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バイクに命を救われた男

こんにちは、数kmです。

2024年3月15日より、ツーリングクラブ"KM"を発足いたしました。

その前日である3月14日にクラブの案内動画をYouTubeで公開したのですが、その内容に賛否両論ありました。

https://www.youtube.com/watch?v=DoI_n9UfJ1c

そこで、今回はこのツーリングクラブを発足する本当の理由や、発足に至った背景などをお伝えしたいと思います。
本当は動画に組み込むべきだったのですが、このような後出しじゃんけん的な感じになってしまいました。
猛省しております。

ツーリングクラブ"KM"の目的は

①「みなさんを外に出すこと」
②「味方してくれる仲間をつくること」

これだけだと意味分かりませんよね。

というわけで、この2つの目的についてお話します。

しかし、この目的に至った背景をお話するには、僕自身のことについてお話する必要があります。

少々長くなりますので、時間に余裕がある方はそのままお読みくださいね。

本題に入る前に、ご覧になってるみなさんには1つ頭に入れておいてほしいことがあります。
それは
「バイクで人を救うことができる」
ということです。

僕は本気で自殺を考えていた時期がありました。

20歳で社会人となった僕は、東京のとある建築会社に入社しました。
特にコレといった理由もなく選んだ会社です。
その会社で建設現場の現場監督として職務を果たすことになりました。

元来、僕は一人で何かをするタイプです。
自分で何かを考え、自分で何かを成し遂げる。
ある程度のことは自分でできてしまうけど、突き抜けることができない「器用貧乏」な性格です。

しかし、対人関係は不器用そのものでした。
口下手でコミュニケーションは苦手ですし、
他人に頼み事や相談するのはもっと苦手。
集団行動はできないことはないですが、非常に疲れます。

「現場監督」という仕事は、僕が苦手するものばかり求められていました。

例えばオフィスビルを新築する場合、
施主(お客さん)からの依頼を設計事務所や建築会社(入社した会社)が受け、下請け業者に施工を依頼します。
現場監督は、現場が予算内に施工できているか、設計図通りに施工できるか、工期通りになっているかを「監督」します。

下請け業者は多岐にわたります。
電気工事なら○○会社、水道工事なら○○会社、内装なら…
といった具合です。

つまり関わる人間がケタ違いに多いんですよ。
小さい現場でも1日に10人前後、大きい現場だと1日に100人以上が一斉に動きます。
そんな大人数をまとめるのも現場監督の仕事です。
ということは、仕事のやり取りする上で、コミュニケーションはかなり重要なんですね。
20歳そこそこの僕は、上司からの伝言係をよく頼まれていました。
伝えたいことが相手に変に伝わってしまい、怒られることはしょっちゅうありました。
しかも「若い」という理由だけで無理難題を押し付けられたり、理不尽に怒られる損な役割が回ってきたり、
僕にとってはかなり苦痛な日々を過ごしていました。

入社1年目から無理を強いられていたので、
「もう会社辞めようかな」
と頭の片隅で考えていました。

同時期くらいにバイクを買いました。
CB400SFです。
学生時代から原付は乗っていましたし、
「お金できたら400ccのネイキッドのりてぇ~」
と思っていました。
休みの日はバイク屋をめぐるのが楽しみになり、バイクを買ってからはとにかく走るのが楽しみになりました。
仕事で辛いことがあれば、昼でも夜でも文字通りバイクに飛び乗り、目的地も特に決めずに走り回っていました。

バイクの上では自分だけの世界に浸れます。
他人と顔を合わせるのが辛い時、バイクは強制的に一人になれます。
運転してたら心を無にできるんですよね。
嫌な感情、辛い感情が薄らいでいくのと同時に、自分自身のことも考えだしました。
「このままでいいんだろうか?」
から始まり、
「自分には何が向いているんだろう」
「自分は何が好きなんだろう」
「自分は何がしたいんだろう」
色んなことを考え、自分と向き合いながらバイクを運転していました。
そうやって、心の健康を維持していました。

気が付けば2年が経ち、3年目に入った春のことです。
事態は最悪の方向へ向かいます。
器用貧乏な僕は、苦手な仕事を苦手なりにこなしてしまっていたがために、
会社からある程度の評価がされていました。

