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40代からの親孝行プレイ 〜奇跡のタケノコを探して〜

むかしむかし、会社の後輩から「親孝行プレイ」という本をオススメされた。

「マイブーム」という言葉を作った男。(1997年流行語大賞)
くまもんを始めとした「ゆるキャラ」とい言葉を作った人。(2008年流行語大賞ノミネート)

そんな慧眼の持ち主「みうらじゅん」さんが2007年に満を持して出した本だった。

あれから15年。
オレはもう40代半ばを過ぎていた。

何一つ「親孝行プレイ」を実行出来ていなかった。

仕事が忙しい?
故郷よりも今の自分の家庭が大事?
とにかく時間がない?
コロナ禍だから?

条件をあげるとキリがないが、全ては言い訳に過ぎない。

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2022年6月9日。
いつもより少し早めの朝5時起床。

寝てる家族を起こさないように寝室を抜け出し、冷蔵庫から昨晩の残り物をチンしてそそくさ胃袋に押し込み、そろりそろりと自宅マンションを出た。

いつもは都心方向に乗る地下鉄を逆走して、北へ向かう。しばらくして地上に出ると車窓から東京スカイツリーが見える。北千住駅でJR常磐線に乗り換え、そこから更に北へ向かう。

北千住では3年間バイトをしていた。「森永LOVE」という今は亡きハンバーガーチェーンだ。未だによくバイト先での夢を見る。社会人になった俺はすっかり基本的なハンバーガーの作り方を忘れていて、キッチンでとにかく焦ってしまう。このハンバーガーにはレタスを何g入れて、何のソースをかけるべきなのか。「ああ、なんで俺は社会人になってるのにいつまでもこのバイトやっているんだろうか…。そろそろ辞めなくては…」と逡巡しているときに目が覚めて、いつもベッドの上でホッとする。

常磐線といえばボックスシート座席。たまに酒宴が繰り広げられていて車内が酒臭いことは日常茶飯事。でも朝の電車ならば酒宴は行われてないし、空いてれば足を伸ばしてボックスシートに座れる。

車窓から小さなベンチが見えた。
「ああ、昔、あそこで恋人と別れ話をしたんだっけ…」
電車は小さな記憶をかき消してくれるように、ゆっくりと動き出した。

河合塾模試でしか降りたことのない松戸駅を過ぎ、次の柏駅では多くの客が降りていった。20年ほど前、「千葉の渋谷」とも言われていたその場所で多くの時間を浪費した。something elseのラストチャンスという曲が脳裏に流れた。

かつて母が駅前のダイエーで働いていた我孫子駅を、そしてNECの工場が見える天王台駅を過ぎるとそこはもう千葉県ではなく茨城県だ。

車窓の景色は田園や森林の緑に彩られていく。
日本最大の流域面積を誇る利根川を超えると、こんなにも景色が変わるのがとても不思議だ。
そして、かつては何にも感じなかった緑の風景に、随分と癒されるようになったのはいつ頃からだろうか。

乱読していた数学の本を閉じ、車窓の先にある雑多な緑をぼんやりと見つめ直す。緑を構成する森林は樹木の集まりで、樹木の緑は葉の集まりだ。緑の葉たちはどれも全て同じ形をしたものはない。けれど、トポロジーは同じだし、フラクタルな形をしたものも多いのはナゼだろうか。

幼い頃競輪場に連れて行かれた取手駅、降りた記憶のない藤代駅・竜ヶ崎市駅を過ぎ、出発から1時間半ほどで実家のある牛久駅に到着した。時刻は7時を回った。

改札を出て、寂れた線路沿いの小道をゆっくり歩いていると、都心では聞くことの出来ないウグイスの鳴き声を耳にした。

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「なんだよぉ、こんな朝早くから。何があったんだぁ?仕事でこっちに来たのか?」

「いやー、たまには一人で帰省してみようかな、と。ここでもテレワーク出来るし」

「何だよ、こんなに朝早くにぃ。朝メシ食うか?」

「あ、もう朝メシ食ったからいいわ」

「ああん?まだ7時だぞ。そんなに早くに家で食ってきたのか?ホントかぁ?」

「オレ、最近は早起きしてて、5時台に起きてるから」

他愛もない朝の会話をしながら、オレは籐の椅子に腰掛けて、読売新聞とサンケイスポーツ新聞(通称サンスポ)を手にとった。

新聞を読まなくなって20年経つ。
言い換えるとここ20年はインターネット漬けになってしまったのだろう。そんなネット漬物タイプなオジサンにとって、「新聞」なるものは、もはや帰省中の実家でしか読むことのない新鮮なコンテンツだ。
老人向けの健康食品や宗教じみた書籍の広告が目立つなぁ。ああ、これが高齢化社会のディストピア感。

