令和における宗教の存在意義について

神様だとか、いわゆる目に見えないものとの付き合い方について考えている。

ここ数年は、新興宗教はじめ悪質な霊感商法、カルト等に「非常に」利用されやすいこともあって、特に距離を置いていた。

結論から言えば、もしも目の前の現実的なものに、どうしても希望が見出せないとなった時に「よすが」になるのは、やはりいわゆる宗教的なものではないかということ。

それこそ、最近問題となっている「8050問題」を例にあげれば理解し易いと思う。

人生の早い段階で社会との繋がりは断ち切れ、今後は両親の健康も危うい。もはや「夢」「成功」「恋愛」「結婚」「子育て」「社会人としての普通の生活」「あったはずの普通の人生」それら多くが現実的に取り戻すのは非常に難しい。

そうしたケースの場合、ひきこもりから脱し、単純作業にせよ働き、何とか自分の生活分だけでも自立、となればもう95点、となるだろう。それでもやはりその辺りがほぼ最高得点でそれ以上となるとやはり難しい。

その場合、何に希望を見出したらいいのかと言う話なのである。

ちなみに

これは先のカルト始め悪意のあるものに宗教的なものが利用されやすいことと繋がるのだけど、宗教的なこと、いわゆる「天国」「地獄」等々、証明することは出来ない。証明することが出来ないゆえに完全否定も肯定も出来ない、というロジックがあると思う。

これは例えるなら、「2019年6月10日の巨人対中日は2-1で巨人が勝ちました」というのは圧倒的事実で、それは誰の目にも明らか。でも、これが「往年の名選手でドリームチームを作り、紅白戦。勝つのは白」というような話の場合、本当にそのチームを作り、実際に対戦でもさせない限り本当に白が勝つかは誰にもわからない。

裏を返せば、宗教とは良くも悪くも本人が本当に信じさえすれば、もはや地球上の誰にもその思いを覆すことは出来ないということでもある。

これは、更に例えるなら現実のアイドルならスキャンダルやいつか彼氏が出来たり結婚するかも知れない。しかし、性格、その他を含めたアイドルを己の心の中で「創造」したならそのアイドルは絶対に裏切らないということに似ると思う。

話を大筋に戻すと、いわゆる現実的なもの「だけ」に希望を見出そうというのは限界があるような気がする。それこそ極端な話、比較的罪のなさそうな嗜好の一つにペットがある。目に入れても痛くないほど可愛がったとする。しかし、ある日、どこかの頭のおかしな奴に殺される、ということは酷い話だけど現代日本なら全然あり得てしまう。これなんかも本来「快」であるはずのものが却って苦しみを呼ぶ一例だと思う。つまり、対象が現実カテゴリである限り常に、状況が変わる可能性からは免れることは出来ない。

となると、問題はどういった宗教、教えか。

なんだかんだ言っても教主が信者の女とセックスすること、金を稼ぐことしか考えてないような宗教は論外として。

そして、いわゆる「来世での幸せ」を旨として現世での幸福を捨て去るように見える宗教もどうなのだろうか。

「どの宗教を選ぶか」についてはそれだけでまた今度ひとつnoteが出来るだろう。

-了-