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秋の夜長と三浦大知『球体』独演

突然ですが、大切な人が目標に向かって懸命に進む姿って、その目標がなんであれ、応援し、見守っていきたいと思うものですよね。

でも本当に?
その目標が何であっても、応援し見守っていられるのか?

これは私が『球体』独演を初めて観たあと、考えたことをまとめたノートです。

※多分にネタバレと個人の偏った感想が含まれるノートですので、ご注意ください。


初見の感想を供養したい

『球体』独演は、三浦大知の同名アルバム『球体』の世界観を三浦大知自身による演出で舞台上に表現したもので、全曲を通してひとつの物語となっています。
しかしこの物語ははっきりとしたプロットが説明されておらず、観た人聴いた人それぞれがそれぞれにストーリーを解釈し、未だに多くの人にその内容について考察され続けています。

2022年の夏、YouTubeプレミア公開にて初めて『球体』独演を観て衝撃を受け、そのままその感想を書きとどめたノートがありました。

初めて視聴した時の気持ちを「供養」する意味も込めて、この機会に少し書き足し、公開しておきたいと思います。

また今年も『球体』独演がYouTubeプレミア公開されます。
初めてこの公演を観てから1年たち、この作品に対して感じ方や受け取り方が変わっていったところもあるので、いつかこのノートは加筆修正したいと思います。

(追記)別noteに書きました↓


私が思うあらすじ

この物語に唯一登場する人物を演じるのは三浦大知ただ一人。

その登場人物の名前は明かされていないので、私はその人物を「あの人」と呼んでいます。

私は初めてこの独演を観た時、「あの人」は、何度も自ら死を選び、人生をループし続けているんだと思いました。
愛する人を失い、その愛する人を取り戻すために人生をやり直す(=自死を選ぶ)その選択をし続けている様を見つめる、そんな物語だと受け取りました。

『球体』の一曲『誘蛾灯』の歌詞にあるように、遺伝子レベルで刻まれた愛する人への執着が、人生を繰り返す度に顔を覗かせ、結局命を手放してしまう結末を迎える。それを延々とループしていると思いました。

それ以外に解釈出来るなんて、思いもしなかった。

記憶開く 歪む場面
深く刻む 二重螺旋

三浦大知『誘蛾灯』より


その愛の歌を受け止めきれるか?

私は「あの人」のループに対して、ただただひたすらに悲しい、せつないとしか受け取れなくて。
物語中盤でこのループに気づいてからは、終始胸が引き裂かれそうでした。
何度も愛する人を失う「あの人」の人生は、端から見ると明らかに不幸なものに思いました。

しかし、この独演を観ていると、人生のループという選択肢を選ぶ「あの人」の中には、明らかに幸福が広がっていくように思えます。
世間一般でいう幸福を無理やり当て嵌めなくても、「あの人」は自分の中に残る確かな幸福を見つけ、また一歩、歩き出すようでした。

『テレパシー』という曲の中盤に、幸福への足掛かりを見出し、歩みだす、そんな情景を思い浮かべます。その曲には、確固たる意志が見え、その歩みは加速していくように思えます。

また、独演の終盤に披露される『世界』という曲は、とても柔らかで大きな愛の空気に包まれた曲です。

私は「あの人」の選択を認め、多幸感溢れる歌に満たされるべきなのかもしれない。

だけど出来ない。どうしても悲しい。
なぜなら、歩き出すその目的は「死」だから。
死そのものが「あの人」の希望であるという事実を前にして、どうしても悲しいとしか思えない。

この愛の歌に満ちる、「あの人」の愛が大きいほどに、その歌が素晴らしいほどに、私の中の悲しみが大きくなってしまいました。

幾つの時を超えて 僕らはこうして何度でも
巡り合える
その笑顔の ためならば
惜しむものなど 何ひとつもない

三浦大知『世界』より

そして、自分がこの歌を受け止めきれないこと自体も、悲しくて、涙が出ました。
希望の象徴として「あの人」の部屋には硝子壜がひとつ置かれているのだけど、それすら投げ割ってしまえばいいと思ってしまいます。
それほどに「あの人」の中に残る温かさは強烈で、残酷に思えました。

誰の悲しみに泣くのか

結局、私は自がの受け止められる範囲の狭さに泣いているのかもしれません。
もしかしたら、あのループの中に取り込まれているのは「あの人」ではなく、私なのかもしれない。
「あの人」の希望が死であると思い込んでしまっているのは私で、そのループから抜け出せないのは私です。
だからこそ救いを求めて、また独演を視聴するのかもしれません。

あれから『球体』アルバム初回盤を手に入れ、特典である独演の映像を、いつでも何度でも観られるようになりました。

また繰り返し、ループしようと思います。