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日本の腐敗した民主主義~モンテスキューの政治哲学~

序論


 皆さんは,モンテスキューと聞けば,何を連想するでしょうか?多分,「『法の精神』の著者であり,三権分立を唱えた人」と想われるでしょう。確かに,彼は三権分立を唱えました。つまり,権力は腐敗し易く,その結果として,自由を抑圧する傾向がある。故に,国家権力を分割し(立法権・執行権・司法権),権力が権力を抑止する制度を作り,自由を確保しなければならない。
 しかし,三権分立は彼の思想のほんの一部でありまして,モンテスキューの政治思想の本質ではありません。では,「法の精神」の本質とは何でしょうか?
 モンテスキューは,日記の中でこう述べています。「法の精神」とは,一種の啓示である,と。彼は,バラバラで無秩序に見えた様々な事実が,一つの明晰な秩序にまとまる中心原理を直観したのです。ニュートンは,物質の運動法則を発見したという意味で,自然科学の創始者です。一方でモンテスキューは,社会の基本法則を発見したという意味で,社会科学の創始者と言えるかもしれません。
 今回は,政治的天才であるシャルル・ド・モンテスキュー(1689~1755)の思想について考察します。

シャルル・ド・モンテスキュー

モンテスキューの政体論


三種類の政治制度


 国家の政治体制は三種類あります。共和政体と君主政体と専制政体です。
 共和政体とは,人民が権力を持つ政治体制です。一部の人民が政治を動かすのなら,それは貴族政です。すべての人民が政治を動かすのなら,それは民主政です。いずれにせよ,共和政の本質とは,人民の政治的参与といえるでしょう。
 君主政体とは,ただ一人の君主が法律に基づいて統治する政治体制です。ここで注意すべきは,君主政体と王政は別の概念ということです。王政は,必ずしも法律に縛られません。王は絶対的な権力を持っている。しかし君主政は,あくまでも法律に則って統治しなければなりません。
 専制政体とは,ただ一人の者が彼の意思と気紛れによって支配する政治体制です。誰も,何ものも,唯一者の決断を止めることはできません。法律は意味がなく,政治顧問もなきに等しく,唯一者以外はすべて彼の道具に過ぎません。
 国家がどの政体を選ぶかにより,人民に必要とされる資質が異なります。共和政体に必要なのは,人民の徳です。君主政体に必要なのは,人民の名誉心です。専制政体に必要なのは,人民の恐怖心です。
 いずれの政治体制を選ぶにせよ,国家は政体の原理原則に則って統治しなければなりません。原理原則から外れる時,国家はその土台から瓦解するのです。

「個人や国家が衰亡するのは,その固有の内部構造の命ずるところに背く時である」

政治制度の特徴


「政体は,それぞれ自分の本性と自分の原理を持っている」

 国家は,どの政治体制を採用すればよいのでしょうか?それは,国土の大きさによります。比較的小さな領土であれば,共和政も可能でありましょう。しかし,規模が大きくなった場合,大勢の人間が政治に参与すれば,国家は機能不全に陥ります。国家的危機に対処できなくなる。故に,中規模の領土においては,君主政が最適でありましょう。では,大領土を有する国家はどうすればよいでしょうか?外敵から国民を守るためには,速やかに決断・実行しなければなりません。そのため,人民や法律による抑制を排除した専制政体が有用です。もし皆さんが古代ローマ史を学ばれれば,「領土の大小」と「最適な政体」の連動性を実感されるはずです。
 ところで,大領土を持つ国家は,共和政を採用できないのでしょうか?一つだけ方法があります。連邦制です。アメリカ合衆国のように,それぞれの州が国家として自立しつつ,外敵に対しては一致団結するのです。
 次に,教育制度について考えてみましょう。それぞれの政体において,人民にどんな教育を施せばよいのでしょうか?専制政体においては,人民に恐怖を植えつけなければなりません。そのため,教育は威嚇と懲罰によって行われ,人民を無知の状態に留める必要があります。君主政体においては,人民に名誉という情念を焼き付けなければなりません。そのため,強烈なプライドを育むものでなければならないでしょう。共和政体においては,人民の徳性を養わねばなりません。この場合の徳とは,自己犠牲の精神であり,祖国への愛です。つまり,民主政や貴族政が成立するには,自己の幸福よりも祖国の栄光を求める人民が必要なのです。では,どうすれば子どもに「祖国への愛」を教えることができるでしょうか?それは,父親自身が愛国心を持つことです。子は親の背中を見て育ちます。親が愛国者であれば,子は愛国者になるはずです。

