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『HUGっと!プリキュア』主人公・野乃はなに見る、「女性の成功」


【注意】のっけから『HUGっと!プリキュア』終盤のネタバレ満載です。終始色んなシリーズのネタバレを踏みます。できるだけ偏見無くまっさらな状態でプリキュアを楽しみたい方は、まずそちらを全部ご覧になってからお読みください。
【注意】長いです。


はい。では注意書きもしましたので、早速本文に移らせていただきます。







【はじめに】

 最近に始まったことではないが、エンタメ作品の「多様性」が称揚される世の中である。『プリキュア』シリーズも御多分に漏れず、アニメ関連以外のメディアでそのような方面で度々取り上げられ、評価されることも多い。
 女児向けシリーズという特性上限界はあるものの、メインキャラクターの外国ルーツにスポットを当てたり、史上初の男子キュアや成人女性キュアが登場するなどしながら、プリキュアなりの方法で毎年「多様性」と格闘している。

 2018年度に放映された『HUGっと!プリキュア』(以下『HUGプリ』)は、「仕事と育児」がテーマである。ジェンダー役割や性規範に踏み込んだ描写が、何度も話題になった(当時ファンでなかった筆者はリアルタイムの反応は分からないが)。『HUGプリ』は「多様性」をブランディングし、「女性の活躍」「エンパワーメント」を特にアピールしている作品に思える。
 そして最終話(第49話)のエピローグでは、クライアス社との戦いから十数年経ち、大人の女性となったプリキュアたちの「サクセスストーリー」が描かれる。

 主人公野乃ののはな/キュアエールはなんと、巨大ビルを構える「アカルイアス社」の社長となる。忙しくも充実した日々を送る彼女は、大きくなったお腹を突然押さえ、苦しみだす。陣痛が始まったのである。すぐさま彼女は病院に運ばれ、婚約者ーラスボスのジョージ・クライと思われるーの男性も慌てて駆け付ける。
 かつてプリキュアとして一緒に戦った旧友たちに囲まれながら、産まれたばかりの女の子をはなが抱き寄せたところで、物語は幕を閉じる。はなは職業人として、妻として、そして母親として「全てを手に入れた」女性なのだ。
 では社会的に「成功」を収めた彼女の中学生時代、つまりプリキュアだった頃は、いったいどのような人物だったのだろうか。

【主人公・野乃はなのキャラクター表象】

 13歳のはなは、勉強も運動も苦手。これといった特技もない。はっきり言って、将来成功する要素が何も見当たらない。極めて「プリキュアの主人公らしい」、いや、「プリキュアの主人公らしさをやや誇張した」キャラクターに思える。ドジを踏んでおどけたり、デフォルメの利いた変顔を見せたり、画面をドタバタと動き回って積極的にコメディリリーフ的役割を果たす。
 そして彼女の両サイドを囲むのが、元子役の肩書きを持つ薬師寺やくしじさあや/キュアアンジュとフィギュアスケーターの輝木かがやきほまれ/キュアエトワールだ。はなが2人と行動を共にすれば、その低身長も相まって子供っぽさがより際立つ。この「何も無さ」は、はなにとってもなかなかコンプレックスのようで、よく落ち込む(ギャグテイストで)。このように『HUGプリ』でまず際立つのが、主人公はなの低スペックである。

【『プリキュア』と労働】

 とはいえ、『プリキュア』主人公に多かれ少なかれそのような役割が付与されることは、全く珍しくない。伸びしろを秘めた主人公の成長は、エンジンとして物語を力強く動かす。最初は無能力者としてパラメータを低く設定しておくことで、カタルシスも生まれる。
 その代表的なキャラクターが『Yes!プリキュア5』の夢原のぞみだろう。彼女は落ちこぼれだった。だがキュアドリームに覚醒してからの彼女の目覚ましい活躍とカリスマ性ったら!
 第11話「のぞみとココの熱気球」という筆者のお気に入りの回がある。中間テストを間近に控えても勉強に身が入らないのぞみに仲間は呆れるが、ココは実技を交えて丁寧に教導する。結果は落第ギリギリだったが、のぞみとココは成績が少しでも上がったことを大いに喜ぶ。
 現代社会において、学業成績は生涯にわたって身を助けてくれる確率が極めて高いスキルの一つだ。学業が優良な者は、一般に職業選択の幅も広い。

