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挫折も成長の一過程かも

成長しているのか、変化しているだけか?それとも退化しているのではないか?

生きてるうえで思い通りにいかないことがあるのは少なくはない。

その現実を受け止めて、形を変えつつも望ましい方向を目指す行為とその形式を成長と考えていいんだっけ?と思った。

例えば、ピアノが上手くなりたいと、あこがれをもってピアノに取り組む。そして少しずつ、その目標には憧れには及ばない自分を知っていく。
そこで、ピアノに似ているけど、ピアノではない楽器を触ってみるとか。

例えば、
・ピアノ
・ピアニカ
・オルガン
・クラリネット
・シンセサイザ
・などなど

それは成長か変化か?衰退か?

以前、成長について考えたnoteがあるので再読する。

成長とは何か
対象の変化前後とそれぞれの状態における環境との違いを認識して
それを記憶の中で照らし合わせて感じるもの

こんなことが書いてあった。

そこに何となくだが、何かしらの目的に対する知識とか経験が成長たるゆえんだろう。と思う。

ピアノでより具体的に書くと
・楽譜通り行うクラシック的なやつはとても苦手である(聞く分にはとても良い)
・耳コピはできなくはない
・音楽を楽しめる形であり、聞いている人がわかる形でありたい

なのでこれが欲しいとか。これが欲しいです。金がないかもー。

成長という言葉にとらわれている疑いを持つが、変化と目的と知識の観点から見て、成長ととらえてよいのだろう。

そう考えると、現実的な資源や物質単位での利己性は精神的な観点から見る成長とそれにより利己的思考とは異なるのだろうか?
わかりやすく言うと、以前は望んでいたが、それとは違うものを本当は欲しがっていたことが成長によって確立されていくのかもしれない。ということ

確立というか発見というか明確化というか。そんな感じ。

その理論で行くと、若いうちはなんか許されるという少々嫌いだった言葉にもいくらかの説明ができそうである。

利己的な行動による現象は謙虚による対処ではなく、より明確な利己性によって操作ができそうである。とか考えている。

結論

客観的に見たらあきらめているようでも、論理的には成長の過程の一つかもしれない。

そんなこともあるということかも。

突然話は変わるのですが、年老いたら涙もろくなるっていう通説がある前提で、人は意外なことがあると感情が動き、なんか泣くと思うのだけれど、長く生きていると現実をそれぞれなりに学習していって認識が固まるから些細なことでも意外に感じて、なんか泣くんだろうと思いました。

なぜここでこれを書いたかは、自分でもわかりません。

今聴いてる曲

ふと、楽しいと感じまして。

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