雨音

日常は言葉で溢れている。

誰かとおしゃべりする時、スマートフォンの中、テレビをつければ常に誰かが喋っているし、ラジオの電波もたくさんの言葉を運んでくる。お気に入りのあの曲のあの歌詞、好きな本の一節、ドラマや映画のセリフ。

日常は煩いほどに、言葉で溢れかえっている。


2月や3月の疾走感から一転、4月はずっと家にいる。ずーっとだ。一人暮らしではないので、常に家には誰かがいて、日中は意味もなくテレビがついている。4月からのこの環境、正直、うんざりし始めている。テレビを消して、スマホを見るとさっき聞こえていた言葉たちがもっと鋭いナイフになって視覚からお邪魔してくる。こっちもうんざりだ。言葉で溢れかえっている世界、全てが良質な言葉であるとは限らない。

本を読む気も失せ、好きな曲は擦り切れるほど聴いたので少し寝かせたいころだし。そうだ、風呂に入ろう!


風呂場は幸い、言葉がとても少なかった。シャンプーの注意書きなんて背中を向ければないも同然であるし、石鹸に文字はない!シャワーの音だけでなんだかホッとした。

頭を洗っていると、外から雨音がした。ぽつぽつ。明日は大荒れと聞いていたが、気の早い雨はもう降り出したらしい。天気のいい日にずっと家にいると、何に対してかはわからないがほんの少し、罪悪感が生まれる。雨だと、外に出ないことが合法になったような気がするので、雨もなかかな悪くない。最近はそんなことを思い始めている。

言葉を浴びることのできない風呂場という場所で、言葉から解放されて機嫌よく考え事をする。じゃあ、私の思う良質な言葉ってなんだろう?

脚本家・坂元裕二が好きだ。坂元さんの言葉は間違いなく良質。言葉にできなかったものを言葉にして、みんなに見せてくれる。脚本家だと、古沢良太もいい。あのリーガルハイの言葉のテンポは堪らない。まさに言葉を浴びる感じ。日本のドラマが好きな理由の1つとして、日本語ならではの響きやリズムでのあそび、言葉が私のところへそのまま届くから、というのがある。テネシー・ウィリアムズのガラスの動物園を読んだ時に、翻訳というメガネを挟むことでこの物語を読めるようになったが、原文にある英語のリズムを楽しむことは難しかった。語学が堪能であれば、もし私が英語を母国語とする人間であれば。何においても本家を味わいたいのが人間でしょう。音楽だって本家を知ってこそのカバーであり、ご当地グルメもその土地で食べるのが楽しいし、梅酒もロックが美味しいし、言葉だってそのままが。

良質な言葉、といえば、星野源は最高だ。曲はもちろんだけど、エッセイの言葉選びも好きだし、何と言ってもラジオがいい。落語も好きだ。最近はサブスクリプションで配信されているものも多いので、思わず聴き入ってしまうことがよくある。落語家の腕でもあるのだろうが、情景が浮かぶ言葉・声色、ワクワクする。狂言も良質だった。敷居が高いと思っていたが、そんなことはない。言葉あそび。面白さと親しみやすさ、なかなかに粋だけど、粋で終わらないあそびでいっぱいだった。

あとは、好きな人たちと好きなことをしている時に浴びる言葉。友人とあそんでいるとき、家族と話をしているとき、仕事で駆け回っているとき。些細なことであり当たり前の毎日。日常はやはり言葉で溢れていた。


長風呂は向かず、のぼせやすい体質であるが故、そろそろ言葉で溢れる日常へ戻ろうと思い、風呂場を出た。

あれ、なんだ雨は降っていないじゃないか。さっきの雨音は何か他の音を勘違いしたものだったようだ。ふと、結局は自分の中を渦巻く言葉を浴びる時間になってしまったことに気づく。難しい。窓の外は、風呂に入る前と変わらぬ晴天だ。


良質な言葉をたくさん浴びたい!太陽光で植物が光合成するのと同じように。私の言葉で溢れかえった日常、早く戻ってきてくれ、と思いながら、今日もまた自宅警備員ごっこに徹する。


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