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あの時ボクが観た景色①

2010年7月8日

古希を迎え、自分の人生を振り返る事が少し増えた。
 1998年から関わり始めた大洲のまちづくり。自分の意図することではなかったが、脱サラ独立開業7年目で当時44歳だった私にとっては「転機の時」だと思ったからだった。親父に話をした。すると「途中で投げ出すなら止めておけ。自分が正しいと思ってやるのなら最後までやれ。結論が出なければそれが正しかったか間違っていたのかは分からん。やり直すのはそれからでええ。」グサリと入り込んだ親父杭だった。長く大洲市役所において地域行政に関わった経験から言われたことだと思った。

自分が撮りだめた写真を見返して振り返ることが増えた昨今。
 2010年当時は、故清水市長の肝いり事業で「鵜飼い再開発」を進めていた時期だ。事業の委託先は「JTB」で、当時ツアービジネスにおいても何かと世話になっていた方が引き続き事業の担当になっていただき、行政現場の当時の担当係長との二人三脚で取り組んだ。
 最初の写真は、その事業の最終局面で鵜飼い事業者の売り上げ実績確保に向けた思惑が水面下で火花を散らし、ドロドロの人間関係に囲まれていた時期に撮影したもの。夏場になれば鵜飼いの案内を連日連夜担当し、それが終わったら1人カメラ抱えてスナップしながら夜の町並や川縁を散策することが唯一のストレス解消だった。


堀洋服店/大洲市常磐町

「堀洋服店」2016年8月11日
「堀洋服店」2016年8月11日

堀さんとの出会いは2016年8月11日。
 当時、肱南(城下町側)だけでなく肱北側の町並散策も大洲駅からの出発でメニュー化するという動きがあったため、常磐町から殿町や河原側へ入り込んでスナップ散策していたときに気になって飛び込みインタビューして撮影させてもらった。
 大正のお生まれで私の親父と同じ時代を生きてこられていた方だったことが距離を近くしてくれた。アナログではあるが「老練和装洋裁職人」としての手元はしっかりしていた。このとき手がけておられたのは、何と愛媛YOSAKOIのあるチームから依頼されたという踊り子さんの衣装だったことが何とも驚きだった。
 今は店をたたまれて松山の方へ転居されたと聞く。消息が分かれば是非お会いしてお写真をさし上げたいと思うが難しそうだ。


吉野湯

「吉野湯」2016年8月11日
「吉野湯」2016年8月11日

 地域に愛された銭湯だった。
 かつてサラリーマン時代には大変お世話になっていた井上さんだが、近年ついにこの名物看板を下ろされた。


町並ウエディング

町並ウエディング/2017年11月3日

 この頃から町並で色々な催し物や取組が行われるようになっていった。世代交代という動きも加速していく中で、大洲城と臥龍山荘の全国展開に合わせて「大洲の鵜飼い」の人気向上を目指した再開発事業が一定の成果を見せ始めた時期でもあった。


いわはんの名物バッタ

バッタおじさん/2016年4月29日

 臥龍山荘へ向かう途中に店を構える「いわはん」のバッタは人気者。これまでも大洲を訪れた多くの芸能人のハートを掴んだものだ。なんと言っても一番の思い出は田中要次さんと柳沢慎吾さんがロケで訪れたときだった。


かつての栄光
肱川橋通りにあった二つの洋品店

右側が古森洋品店/2013年10月30日

 肱川橋の架け替えと道路の拡張により立ち退きが決定した自らの店舗の最後の姿をカメラに収めるご主人の古森さん。当時先々代が撮影されていたという古い写真をたくさん見せていただいた。この場所は10年経った今、全く別の景色に変わっている。

木本商店/2013年10月30日

バスの停留所にもなっていた木本商店。
 待合室があって中には確か木製のベンチも置いてあったように思う。バス通の高校生達がたくさんここを利用していたが、肱川橋の架け替えによる道路拡張で取り壊された。


 今、古くから撮りだめていた写真を「あの時ボクが観た景色」というテーマで整理しています。いずれ「百年先のみんなに伝えたい」という想いを込めてとりまとめた冊子を発刊する計画です。
 2017年2月に心臓を病んで突然倒れましたが運良く生還。今は元気ではありますが爆弾を抱えて経過観察中でもあります。いずれまた来ると思いますので、今、元気でいる間にしっかりとりまとめておくことが、この町を舞台に撮影しお仕事をさせていただいた者としての役割だと考えています。
詳しいことは追々ご案内いたしますが、まずは2024年1月2日から15日までおおず赤煉瓦館別館二階において「あの時ボクが観た景色」というテーマで第3回目の個展を開催します。
どうぞお楽しみにv(^-^)v


街づくり写真家 河野達郎

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