小さい頃から朝のトイレでサンスポを読むのが日課だった。
当時プロ野球記事ばかりだったが、今のサンスポはちょっと違っていた。
釣りや地方競馬の紙面が増えていた。
芸能欄の手前には裸婦の写真を載せた風俗欄ページなるものがあった。
当時、こんな紙面があったら、朝のトイレとは異なる読み方にトライしていたかもしれないな。

読みかけのサンスポ片手に久しぶりに実家のトイレに入ってみる。
老人家庭のトイレはもはや清潔感のカケラもない。
壁には相変わらず近所の家電屋でもらったカレンダーが貼られている。
サワデーもファブリーズも消臭ポットも設置されてない。
かつて祖母が入居していた老人介護施設を思い出すような微臭だ。

小さい頃はほぼ毎朝腹が痛かった。
「どう考えてもビョーキだろ」と思い、近くの病院で検査してもらったけど何の異常もなかった。(恐らく、今で言う「過敏性大腸症候群」ってやつだ)

トイレから出てリビングに戻ると、白髪の老婆がオレの椅子に座っていた。

「あら?」

白髪の老婆は濁った瞳で不思議そうにオレを見つめる。

認知症気味の母は、もはやオレが誰であるかをすぐに判断することが出来ない。

「長男かい?→違うよ」
「次男かい?→違うよ」
「あー、三男かい。何で三男がうちに来てるんだい?」

母の脳は目の前の男に対して、①同居している兄かな?②近くに住む兄かな?③東京に住むオレという順番で答えを予想していくので、毎度、オレが認知されるまで少し時間がかかる。

「何で自分の息子なのに分かんねーんだよ!」

数年前はそんな返しもしていたが、今は違う。
こちらも慣れている。
文字通り三兄弟の末っ子として三番目の回答まで待たねばならない。

ようやくオレが実の息子(三男)であると認識すると

「車で来たのかい?」

などと聞く。

「いや、今日は一人なんで電車で来たよ」
と答える。

その1分後に

「それで今日は車で来たのかい?」

と聞かれる。

「電車だよ」

と答える。

このラリーが5回は続く。

数年前は「さっき言ったじゃんかよ!ボケてんのかよ!」などと返していたが、今となっては大人げない返しだったと反省している。
そう。ボケているのである。

何度も続く同じ話に付き合ってあげる寛容さが求められる。
同じ質問に対応するのは、まるで証券審査のようで疲れるので、なるべくこちらから話題をふる。

「そういえば、お母さん、昔中野に住んでたんだよね?中野のどのあたりだったの?」

認知症の脳は直近のことは全く記憶できないけれど、過去のことはちゃんと覚えている。なので、ひたすら過去のことを話題にする。戦時中、子どもたちだけで朝鮮から引き上げてくる話などはもう何回も聞いていて、ショートムービーを見たぐらいの感じになっている。

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「そういえば、去年もらったタケノコ、うまかったなぁ。あれ、今年はもらえないの?」

母との会話ラリーに続き、9時からのzoomミーティングを玄関の車庫で終えたオレは、父に話しかけた。

「ああいう新鮮なタケノコは東京では売ってないんだよ。刺し身で食ったらめっちゃ美味かったよ」


「オレも採りに行ってみたいなぁ」


かつてクワガタを採りたいと言っていた少年の口調でつぶやいてみた。


ここが親孝行プレイ最大の「演技の見せ場」だ。

「親孝行プレイ」の筆者みうらじゅん先生曰く、実家では「演技」が重要だと。

オレは自身で家庭を持ってからは、とにかく、正月とお盆に孫の顔を見せに行くというのが親孝行だと思っていた。
みうらじゅん先生曰く、そうじゃない、と。
孫なんて所詮孫。
親にとっては「子供」が重要なんだと。
30歳になろうが、40歳になろうが、親にとって子供は子供なんだと。
孫なんかよりも子供のほうがカワイイ。
親にとっての「子供」プレイ、子供としての「演技」が求められるんだと。
オレはもうオトナなんだぜ的な、東京でやった仕事の話なんて、親にとっては大した価値はないのだ。