その「ある程度の評価」をされてしまったがために、一人で現場を任されることになりました。
しかも、今までやったことがない新しいタイプの現場でした。

「会社を辞めよう」と考えながらズルズルと仕事をしていたので、
辞めるに辞めれない状況になってしまいました。

この現場は、僕の人生の中で一番精神的にキツイものとなりました。

「自分で考えて自分でなんとかする、他人に頼らない性格」が悪い方向へ働きました。
今までやったことがない仕事を、自分なりに考えてやっていましたが、ことごとく失敗していました。

施主に対して、徹夜して作った見積書や計画書は何度もやり直しを食らい、
施主を交えた会議では、報告が変に伝わってしまい、参加者が軽く混乱することもありました。
なので、施主からの反感を買うことが多かったです。
僕の目の前で本社にクレームを入れるなんてこともありました。

下請け業者たちに対してはもっとひどかった。
予算的に無理をしてもらったのもありますが、言うことを聞かない人が多かったです。
図面通りに施工されてないのを指摘すると逆ギレされたりしました。
僕の段取りミスで一日中待機してもらうこともありました。
コミュニケーションもうまくいかず、こちらも反感を買う一方でした。
胸ぐらをつかまれて「お前を殺すのは簡単だからな」と言われたり、
急に人が来なくなることもありました。

他人に頼らない僕でしたが、数週間経つとさすがに会社に助けを求めました。
相談や頼み事が苦手な僕は、勇気を振り絞って上司に相談しましたが、
上司からの返事は
「成長のためにもっとがんばれ」
という非常に冷たいものしか返ってきませんでしたし、逆に「しっかりしろ」と怒られました。

朝8時から終電まで仕事をし、家に帰る。
休みなんて一切なく、忙しい時期になると一週間のうち半分は事務所で寝泊まり。
48時間くらい連続で働いたこともあります。

自分のミスや下請け業者のミスで施主や上司から問い詰められ、怒られつづける毎日。
なかなか言うことを聞いてくれない下請け業者たち。
そして助けを求めても断られる。

上司に助けを求めてもダメだ…
会社の同僚や地元の友達、親に助けを求めることにしました。
藁にも縋る思いで、持てるだけの勇気を持って、自分の心の内を喋ったのですが、
同僚からは「そうは言っても、見た目は元気そうだけど」と言われ、
友達からは「そんなことあるわけないだろ」と一蹴され、
親からは「いつまで他人に迷惑かけてるんだ」と言われました。
他人の目には、イヤなことから逃げる弱虫に見えたのかもしれません。

もうダメだ…
自分には味方がいない…
東京という何百万人もいる大都会なのに、大人数で共に仕事をしているのに、僕は孤独でした。

そんな日々を数か月も続けていると、メンタルが壊れていくのがはっきりと分かりました。
何を言われてもネガティブにしか捉えられなくなり、
いくら罵声を浴びせられても、どこか他人事のように感じて、上の空になっていました。
段々と電話が怖くなり、一切出られなくなってしまいました。
そして常に「死にたい」と考えていました。
電車に乗るときはホームの線路側ギリギリを歩き、「誰か突き飛ばしてくれないかな」と思い、
夜寝るときは「このまま心臓が止まらないかな」と考えて布団に入ってました。

メンタルだけではなく、体にも症状はでてきます。
手足のしびれは止まらないし、イヤな汗はずっと流れ、頭を締め付けるような頭痛はずっと続きました。
ずっと微熱でしたし、食欲も一切ありませんでした。
常に地震が起きてるかのように、まっすぐ歩けなくなりました。

さすがに危機感をもった僕は、少ない休みの日を使って病院をめぐりましたが、
どこに行っても「自律神経失調症」と診断されました。

自律神経失調症と診断されましたが、当時の僕はもしかしたら「うつ病」だったのかもしれません。
「もしかしたら」と書いたのは、心療内科には行かなかったから。
当時の僕には謎の意地があり、心療内科には行きませんでした。

もちろん、こんな状態でろくに仕事なんてできるわけがありません。
休みなんて一切なく、家に帰れるかどうかわからないほど仕事をする。
もちろん、好きなバイクなんて何か月も乗ってません。
でも、僕は出勤していました。負う必要のない義務感が感情を殺し、機械のように仕事をしていました。

