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京都から長野へ≒平安から縄文へ #引越しのご連絡

"引越し"は搬入搬出だけではないし、荷造りや荷解きだけでもない。電気や水道やガスやネットの手続きだけでも、転出/転入、住所変更もろもろの届け出だけでもない。

引越しとは、これまで大切にしてきた"何か"から手を引いて、越えていこうとする、生まれ直しの儀式なのだろう。


ということで2021年春。僕は「京都から長野へ」「大学教員から編集長へ」「"勉強家"から"○○"へ」という、3つの大きな生まれ直し、大きなトランジションを経験している。

それはきっと、ここ数年漠然とあった「ここではないのかもしれない」という浮遊感の終焉。(留学したことはないのだけど)準備のための長い"留学"が終わったような、準備ではなくて本番がいよいよはじまるのだな、という確かな感覚。

仕事も、住む場所も、家族のあり方も、あらゆる大きなターニングポイントが同時に訪れた春。山羊座祭りの集大成。


京都から長野へ

3つの変化のうち、もっともフィジカルな変化は、京都から、軽井沢がある長野県北佐久郡への引っ越し。

京都は"勉強家"にとって最高の街で、本当は京都精華大学の任期終了後も京都でずっと暮らそうと思っていましたが、コロナのもろもろでゼロから考え直すことに。

そこから一念発起して、ドキドキしながら風越学園を受験。「どんな子どもか」「どんな風越学園にしたいか/したくないか」というシンプルな問いに家族3人で向き合い、10回以上は書き直して提出してみたところ晴れて合格。

これからの教育のあり方、ひいては数十年後の社会のあり方を問う新たな試みに、まずは親として関われることになりました。


以下、引っ越しについて余談。


北国・秋田に生まれ、20代を西荻窪→三軒茶屋→恵比寿→白金→狛江→千駄ヶ谷→代々木八幡→港南台(横浜市)と関東・東京のそれっぽいところですごし、娘が生まれてからは南国・鹿児島で2年、京都精華大学着任を機に関西・京都で6年。からの、初の海なし県・長野。

東京→鹿児島は東日本大震災もきっかけのひとつで自分たちで決めたけど、鹿児島→京都はお仕事のご依頼で。今回の京都→長野のきっかけは完全にコロナ。こう振り返ると、大きな変化は世の中全体がゼロベースに立ち返る大きな出来事か、完全に想定外の導きを契機に訪れることがわかる。

そこで大切になるのは、「何に呼ばれているのか」、その声に耳を傾けること。


鹿児島では、目の前で噴煙を上げる桜島と源泉かけ流しの温泉、ときどき屋久島という圧倒的な"大地の力"に癒やされる日々。

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ほぼ毎日通ったコーヒー・イノベイト、特別な日のレストラン・ミディソレイユ、ロロディナポリのピザ、黒・紋の黒まぐろ丼、朝6時からのみょうばん温泉、城山観光ホテルの朝食ビュッフェ、足を伸ばせば江口蓬莱館、指宿、霧島神宮。


関西では、嵯峨・大覚寺の近くに居を構え、「いまの僕と同じ、アラフォーの頃の空海が、1200年前に通った道を歩いているのだなあ」と毎日にやにやする、時空を超えた空海ストーカーな日々。

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友の会会員にになって足繁く東寺の立体曼荼羅に通い、誕生日プレゼントは丹生都比売神社〜高野山・奥の院への一人旅。

京都市内では空海ゆかりの神護寺、鴨川源流の志明院、源泉かけ流しの仁左衛門の湯、ほぁんほぁんの極ちゃんぽん、しげちゃん食堂のまぐろ料理、麺屋 聖〜kiyo〜の醤油ラーメン。

あとは、「しらんけど」じゃないけれど、関西では"笑い"がとても身近にあって、僕のファシリテーターのあり方も、どんどん喜劇俳優よりになっていったと思う。金属バットの漫才をみるために、マンゲキ(おおさか漫才劇場)に通ったこともあった。


