”私”の考察

何をしても孤独を拭い去れない瞬間が、子供の時からあった。

ディズニーランドに行きたいけど、行っても満足できないだろうなぁという感覚。
今はどんな楽しいことをしても、すごいことをしても、
満足できないんじゃないかという虚無感。
上手く言葉で説明できないけれど、子供のときからそういう時期が定期的に訪れる。

大学2年生くらいの時、いわゆるその "病み期" からなかなか這い上がれない時期があり
その時に色々悩んだり考えたりして思い出した出来事があった。

幼稚園生のとき。
好きな男の子からもらった手紙に書いてある
自分の名前のところを画鋲で刺して
母親に怒られた。
あれは茶封筒で、幼稚園生の男の子なりに、
覚えたての字で、書かれたものだった。

母親には「大事な手紙なのになんでこんな事するの?」
と酷く怒られたけど
私は自分の事が嫌い故の行動だったので
逆にそう諭されてハッとした事を覚えている。
私はその子のことが好きだったけど
相手の男の子が私を”好き”ということが信じられなかった。
なんで私なんか好きになるの?
どうやら、私は幼稚園生の時から蛙化現象を起こしていたみたいだ。

私は自分の事が嫌いでした。
わたしはじぶんのことがきらいです。
なんだ、子供の頃からだったんだ。

つまり、私は自己肯定感が低いのだけれど
実際に誰に何をされたとかいうトラウマがある訳ではない。
まぁ小学3年生くらいから母子家庭だったけれど
親に激しく非難されて育ったわけでも無いし
暴力をふるわれていたわけでも無い。
(父親は物に当たってはいたけれど)

だから私は
この、誰に何をされたでも無いのに悶々としてしまう状況が訪れると
どうしたら良いのか分からず、ただ時が過ぎるのを待つだけで
怒りの矛先は自分しか見当たらず、自分に怒り、幻滅し、そして何も手につかなくなる。
それを繰り返す。負の連鎖。
こんな事言ったら本当に不謹慎だけれど
怒りの矛先が明らかな人間が羨ましい。

ただ、一つ言えることは
私は確実に、家族に、周囲の人に
気を遣いすぎて生きて来たということ。
それは「食べ終わった後の食器を片付けられる子」とかじゃなく
もっと感覚的で感情的なもので
小さい頃から我慢し、許すことが当たり前だと思っていたし
(当時はそうとも思わず自然にやっていたけど)
嫌いな人もいない、悪口も言わない
それが自分の長所だと思っていた。
自分に自分(または親?世間?)の理想を押し付けていたのだ。

***

実はミスiD2018の時は書類を送っていた。
その時はまだ本当に自分に自信が無くて
今思えばだいぶ散々なPR文だったと思う。
「誰かみたいになりたい。」
あの頃は、一生懸命自分以外の誰かになろうとして、
自分の ”個性” を見出そうとしていた。
そんなもの探しても見つからないし、作り出せる物でもないのに。

でも、ミスiD2018→2019エントリーの間で
それは間違っているということに気付き始める。
この一年で出会ったメンターになるような女性たちの影響だったり
絶対に私自身を尊重してくれる恋人ができたり。
そこで、「”自分” を大事にして良い」ということに気づいた。

怒りたいときに怒って
泣きたいときに泣いて
嫌なことがあったら逃げても良い。

喜びたいときには喜んで
嬉しい時は嬉しいと伝える。

嫌われないように努力しなくて良いし
出来ることを出来ないふりしなくても良い。

そうやって一年間かけてやっと出来てきた本当の私は
世間的にはどうしようもない人間かもしれない。
正直、父親のそういった部分の遺伝を感じて苦しくなることもある。
期待させた人間を裏切ってしまうことも。
そしてまた ”病み期” に向き合う羽目にもなる。

でも数年前の自分と違い、そんな自分も可愛がれるようになって来た。
自分のやりたくない事をやってしまった時に訪れるそれと
自分の好き勝手やって訪れてしまったそれとは大きく違う。
虚無感。
でも確実に自分に嘘をついていない故の虚無なら仕方がない。
私、人間味が出て来た。

多くの人たちは、子供から大人にかけて自分に嘘をつくことを覚えるけれど
私は年齢が上がるにつれてだんだんと、自分に素直になれるよう努力している。
子供の頃一生分の気を遣って来たんだから、この後の人生は自分の好きなように生きて良いじゃん。
ただ、”自分である” ということを、大切にするだけ。

いろいろ言ってくる大人には、心の中で「うるせー!!!」
って叫んでやる。
まだ直接言う勇気まではないけれど、
もう一生この感覚を失いたくはない。


#ミスiD2019



この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

7

明 澄

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。