そしてある日、ついに限界がきました。

朝起きると、まったく体が動かないんです。
目は覚めてるけど、ベッドから一歩も踏み出せない。
その瞬間、「あぁ、自分はもうダメなんだな」と感じました。
仕事には行けず、ただただ天井を眺めていました。

仕事場に僕の姿が見えないので、いろんな人からの着信がありました。
この時ほど、着信音や着信の画面に恐怖を抱いたことがありませんでした。
電話に出たら何を言われるか分からない…。
でも体は動かない…。
結局、電話には出れませんでした。

その次の日もベッドから一歩も踏み出せませんでした。
トイレと最低限のご飯を食べる以外はずっと布団に入り、天井を見ていました。
時計の針が動く音しか聞こえない部屋。
ケータイの電源は昨日から切りっぱなし。
今までの辛い出来事、仕事のこと、自分の未来のこと、自分自身のこと。
いろんな考えや思い、感情が頭の中をめぐります。
しかし、希望を見出そうと思案しても、結局はネガティブな側面しか見ることができず、考えれば考えるほどに辛くなっていき、自然と涙が流れるようになりました。

自分には生きる意味なんてあるのか…?
ここまで辛い思いをしたんだから、最期は楽になりたい…
気づいたら死ぬ方法について、ひたすら検索していました。
そうして、「いかに楽に死ねるか」を考えるようになってしまいました。

さらにその次の日は、自宅に上司がきました。
上司は僕に叱責することはありませんでした。
僕の顔を見て、驚きと安堵が入り混じったような複雑な表情をしていました。
「気持ちが落ち着いたら会社に来てほしい。それまでは有給休暇にしておくから」
とだけ告げ帰っていきました。
僕の顔は相当ひどかったのだと思います。
自宅にこもり、死ぬことだけを考え続けたわけですから。

あくる日、食料が尽きてしまったので買い物へ。
数日ぶりの外は、太陽光が沁みて痛いくらいでした。
家から出て、何気なく駐輪場に止まっている自分のCB400SFを見ました。
何か月も乗っていなかったのでホコリまみれになり「放置バイク感」が出ていました。

「久しぶりに乗るか」

数か月ぶりにムチを入れることにしたCB400SFは、何事もなかったかのように普通にエンジンがかかり、何事もなかったかのように普通に走りだしました。

特に行き先は考えてなかったので、近所を一周。
運転しているときでも様々な思考や感情が頭の中をめぐりにめぐりました。
しかし不思議な事に、イヤな出来事や叱責してきた人の顔を思い出しても、ネガティブにとらわれずに少しずつ感情が薄れていくのに気づきました。
同時に、頭の中では自分に何ができるのか、自分にとって何が一番大事なのかを考えるようになりました。

バイクに乗って運転している間は、自分の内面に向き合うことができたのです。
ヘルメットで外界をシャットアウトし、自分自身に集中する時間や空間を作り出せるのに気づいたのです。

バイクの上で自分と向き合っていると、自然と涙が出てきました。
ヘルメットの中で声にならない泣き声をあげながら、目的などなくただただバイクを走らせていたのを覚えています。
気づけば近所を一周どころか何周もしていた僕は、食料を適当に買い自宅へ帰りました。

夜になると、やはりネガティブな出来事や感情がフラッシュバックし、僕を苦しめました。
頭の中がイヤなことでいっぱいになってるなと感じたら、朝早くだろうが夜遅くだろうがバイクに飛び乗って走り回っていました。
時には湘南の海沿いを走り、時には富士山を目指して走る。
目的地はどこでもよくて、ただただ走るのを目的にしていました。
そうして、どうにもならないイヤな過去に蓋をして、自分に向き合い前を向く時間をバイクに求めるようになりました。

1か月近くこれを繰り返し、少しずつ前を向けるようになってきた僕は、重い足で会社に出向き、上司に退職を告げました。

僕が23歳の時のことでした。

東京から徳島の実家に帰りましたが、実家にCB400SFを置けるスペースはなく、引っ越しと共に売却しました。
僕を死の淵から手を差し伸べてくれた恩人のような存在でした。
実家に置き場所があれば、今でも乗っていたかもしれません。