モンテスキューの政治哲学


相対主義


「最も完全な政体とは,人々をその性向・性癖に最も適するように導く政体である」

 モンテスキューの思想には,二つの大きな特徴があります。第一に,相対主義です。ありとあらゆる人間に,どこにおいても妥当するような価値など一つとしてあり得ず,あらゆる国の社会問題に妥当する解決策など一つとしてあり得ないという信念です。この相対主義の信念には,モンテスキューの類まれな能力が関係していました。それは,すぐれた想像力に富む洞察です。彼の卓抜した想像力は,著書「ペルシャ人の手紙」においていかんなく発揮されています。この書は「ペルシャ人から見たヨーロッパ人の特殊性」を記述したものですが,これほど自分の文化を相対化できる能力に讃嘆せざるを得ません。
 ここで,勘違いしてはならないことがあります。モンテスキューは,現代人のいう「多様性」を尊重したのではありません。結果的にはそうであっても,彼の本心は別のところにありました。それは,「人間の能力の限界」です。人間は間違い易い存在です。どんなに慈愛に満ちた人であっても,その愛によって,他者の自由を侵害する可能性があります(いわゆる大きなお世話です)。最小限度の個人的自由を守るためには,権力や思想のみならず徳性さえも限界を設けなければならない。これが,モンテスキュー的自由の精神でした。
 古今東西,あらゆる歴史的事実を研究した結果,モンテスキューは一つの結論に辿り着いたのです。悪の始まりとは,個別的相違を感じ取る能力の代わりに,一般原則を用いることである,と。つまり,風土や気候によって慣習が変わり,慣習によって人間の性格が変わり,人間の性格によって宗教の違いが生まれ,宗教の違いによって適する政治制度が異なります。どこかの民族が,他の民族に対し,一方的に自分たちの政治体制を押しつけることはできません。いや,あってはならないのです。欧米と全く風土・気候が異なる中東に民主政治を押しつけた結果として,イラクは大混乱に陥ったではありませんか(湾岸戦争)。大領土を有するロシアに欧米型の民主主義を押しつけた結果として,ロシアは機能不全に陥ったではありませんか(この惨禍の中から,米国打倒を掲げてプーチンが台頭した)。

「最も自然にかなった統治とは,その独自の性向が統治確立の目的たる人民の性向によりよく適合している統治であると言った方がよい。・・・それらの法律は,その作られた目的たる人民に固有のものであるべきで,一国民の法律が他国民にも適合しうるというようなことは全くの偶然であるほどでなければならない」

個別主義


 第二の特徴は,個別主義です。大著「法の精神」を読まれた方は,こう思うはずです。「抽象的かつ体系的な理論に欠け,歴史的事実を列挙するだけで,何だか退屈な書物だな」と。それもそのはず,モンテスキューにとって,抽象的理論や法則の類は,全く価値のない代物だったからです。彼にとって唯一の現実は,個々の具体的な事実でした。抽象的理念を好んだヘーゲルと違い,モンテスキューは個別的な事実の中に真実を読み取ろうとしました。故にモンテスキューは,人間一般という概念を嫌いました。以下はド・メストルの言葉ですが,モンテスキューの考え方を鮮やかに表現しています。

「私は,フランス人やイタリア人やロシア人には会ったことがある。・・・だが,人間はどうかというと,断言してもいいが,そんなものには今までにお目にかかったことがない」

