香さんは死んでしまったけれど、ゆびきりげんまんの約束だけは、破棄してしまうわけにはいかない。なぜならそれは――」

黒絵先輩は、自分の喉元に、左手の小指で真横に線を引いた。

「――ゆびきりさんに殺されてしまうことになるから、ね」

目の前で沙香さんが命を失ったように。

「だから彼は、指を全部切り落として、持ち運ばなければならない、と思い至ったのさ」

ああ。

そういうことか。

彼は、彼女の死体から切り落とした小指と、自分の小指とで、ゆびきりげんまんを、し続けなくてはいけない、と考えたのだ。

新色のマニキュアが塗られてしまった沙香さんの指。

その指をそのままにしていては、自分がその場にいたことがバレてしまう。

だから、指を切り落としてしまわなければならない。

指を切り落として持ち帰らなければ、自分もゆびきりさんの呪いによって殺されてしまうから。

「不倫男がそう考えて、沙香さんの指を全部切り落として持ち去ったのであれば、それは」

僕は生ビールで喉を一度潤した。

「確かに、呪われてしまってますね、ゆびきりさんに」

「可哀想に、肌身離さず持ち歩いていなければゆびきりさんに殺されてしまうし、持ち歩いていたら警察に取り調べられた時に言い訳がきかないしなあ」

「どんな言い訳しても、取り上げられてしまうでしょうしね」

「沙香さんの指なんだ。取り上げられて元の場所に戻されなければならないものだよ。だけどまあ、そうなってからがきっと、彼にとっての地獄の始まりだろうな」

黒絵先輩は、形の良い唇をニヤリ、と曲げて言った。

「いつどこで、ゆびきりさんに殺されるかわからない日々が始まるんだ。図らずとも、沙香さんが通ったものと同じ道を歩むことになるだろうさ」

「いつまで隠し通せるんでしょうかね」

「長くはないだろうな。誰と不倫してたかは藤城さんが知っていたんだ。事情聴取を逃れられるとは思えない」

新たなハイボールを注文して、黒絵先輩はスマートホンで時間を確認する。

「そもそも約束なんて、忘れてしまえ、くらいの気持ちで交わさないと、精神的に良くないものだな。ゆびきりさんに目をつけられちゃかなわん」

「いやいや。その話と先輩が原稿をあげてくれるという約束とは別物ですからね?」

「ちいっ。つまらん約束ごとを憶えているやつだ」

「今月中にプロット。絶対にお願いしますよ」

黒絵先輩は三白眼気味の目でこちらを見つめたまま、無表情に右手の小指を立ち上げた。

「ゆびきり、するかね?」

僕は一瞬、自分の小指を差し出そうとして――折り曲げた。

「それは、別に、いいです」

黒絵先輩の後ろの席の客が、背中越しにこちらの方を、じろり、と見つめてきたような気がしたからだ。

ゆびきりまでは、する必要は、ない。

「では、他の――なにか面白くて不思議で怖い話は、ないのか?」

新たな生ビールを注文して、黒絵先輩は、にまーっと笑った。

#短編小説 #厭な話

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