のぞみはココとの出会いを通じて、教師という夢を見つけることができた

 このようにプリキュアはそれぞれ部活にいそしんだり、趣味を極めたり、勉学に励むなりすることで、欠点を少しずつ克服し、秘めていた長所を発揮できるようになっていく。
 ではここで、『HUGプリ』直前後に放送された4作品の主人公を見ていこう。

【歴代主人公のスペック獲得過程】

①『Go!プリンセスプリキュア(2015)』春野はるか/キュアフローラ

はるはるは、たいへんな努力家

 はるかはテニス、バレエ、ヴァイオリン、ティーレッスン、裁縫など「プリンセスっぽいもの」に目がない。「つぼみのプリンセス」はるかは気合と根性でどんな課題をも組み伏せ、「真のプリンセスグランプリンセス」へと成長していく。

②『魔法つかいプリキュア!(2016)』朝日奈みらい/キュアミラクル

みらいだけ映った画像があまり見つからなかった

 人間界(ナシマホウ界)の少女みらいは、リコや補習メイトたち(ジュン、エミリー、ケイ)と一緒に魔法学校で勉強することに。公的な教育機関という、あちらの世界では極めて真っ当なルートで魔法の技能を習得する。

③『キラキラ☆プリキュアアラモード(2017)』宇佐美いちか/キュアホイップ

シエルごめん

 製菓初心者レベルだったいちかは「キラキラパティスリー」を開店する。「キラっとひらめいた!」いちかはアイデアウーマンなのだ。キラパティで腕を磨いたいちかは大人になって、世界を回るパティシエになる。

④『スター☆トゥインクルプリキュア(2019)』星奈ひかる/キュアスター

かっこいいエリート女性に

 『スタプリ』は宇宙冒険譚と異文化交流がメインプロット。宇宙オタクのひかるは15年後、宇宙飛行士に。超エリートじゃん。学んだこと、ちゃんと役に立ってる!

 プリキュアとはさながら職業訓練であり、その性格は年々強まっているように筆者には思える。魔法は少々ファンタジーではあるが、つまり筆者が言いたいのは、プリキュアの活動で獲得した知識や技能が、大きいウェイトで自己実現ないしキャリア形成に生かされているということだ。
 確かにどのような技能であれ、習得・熟達にはそれ相応の時間と訓練が必要ではある。だが身に付けた技能は簡単には失われない。ベルトコンベア式の自動車工場を想像してみてほしい。一度組み立てをマスターしてしまえば、その会社で一生食っていける。「手に職つける」とも言う。

【『HUGっと!プリキュア』の労働】

 『HUGプリ』のプリキュアは非常に多忙である。学校に行き、プリキュアとして敵と戦い、余暇の時間には赤ん坊のはぐたんの世話をこなす。そして極め付きが、「おしごと体験」だ。忙しい合間にも大人の仕事場に赴き、実際に職業を体験するというものである。彼女たちはこれらハードな生活に対して不満を言うことも息切れすることもなく、楽しそうに働く。

①学生の本分である学業
②プリキュアの本分である敵との戦闘(肉体労働、感情労働)
③はぐたんの世話(母親業)
④おしごと体験(賃労働)
⑤その他各々の活動(ほまれのスケート、さあやの芸能活動など)

 ④の「おしごと体験」こそが、主な『HUGプリ』における職業訓練に該当する活動である。はなはウェイトレスや花屋、CAや保育士、アイドル、医者など多種多様な現場に毎度お邪魔する。本格的に労働市場に参入する将来に備え、職業への適性を高めていく。
 しかしながらはなは、花屋で植物の管理方法をレクチャーされるでも、働いた後に植物学に興味を持ったわけでもない。CAになっても語学力が向上することもない。勉強の不得意を嘆くも、それが少しでも改善される様子はない。はなが継続的に特定の何かを学習することが示唆される描写は、皆無に近い。『HUGプリ』を観ていて特に印象的だと思ったのは、はなのパラメータは終始低いまま、無能力であり続けたという点だ。

 にもかかわらず、どこに行ってもはなは必ず活躍するし、最後は周囲の人たちから認められ、感謝される。なぜなのか。これは決して『HUGプリ』のストーリーや構成が破綻している、と言いたいのではない。いやむしろ、ビジョン、筋は非常によく通っている。