関西は本当に悠久の自然とそこから立ち上がる文化にみちみちていて、呼ばれるように足を伸ばせば、天川の弁財天とみたらい渓谷。

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西宮の越木岩神社や、空海と縁深い真井御前が開いたとされる神呪寺(ランチの定番は天がゆ)。

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丹後の天橋立と真名井御前のルーツである真名井神社、比沼麻奈為神社(冨田屋、喫茶サイホンのモーニング、小銭の鰯すし)。

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こんな感じで"兼松家の旅"といえば、たいてい温泉付きのスピリチュアル・ジャーニーなのだけど、関西を中心に、平安時代の弘法大師・空海(と真名井御前)の物語に呼ばれたはずの旅は、いつしか縄文時代のトヨケ、ワカヒメ、アチヒコ(オモイカネ)の物語が重なっていく。


平安から縄文へ

以下、さらに余談。

僕の名字は兼松なので、日本最古のソーシャルデザインの事例でもある「天岩戸神話」の登場人物のなかでは、思兼神(おもいかねのかみ)(『古事記』では思金神)に妙に惹かれ続けていた。

弟のスサノオの乱暴に腹を立てたアマテラスが岩戸に隠れて、世界が闇に包まれたとき、そこから強引に引っ張り出すのではなく、笑いにみちみちたパーティーを企画して、「なにそれ、たのしそう」とアマテラスが自ら顔を出したという天岩戸神話。

そのオーガナイザーこそオモイカネであり、人々のルーチンを整える暦を生み出したとされ、今でも知恵の神様として慕われている。つまり、勉強家にとっての神様にして、知り得た知恵を社会にいかすという意味で最大のロールモデル。ちなみに『天気の子』に出てきた気象神社の主祭神でもある。


そんなオモイカネは、ある説(ホツマツタヱ)によれば本名をアチヒコといい、長野県の阿智村に縁がある、という。

京都から軽井沢へのドライブは6時間くらいかかるので、そのちょうど真中くらいにあたる阿智(昼神温泉)あたりで休憩するのがルーチンなのだけど、そのときは必ず阿智神社にお参りするようにしていた。北側にイワクラがあり、そこにはオモイカネが眠っているという。

そこは僕にとって、鳥肌がやまないもうひとつの奥の院。

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ちなみにアチヒコの妻とされるワカヒメは、和歌の神様で、高野山もある和歌山(紀伊/キシヰ)にルーツがあり、今なお越木岩神社に祀られているけれど、アチヒコに一目惚れして、呪力の強い"回文"のラブレターを贈ったとされる。

キシヰこそ 妻をみぎわに 琴の音の 床に我君(わぎみ)を 待つぞ恋しき


そして、アチヒコに知恵を授けた師匠が、いまでいう東北にルーツを持つトヨケとされ、そのトヨケを祀るのが元伊勢・籠神社であり、真名井神社がその奥宮にあたる。

このトヨケ、ワカヒメ、アチヒコといった神々の時代が縄文時代であるならば、空海の足跡にもどこか縄文とつながる手がかりがあるのかもしれない。

そして阿智、戸隠、諏訪などなど長野のいたるところにも、その余韻がある。浅間山の麓には数々の縄文遺跡。自転車で行ける距離には、浅間縄文ミュージアム。


ということで、もっともフィジカルな変化だった京都から長野への引っ越しは、平安仏教からさらにさかのぼって、縄文のオシエにアクセスしようとする視座の深まりであり、ある意味、もっともスピリチュアルな変化だったのかもしれない、という話でした(諸説ありなので話半分で)。

うん、今年はいろんなところに、改めて挨拶をしにいこう◎

はじめまして、勉強家の兼松佳宏です。現在は京都精華大学人文学部で特任講師をしながら、"ワークショップができる哲学者"を目指して、「beの肩書き」や「スタディホール」といった手法を開発しています。今後ともどうぞ、よろしくおねがいいたします◎