そういえば、家族を連れての帰省のたびに、
「メシ食ってけ」
と、既にすっかりメタボ予備軍になっているオレに積極的にメシを勧めてきた。

母が認知症になってからは料理はもっぱら父の仕事となっていて、正月の雑煮や煮物も父のお手製だった。
元々職業柄手先の器用な男の料理は濃い味付けで美味かった。

「うんまい!うんまい!」
といって、成長期の中高生風のゴマすり演技をかますと、父は「あんまりお父さんのご飯が美味しかったなんて、奥さんに言うんじゃないぞ。嫉妬されちゃうから」などと嬉しそうにほくそ笑んでいたっけ。


「オレもタケノコ狩りに行ってみたいなぁ」


声変わりする前の小学生時代の自分をイメージして、ハイトーンボイスでつぶやいた。

「なんだぁ?じゃあ、行ってみっか?」

「うん!いくいく!いこういこう!」

40代のオジサンが小学生に戻ろうとしている。

そもそも、幼少時代に父と昼間から一緒に外に行くことなどあまりなかった。

近所の寿司屋と麻雀と競輪場には連れて行ってもらったことがあるが、虫取りや釣りなどのアウトドア系コンテンツの記憶はない。
となると、オレ40代にして、父と初めてのアウトドア体験だ。


二人で錆びついたママチャリに乗って竹林に向かう。
20分ほどかかった。思ったより遠い。

※ちなみに知人が所有している竹林で採取許可済み、とのことです


え、オレ、こんな錆びたチャリ乗っていくの?


ほれ、行くぞ!しゅっぱつ!
さっそうとママチャリを走らせる父(81歳)
信号はちゃんと待つ


漕ぐこと15分。近づいてきた。ジョギング中の東洋大牛久高校生とすれ違う
到着後、短いカマを持って、即竹林に入っていく。



親子の会話なく、無言でとにかくタケノコを狩る。掘るじゃなくて狩る。
とったどー

持ち帰ったタケノコは40本ほどで、自宅の軒先で皮むきのやり方を教わった。

「このタケノコは穂先がうまいんだぞ。キレイに皮剥けよ」

父の助言虚しく、一番うまいタケノコの穂先を残してキレイに剥くことがなかなか難しい。(オレって昔から皮を剥くことに関して、父のアドバイスをもらうことが多い)

「なあんだよ、お前は。ホント、ぶきっちょ(不器用)だなぁ。兄貴とおんなじだ」

8歳年上のオレの次兄は既に父と一緒にタケノコ狩りに行っていたみたいだ。
さすが。親孝行プレイ、先こされたな。

米ぬかでアク抜きをする




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思い出のタケノコ狩りから約1ヶ月後。
父と同居している10歳年上の長兄からLINEが入った。

「オヤジ、コロナ陽性」

父は81歳。バリバリの基礎疾患持ちだった。

糖尿病からの腎臓疾患で、長らく人工透析をしている。
週3回病院通いを長年続けていて、「ゴールド会員なんだよ」という自慢を聞いたことがある。
60代の頃に肺水腫になって死にかけたこともある。
心臓手術も確か3回ぐらいやっている。バイパス手術や人工弁をつける手術。

そして、父はワクチンを打っていなかった。

「オレはコロナになったら間違いなく死ぬ。ワクチンも打たない」

恐らく、基礎疾患がフルコンボMAX過ぎて、ワクチンの副作用にも到底耐えられないだろうという自身なりの判断だった。息子なりに同意せざるを得なかった。

もっと、もっと、タケノコ狩りに行っておけば良かったと後悔した。
いやタケノコ狩りだけじゃない。
祖母の時代から近所で小さな畑を借りていて、父はそこで野菜を育てていた。お盆にはいつも採れたてのオクラやナスなどの夏野菜を土産に持ち帰っていた。
畑作業も親孝行プレイの延長として、教わっておくべきだった。

オレは出張先で何度となく一ヶ月前のタケノコ狩りに思いを寄せ、ホテルの屋上で澄み切った青い大空を見つめながら天を仰いだ。






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「美味い瓜の漬け物が出来たから、もっていけよ」

自宅で発泡スチロールの箱をあけると、そこには10人前ほどの大量の瓜の漬け物が詰め込まれていた。

「こんなのは東京では売ってないからな」(レア物だぞ風に)

お盆の帰省は1時間だけ顔見せに伺うことにした。

コロナ罹患で2週間入院し、父は帰還していた。

「いやー、まいったよ。医者からは80代越えの基礎疾患持ちにしては、奇跡だと言われたよ」

そして、隔離で2週間ほぼ寝たきり入院生活だったにも関わらず、退院時は病院からあのママチャリを20分ほど漕いで帰ってきたらしい。

来年もママチャリで一緒に奇跡のタケノコ狩りに行きたい。


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