モンテスキューの転生


古代ローマの政治哲学者


 モンテスキューの前世は,古代ローマの歴史家ポリュビオスです。ローマの歴史を深く研究して政体循環論を唱えた人で,相対主義と個別主義の立場から歴史を著述しました。


ポリュビオス



モンテスキューも生前,自分の前世に気づいていたのでしょうか。著作や日記には,「自分を理解してくれる人はポリュビオスだけである」というような発言を繰り返しています。

日本社会への警告


 私が「法の精神」を読んで最も感銘を受けた箇所は,堕落した民主政治を扱った部分です。モンテスキューの指摘があまりにも現代日本に合致し,あたかも日本社会を警告しているような気がしたからです。少し長くなりますが,以下に何箇所か引用しますので,現代日本を想定しながら読んでみて下さい。

「一緒にいる人間が多くなればなるほど,人間はますます虚栄的になり,つまらぬことで自分を目立たせようという欲望が生じてくるのを感ずる。人数が非常に多くなって,大部分の人が互いに見知らぬほどになると,自分を目立たせたいとする欲望は倍加する。成功する見込みが一層大きくなるからである。奢侈が見込みを与える。各人は自分よりも上位の身分の特徴を身につける。しかし,自分を目立たせようとする結果,すべてが平等となり,もはや誰も目立たなくなる。すべての人が注目してもらいたいと望むので,誰も気にされなくなる

民主政の原理は,人が平等の精神を失うのみならず,極端な平等の精神を持ち,各人が自分に命令する者として選んだ人たちと平等でありたいと欲する時に腐敗する。その場合には,人民は自らが委託した権力にすら我慢ができず,すべてを自分で行ない,元老院(政治家)に代わって審議し,役職者(官僚)に代わって執行し,すべての裁判役(裁判官)にとって代わろうと欲する。共和国においては徳がもはや存在しえなくなる。人民が役職者の職務を行なうことを欲する。だから,人は役職者をもはや尊敬しない。元老院の審議はもはや重きをなさない。だから,人はもはや元老院議員に対して敬意を持たず,従って,老人に対して敬意を持たない。老人を尊敬しないとなると,人は父親をも尊敬しなくなるであろう。夫も敬服に価せず,主人も服従に価しないであろう。すべての人がこうした放逸を愛するに至り,命令の苦痛は,服従の苦痛と同様に重荷になるであろう」

「人民がこのような不幸に陥るのは,人民がその身を託した者たち(政治家)が自分たち自身の腐敗を隠そうとして,人民を腐敗させようと努める時である。人民が彼らの野心を見抜かないように,彼らは人民に人民の偉大さについてしか語らない。人民が彼らの貪欲に気がつかないように,彼らは絶えず人民の貪欲におもねる。・・・人民は一人の暴君の持つあらゆる悪徳を身につけた小暴君たちとなる。やがて自由の残りの部分も我慢のできないものになる。唯一人の暴君が台頭する。そして,人民はすべてを失う。その腐敗によって得た利益までも。それゆえ,民主政には避けるべき両極端がある。民主政を貴族政または一人統治へと導く不平等の精神,そして,民主政を一人による専制政治へと導く極端な平等の精神である。というのは,一人による専制政治は遂に征服となるから」

 民主政体は,すべての人民による統治です。ですから,人民の徳がなければ,どんなに政治制度が整っていても,どんなに教育が普及していても,政治は健全に機能しません。そして,民主政体に必要不可欠な徳とは,モンテスキューも再三指摘しているように,愛国心です。祖国への愛が,腐敗した政治を変革する力となり,敵国から同胞を守護する厳格な正義(戦争を辞さない覚悟)となり,子どもたちを人として正しく導く良心となるのです。愛国心なき日本社会,愛国を恥じる日本人。この民族の価値観は,いつかきっと,大きな災いとなって具現化するでありましょう。

「祖国への愛は,すべてを矯正する」
 

以下は参考書籍です。
政治学に興味のある方はどうぞ。

① ジョン・ロック


② ジャン・ジャック・ルソー


③ トマス・ホッブス


④ カール・シュミット


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