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あの時ボクが観た景色④『消え去った風景』

消え去った風景を次代へ届ける使命感。
 私の基本撮影テーマは「写真は語る」。故・川本征紀先生から授かったもので全ての撮影と写真の展開はこれを基本要素として構成を考え、私の街づくりやそのための写真家としての活動が成り立っている。

2010年撮影

 私が大洲市の中心市街地活性化に向けた活動に加わったのは1998年9月からのこと。ここから2002年4月12日の大洲まちの駅「あさもや」開業と街づくり会社(大洲市TMO)の創立を挟んで、2008年にNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放映されるまでの約10年は、大洲市の観光街づくりの創生期と言える。
 街づくりの競争相手などいない。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いでその名を馳せていた内子町の背中は遠くかすみ、とてもじゃないが追いつくことなど難しいと誰もが思ったものだ。

2011年撮影

 以前にも書いているかもしれないが・・・
 私の取り組んだ大洲市の観光街づくりのそもそもの考え方は「内子町に追いつき追い越すためにどうするか」だった。大洲盆地という地形の土俵を共有し、肱川流域の町として似たような生活空間を持つ。さらに決定的なことは藩政時代には「大洲藩」の支藩で「新谷藩」の在郷町として栄えた内子町は、本藩大洲藩加藤家の居城で大洲城下の町として栄えた大洲城下と同じ時の流れに乗り共に歴史を刻んで今日に至っているということだ。
 現在は自治体としても別だし無関係のようだが、実際にはかなり深い関係性がある。そんな内子町は観光地としては先進地。「案内人」配置と機能という点で今は洲市が一歩先んじてはいるが、当時はその内子町にどうすれば追いつけるかというのが創生期の重要なテーマだった。

2011年撮影

 そこで思いついたのが趣味で撮っていた写真を生かすということだった。当時、地元の写真クラブ「光友会」に入れていただき諸先輩方に色々とご指南いただいた。その際に言われたことが「撮影の練習は如法寺へ行ってやれ」とういうことだった。以来、出勤前に立ち寄れる日は毎朝山門を潜った。当時は放し飼いの犬が2匹もいて慣れてくれるまでは大変だった。このワンちゃんたちに好かれなかったら写真は撮れないのだから。

2000年ころ撮影の如法寺

 城下町大洲を中心に広がる周辺や流域の市町はやはり肱川の恩恵を大きく受けて今日に至っている。そこには手つかずの自然やこれらを生かして受け継がれてきている「伝統文化」などたくさんの地域資産が存在する。開業前年度当時の大洲へ来訪していた観光客総数は延べ30,000人いう記録が資料として残っていたが、これは物販を唯一展開していたおおず赤煉瓦館での集計記録で売上額も年間6,000,000円だった。スタートはここからだ。何のノウハウもなくゼロからのスタートは、地域からの信頼も得られずもちろん経済効果も疑わしいと思われてのスタートだったので、私は「まともな人間のやることではない」とまで陰口をたたかれていた。街づくりにはこうしたことはつきものだが反論はしなかったしすべきでない。地域に経済効果を認識していただくまでは我慢するしかないし、それができないなら街づくり会社の代表取締役などはとっとと退任した方が身のためだから。が、やる以上は責任はとる覚悟だった。

2014年撮影

 肱川河畔とそこに浮かぶ屋形船。うかいシーズンは6月1日から9月20日まで。肱川独特の決まり事で大洲城下流側の可動堰を上げるのはこの期間だけに限られていた。意見はいろいろあったが長年行政と肱川漁協の対立は続き、こと河を活用したメニューの開発と展開には大きなリスクがあったことも確かだ。
 季節によってはたくさん訪れる渡り鳥。特にカモ類は多く、カワウともなれば一群れ200羽前後で降り立ち川魚は一羽500gというから鮎の放流もカワウのエサ用と言っても過言ではない状況。しかし、一方で伊予灘へ北西方向に向かって流れ出る肱川が秋冬ともなれば冷気吸引排出の役目を果たし、あの肱川あらしを誘発していることはたまらない状況だった。

2014年撮影

 旧大洲藩が歴史的に大きな役割を果たして実現した明治維新。それ以降は肱川が城下を南北に分断してややこしい争いごとが根底に根付いてしまったわけだが、それでも江戸中期から続いていた城甲家を中心とした木蝋産業や明治末期には当時の町長で商工会の会長でもあった岩村芳太郎が重要な役目を果たしたと言われている製糸業への転換など、町の名を全国に馳せることとなった隆盛期が訪れた。その当時に建設された臥龍山荘はこの町の象徴的日本建築として、今や国の名勝指定まで受け大切にされている。
 2008年以降2019年までの私の活動期間は仕込期だったと考えている。龍馬伝の放送によって注目された大洲藩の幕末維新に向けた動きは、長州・土佐・薩摩連合形成に向けた重要な動きを舞台裏でしていたことが判明。さらに大洲藩十一代藩主の娘で千賀子姫が長州本藩萩藩支藩の長府藩十三代藩主毛利元周の正室で嫁いでいたことが分かり、調べていくとこの親戚関係がエネルギーを創出していたことが分かった。

2010年冬の絶景臥龍淵

 こうして色々なことの関係性が新たな動きを誘発し、有効かつ効果的な情報発信基盤が整っていった。ここに情報素材としての大洲の写真の存在価値が認められ始め、私の撮影スタイルもできあがっていった。
 写真は時間を記録している。なので現在では既に消え去ってしまった風景でも、その軌跡を見ていただいた方々の脳裏において甦らせるだけの効果は、動画とは全く違ったものがあることも確かだ。写真家のスタイルも色々だが、私は自らの撮影スタイルは「地域創生撮影」と申し上げている。もちろん写真家としてはプロの冠をいただいている以上独創的な作品を発表し、結果として地域貢献をさせていただきたく日々研鑽を積んでいかなければならない。
 今回ご紹介している写真は、今は既に消え去ってしまった風景だ。二度と戻っては来ない。だがこうして記録として残しておくことで、今、私が百年前の古写真を基に色々と学びながら撮影ができているように、今から百年先のみんなに「消え去った風景を記録し伝承していくこと」は、私が生きて撮影活動をさせていただいている間の役割だと考えている。

2024.03.17.
街づくり写真家 河野達郎






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