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どんな作品がイラストか。

そもそも

イラスト」とはどんな絵かを定義づける必要は特にありません。
各人が各人のイラスト像を持っていたら良いと思います。

が、当方イラストについて教鞭をとっており、講義の中だけでも定めておかないと困ることがありました。
僕と相手の持つイラストのイメージが違うと、会話が噛み合わないですし。

そのために改めて「イラストとはどんな絵の事なのか」を調べ、得た認識をここに記します。

イラストの語源

イラスト は「 イラストレーション の略で、おおもとは英語の 「illustrate」。
illustrate」は「 illuminate(イルミネイト)」と同じ語源を持っており「明るくする」という言葉から生まれた。
イルミネイト 」は イルミネーションでおなじみ、光で明るく照らす。

illustrate」も明るくする。ただし、図像を用いて明るくする(明らかにする)。そこから「説明する」となった。
「説明する」とは、どう感じるかは自由です、や、分からなくても構いません、ではない。
伝えたいことを理解できるように伝える、という達成したい目的(意図)があり、
意図に沿って思考や行動を誘導している行為ともいえる。

ところで今では動画もありふれたものになりました。
静止画が少しだけ動くことも珍しくない。
また、立体を撮影し図像として扱うなんてことは往々にしてある。
故に図像を用いて、の図像は2次元静止画とするよりも、動画や立体を含んだ、視覚作品と解するのが適当であるように思う。

まとめると「意図に沿って誘導するための視覚作品」がイラストといえる。

イラスト機能の発生について

イラストの面白いところは、その機能(意図的に誘導する働き)を作者でなくとも、後付けできる点。
この機能は植木鉢や花瓶と似ている。

植木鉢や花瓶はもともと「植木鉢」や「花瓶」として作られたものだけが植木鉢や花瓶ではない。
空瓶、空缶、コップ、長靴など、それ用に作られていないものも、「植木鉢」や「花瓶」として使えます。
コーディネート本にはタイヤ、車、ピアノ等も植木鉢や花瓶として扱っていることもある。

イラストも同じ。
もともとイラストとして作っていなくても、後で、意図に沿って誘導するように扱うことが可能です。

例えば 僕が粘土を握りしめグチャっとした塊の写真を撮ったとする。
その写真をデザイナーさんが、人生、という本の表紙に使ったら、
作者の僕が意図していなかったにもかかわらず、使用者の目的へ誘導できたりする。

ただし、
そのために作ったもの。

そのように使うことができるもの。
これは似ているけど、同じではない。

「植木鉢としても使える」
といわれてピアノを提示されることに違和感が無くても、
「これが植木鉢です」
といってピアノを提示されると違和感を覚える人はいるでしょう。(僕は覚えます。)

イラストの場合はあまり違和感が生れないためなのか、
「これがイラストです」
と紹介する場に
「イラストとして描かれたもの」と
「イラストとしても使えるもの」の両方が提示されているのが現状です。

言葉の意味の変化

言葉はコミュニケーションの中で、意味する内容が異なることがある。
イラストにおいても「シネクドキ」という比喩で意味が変わっていることがある。
「シネクドキ」とは部分と全体に関する比喩です。

例えば「お花見」と言うとき、たいていの場合、その花は「桜」を意味する。
全体を表す「花」で、部分としての「桜」を比喩している。

逆に、部分が全体を意味する場面もあります。
例えば「お茶」。

「お茶しない?」と言うとき、部分としての「お茶」が、フルーツティーやコーヒー、炭酸水なども含めた全体を表す「飲料(もしくは休憩)」の比喩として使われている。

「イラスト」にも同様の行為が行われている。

例えば「牛乳のパッケージにイラストを描いてほしい」と言われたとき。
美味しい、新鮮、清潔と思ってもらいたいという絵が求められる。
これは依頼者の意図に沿って鑑賞者の思考を誘導する絵であり、
「イラスト」という言葉を視覚作品全体の中の1部分、冒頭で記した「意図に沿って誘導するための視覚作品」として使っている。

一方で「私も余った紙にイラストを描くのが好きで…」という会話のとき、
部分としての「イラスト」が、全体としての「絵」を比喩した使い方になっている。

しかしながら、先述した理由で、ややこしい状況が生まれている。

現状「イラスト」として「イラストとしても使えるもの」も多分に提示されている。
それは延いては全ての視覚作品の事であって、
結果「イラスト=著名な絵画や漫画などと明確に分類できない視覚作品全て」と解釈しやすい。

イラストはこういうものだというイメージはあるけど、会話の流れでとりあえず絵の比喩として話すこと、と、
イラストは絵全般の事だと思って話すこと、は、
イラスト=絵として扱っていること自体に違いはない。
イラストに対する理解が異なる両者が話しているけど、会話は噛み合う。

例えばお茶の場合、飲料の中の、部分としての「お茶」の解釈=「茶葉を煎じた液体」がはっきりしているため、
部分を意味する場面、例えば「お茶が好きで」という話に
「私もお茶は大好き。○○カフェのコーヒー美味しいよね。」と返すと、お茶の理解がズレてる? となる。
「私もお茶は大好きフルーツティー美味しいよね。」ならギリギリセーかもしれないが、日本茶愛好会という場があったとして、日本産の果物のフルーツティーを持参した人がいたら、お茶の理解がズレてる? となるだろう。

結果、噛み合わないことを起点に解釈を埋める機会が生じる。

イラストは、なんとなく会話が噛み合ってしまうことも曖昧な解釈の放置になっている気がする。

僕が、この作品は本来用途の意味でのイラストとは思えないし、本人もイラストと呼称してないから、イラストと見なしていいのかな?
と思える作品を、
このイラストが好き!として提示されても、まあ、いいか、となる。
一般的にはもっと違和感がないかもしれない。

では、イラストとは

イラストは現状日本において、絵全般と解釈できる。
どんな作品もイラストと言える。(乱暴だけど。)
当方も、講義の外では「イラストとして使われた絵がイラスト」と言うことが多い。
一方で、「意図に沿って誘導するための視覚作品」という創作物の中の一部分としてのイラストも存在する。

そもそも「イラスト」とはどんな絵かを定義づける必要は特にありません。
各人が各人のイラスト像を持っていたら良いし、意見が合わねば記述は無視して何も問題はない。

必要が生じ、ここの考察が一助になれば、何よりです。




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