しばらくは職につかず、実家で過ごしていました。
幸いにも、親は僕が苦しく思い悩んでいたことに理解してくれました。
自分の部屋に籠って天井や壁を眺めていたら、ネガティブな出来事や感情がフラッシュバックすることもありました。
ただ東京に住んでた時と違うのは、「外に出たらなんとかなるのでは?」という考えを持てるようになりました。
3時間近く散歩したり、丸まる一日車を走らせたりしていましたが、バイクの方がより「自分自身と向き合える」ことに気づきました。
父がCB1300SBに乗っており、たまに借りて乗っていましたが、「自分のバイク」ではないので借りるのに抵抗がありました。

そこで、実家の車庫に無理やり原付を置けるスペースを作り、不動車のAPE50を買って自分で直しながら乗ることにしました。

APE50を選んだ理由は特にないです。
原付のMT車を探して、予算内に収まっていただけでした。

自分でエンジンやキャブをフルOHし、走れる状態まで復活させ、近所を走り回りました。

APE50に乗っていると、東京時代にCB400SFで走り回っていた時に感じた「自分自身と向き合う感覚」が蘇ってきました。
バイクの排気量はもちろん、サイズや重量はまったく違う2台ですが、乗って得られる感覚は一緒だったのです。
そうして、APE50に乗りながらひたすら自分と向き合いました。
自分は一体何が好きなのか、何に喜びを感じているのか、何がしたいのか。

そして自分とは一体何なのか。

気が付けば、東京から帰ってきて半年が過ぎていました。
僕は、地元のとある企業に就職しました。
半年間、僕は自分に向き合い続け、ようやく前に向いて進みだすことができたのです。
地獄の底から這いあがれたのは、僕のそばにバイクがあったからでした。

そして、イヤなことが起きようとも、逃げ出したくなるような出来事があっても、バイクによって救われるようになりました。

バイクに乗ってるみなさんは、バイクに乗り続ける理由はあると思います。

"バイクが好きだから。"
"乗っていて楽しいから。"
"キレイな景色を見に行きたいから。"

バイクに乗るには十分すぎるほどの理由です。

僕がバイクに乗り続ける理由は、バイクに乗ってて楽しいのはもちろんですが、
一番の理由は
"自分と向き合える時間を作るため"
です。

僕は死にたくなるような辛い過去を通じて、
「外に出ることの大切さ」

「一人になる重要さ」
を知りました。

新型コロナのパンデミックによって、人と人が直接会う機会は劇的に減りました。
それと同時に「あいつは感染してるんじゃないか?」と疑う人たちが増え、
恐怖からくる攻撃が増えたように思えます。

コロナが落ち着いてきた昨今でも、攻撃的な人はまだまだいます。
SNSだけでなく、僕の身の回りでも結構います。

僕が20歳のころとは時代が違って、パワハラのようなハラスメントは少なくなってきていると思います。
それでも誹謗中傷は相次いでいます。
自分のちょっと発言でも「今日の味方が明日の敵」になることもあり得るのです。

一人ひとりの"心"が問われる時代になってきたと思います。

ですので、メンタルを整えるという目的で、自衛のためにもバイクに乗るっていう考えがあってもいいと思うんですよね。

また、「どんなことがあっても味方がいる」というのは心の支えにもなるんですよ。
身近に支えてくれる人がいるのは、とても幸せなことなんですよね。

僕が23歳のころに経験した辛い出来事。
みなさんには同じ経験をしてほしくないんですよ。

こういった背景があり、ツーリングクラブを設立するまでに至りました。
本来は動画で語った方がいいと思ったんですが、何より長いし暗い内容なので、動画にはしませんでした。
そもそも、全員メンタル病んでるわけではないですしね。

というわけでバイク乗りである僕が、同じバイク乗りであるみなさんのバイクライフ、いや人生を充実したものにさせるためのツーリングクラブ"KM"を設立しました。

①「メンタルの健康のために、みなさんを外に出すこと」
②「どんなことがあっても味方してくれる仲間をつくること」

この2つの目的のため、僕ができることはなんでもします。
外へ出かけたくなるイベントを計画しますし、
僕が今まで築き上げてきた、ツーリングスキルやバイクとの向き合い方をお教えします。

ご興味のある方は、入会してみてくださいね。

https://community.camp-fire.jp/projects/view/744107

数km

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