【どうして野乃はなは活躍できたのか?】

 はなの成功の鍵は、アイデンティティにある。何のスキルも持たないはなは、なぜ成功できたのか。それは「(ちょっとドジで)明るくピュアで、いつもポジティブな野乃はな」という自己アイデンティティそのものを、労働に捧げたからに他ならない。

 現代社会はどのような職種であっても、サービス化の波は避けられない。大量生産・大量消費の時代が終焉し、労働者はロボットのごとく単純な生産作業に従事するコマンドではなくなった。自律的に考え、柔軟に周囲とコミュニケーションを取り、個性や創造力を発揮することが望ましい、とされている。商品はそこに宿った「情報」によって、付加価値が生まれるからである。誰でもできる工場の単純作業は待遇が悪いし、引きこもって黙々と刀を作っているだけの刀工房は、潰れてしまうだろう。

 三浦玲一はこのビジョンを「アイデンティティの労働」と定義する。

アイデンティティの労働は、ポストモダンにおける規範的な労働の形態である。・・・・・・そこに「生産」はなく、われわれ自身のなかに内在するクリエイティヴィティの実現こそが、「富」を産むのである。それは、自己実現こそが富になるというユートピア願望の表明である。

(三浦玲一『村上春樹とポストモダン・ジャパン―グローバル化の文化と文学』99ページより引用)

 つまり自分の存在そのものを商品化し、アイデンティティを維持管理する。うまくいけばグローバルな人材として開花できるし、どんな仕事だってできる、というビジョンである。
 だからプリキュアたちは毎週職業をキッザニアのごとく好きに選び、とっかえひっかえすることも可能なのである。ここで称揚されるのは「人脈」「自分らしさ」「コミュ力」だ。これに照らせば、彼女の低スペックは矯正されるどころか、上記のアイデンティティを強化するものとして肯定されるのだ。

「おしごとスイッチ」で、フレキシブルにジョブチェンジ

 幸か不幸か彼女には、りんちゃんやかれんさんや、いおなちゃんのような、主人公の将来を案じて叱ってくれるキツイタイプの友人もいない。無能力を「ありのまま」として周囲に肯定されながら、「元気のプリキュア」にふさわしい自分でいるよう、いつもテンション高く振る舞う。「イケてる大人のお姉さん」という実体の無い人間像に駆り立てられ、がむしゃらに働く。そうすれば「なんでもできる、なんでもなれる」のだと。
 そして、アイデンティティの労働には職業訓練と違って「完成」「熟達」がなく、半永久的である。だからはなは24時間「いつも笑顔で」「機嫌良く」「ポジティブな」自分であらねばならない。だが求められる「自分らしさ」を体現し続けるのは、はっきり言ってしんどい。失敗を繰り返しても「フレ!フレ!」と己を鼓舞し、あくまで気丈に振る舞う彼女に、正直筆者は痛々しさを感じざるを得なかった。

 筆者が野乃はなという主人公に少し苦手意識があるということを、ここで白状しておこう。空元気というか、落ち着きなさというか、なんか通底する道化っぽさに最後までノれなかった。
 「めちょっく」といういまいち人格の見えてこない口癖も、筆者にその印象を強くさせた。「失敗したときに言う突飛なワード」以上の深みがないというか。
 例えば桃園ラブ/キュアピーチの「幸せ、ゲットだよ!」はラブの他人想いの性格や万人のため戦う『フレッシュプリキュア!』の世界観に適合している。星奈ひかる/キュアスターの「キラやば~」も彼女の好奇心をよく言い表しているし、口癖自体話に広がりを持たせる重要な役割を担っていた。

【野乃はなが持つ「あやうさ」】

第10話、たこ焼き屋で呼び込みをするはな

 はなの生き方は、いつ破綻してもおかしくない。第10話「ありえな~い!ウエイトレスさんは大忙し!」は、象徴的なエピソードである。

 一行はフードフェスティバルのお仕事体験をする。特技を生かして仕事するさあやとほまれに対して、いつものようにドジばかりで店主にも怒られるはな。ミライクリスタルも生まれず、「私、なんにもできない…」と落ち込む。
 そんな中クライアス社の幹部・パップルが現れる。怪物オシマイダーも暴れだし一行は立ち向かうが、はなのプリハートだけ反応せず、変身できない。ピンチに気付いたはぐたんが、大量のエネルギー(アスパワワ)を放出し難を逃れるも、力を使い果たしたために目を覚まさなくなってしまう。

 アイデンティティの労働の下では、仕事の失敗は技能不足のことではなく、自己アイデンティティ管理の失敗を意味する。感情のコントロールに失敗するということはプリキュア失格であるどころか、母親失格、市場労働者失格の烙印を押されることと同義である。

 いつもニコニコ機嫌よくしていないと、いい母親、いい社会人、いい大人になれないと言われているようで、窮屈だと感じた。義務教育段階の少女の物語が、仕事の出来不出来とイコールで結びついているのも、ある意味異様である。もう少し怠けたり、余暇を楽しんだり、弱音を吐くことが許されてもいいのではないかと、筆者は思ったのだ。

【『プリキュア』というコンテンツ】

 『プリキュア』は基本「学校の勉強はちゃんとしましょうね」っていう作風である。だが『HUGプリ』は毛並みが違う。なんかこう、反エリート、ベンチャー精神を感じる。何の後ろ盾も何もない主人公が、身一つで成り上がる物語なのだ。 
 しかしながら、そんな生き方でやっていけるのだろうか。いや、ほとんどの場合、失敗に終わるだろう。やる気やキャラクター、コネクションだけで仕事を乗り切るのは、限度がある。
 考えてもみてほしい。現実において学歴至上主義は未だに幅を利かせているし、肩書きも資格も学も持たない者は、いくらでも替えの利く安価な労働力として、搾取されるがオチだ。アイデンティティの労働は確かに半分事実である。だがもう半分は幻想であり、イデオロギーなのである。

 ここまで長々と書いてきたが、野乃はなはあくまでアニメのいちキャラクターであり、フィクションの存在である。描写や作中の価値観を現実社会の問題に敷衍するのは、安易すぎるのかもしれない。しかし多様性、ガールズエンパワーメントと結び付ける言説が盛んになっている以上、無視するというのは良い反応ではないと考えている。

 プリキュアを観た子供に作品の価値観がそのままインストールされるということは、ほとんどないだろう。だが子供は単にアニメを視聴するだけでない。集団の中でのごっこ遊びを通じて、さまざまな規範を学んでいく。そして子供の背後には教育者である保護者の存在がある。作品の視聴継続や玩具購入の決定権は、保護者の教育方針にかなり左右される(プリキュアを教育アニメだと思っている保護者は、結構多い)。

【まとめ:野乃はなとは何だったのか】

 とはいえ本作はあくまでも、サクセスストーリーである。はなは自分自身を絶え間なく切り売りしながら、機敏に、柔軟に、愚直に働き続けてきたから、成功できた。これは紛れもない事実だ。
 彼女みたいに頑張れば、誰だって成功できるという作品からのメッセージなのだ。理不尽に見える境遇は搾取ではなく、将来を彩る「糧」なのである。いま芽が出ずに苦しいのは、まだ努力が足りず個性を発揮できていないから。だから、できるようになるまで笑顔で、ポジティブに働き続ければ、きっと上手くいく――もしかしたら、一生上手くいかないかもしれないが。

 こんなブラック企業のような論理のもと一握りの「勝ち組」女性の、キラキラしたエピローグだけが喧伝される。労苦を孕むであろう成功までの十数年は描かれない。過程は省かれることによって、彼女が持つあやうさはいつの間にか、克服された「ことにされ」る。

 はなの「自立」した生き様は、確かに現実に生きる我々に活力を与えるだろう。だがそこにある種の普遍性を持たせ、ロールモデルとして広告塔にするのは、危険だと思う。本作のメッセージ性の強さも相まって、「成功せよ」「活躍せよ」という命令とも取れるからだ。
 それはジェンダー役割からの「解放」どころか、「競争社会に本格的に参入してバリバリ働きつつ、これまで通り家事と育児を両立する」という、より複雑でハードルの高い「女の子らしさ」への追い込みなのだから。

 では、野乃はなとはいったい何だったのか。
 それは隠蔽装置である。『HUGプリ』とは本来やりがい搾取で終わるはずの労働が、報われてしまった物語なのだ。


 アカルイアス社本ビルの最上階から、高笑いが聞こえる。野乃はなは新自由主義社会を生き抜く女性の権化として、今も君臨し続けている。

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