人生の大半をラブホテルで過ごした女の話し

 マーガレット・ファミリアは人口10万人の小さな町に生まれ育った。子供の頃から絵が好きで、小さなコンクールで賞もとった。初めての受賞は小学校2年生の時だった。タイトルは「草むしりをするお母さん」

 20歳で地元の芸術短期大学を卒業した後、両親の強い反対を押し切って都会へ出た。彼女には溢れる若さがあって、お金は必要なかった。アートに関わること、欲を言えば絵を描く技術を活かせるような、そのような仕事を探そうと思った。

 上京から2年、マーガレットは、若さだけが取り柄の平凡な女性になった。清潔なワンルームに一人で住んでいた。最寄りの路面電車の駅から徒歩20分の距離にあるアパートメント。
 興味の赴くままに、パートタイムの仕事を転々とした。洋服、雑貨、レコード、カフェラテ、パンケーキ、目が覚めている時は、ひたすら何かを売っていた。充実していた。雑誌でしか見たことが無かった品々を売るとき、自分の人生がお気に入りの雑誌の一部になったと錯覚できた。

 27歳の冬、嵐のような恋が終わった。4度目の恋で、5人目に抱かれた男だった。文字通り、一生を捧げるつもりの恋だったが、唐突に終わった。恋の熱が冷めていく時の、例のとてつもない残酷さでもって「別れよう」の4文字が携帯に届いた。クリスマスを1週間後に控えた金曜日の夜だった。
 エキゾチック・レザーを贅沢に使った、濃いグリーンの長財布をプレゼントする予定だったが、それは綺麗にラッピングされたまま、何年もホコリを被ることになる。

 29歳の夏、5度目の恋が終わった。 何人目に抱かれた男なのかは分からない。7人を越えたあたりで、数えるのをやめていた。相手の男が菜食主義者だったことを除けば、それは平凡な恋だった。
 平凡とはいえ、恋が終わったことは事実だったので、マーガレットは洗面台の鏡に向かって泣くことにした。幸い涙は出てきた。
 「私は安い女じゃない」
 目尻の皺をマッサージしながら呟いた。
 その時、彼女は生まれて初めて、自分が若さを失いつつあることに怖気づいた。女性を飲み込む29歳の闇に落ちたのである。
 マーガレットは妙齢の女性特有の、精神の不安定さに悩むようになった。駅から徒歩20分のワンルームに帰ると、毎晩天井から隙間なく寂しさが降りてくるのだ。
 カタログに載っているような男達に恋をしようと努めたが、実らなかった。時間を掛けたメイク、つま先の痛むハイヒール、気を使う食事、そして短い夜が終わる。彼女は、虚しさだけでは涙が出ないことを知った。

◇◆

 仕立ての良いスーツを着た男に、ラブホテルで抱かれた翌朝のことだ。ノロノロ動くホテルのエレベーターを待っていると、清掃係の中年女と目が合った。その瞬間、マーガレットは稲妻のように素早く心を決めた。—1人で生きていこう—

 彼女は早速仕事を変えることにした。必要なのは、生き延びるための仕事で、クスクスが添えられたサラダプレートを運ぶような、上辺ばかり華やかな仕事ではなかった。
 今や彼女には、自分と向き合う強さがあって、自身のキャリアの中核が清掃員だったと受け止めることができた。売るものがなんであれ、閉店後には必ず掃除をしたのだ。
 駅、公園、オフィスビル、清掃員は引く手数多だったが、ラブホテルの清掃は高給だった。彼女はごく自然にラブホテルを職場に選んだ。30歳。

 歓楽街の一角に、ホテル・フースはあった。オープンしたばかりのラブホテルで、7名の清掃員が絶え間なくシーツを取り替えていた。
 フースの清掃員は、しばしば品の無い言葉を使った。ひどく汚された部屋の現場検証では、眉をひそめるような卑猥な言葉で軽口を叩きあった。
 マーガレットは職場によく馴染んだが、品のない言葉は決して使わなかった。清掃のプロフェッショナルとして、医者や弁護士のような言葉使いを好んだ。「ゲロまみれだった」とは言わず、「吐瀉物が散乱していた」と表現し、「風呂場がクソまみれだった」ではなく、「浴室に便があった」と言った。

 フースで働くマーガレットは美しかった。なんといっても彼女はまだ30歳になったばかりだった。客からしばしば好機の目を向けられた。
 「良かったら3人でどお?」
 もちろん彼女は毅然として無視をした。

◇◆

 ある年のクリスマス・イヴのことだ。413号室の排水溝が詰まってしまう事件があった。マーガレットはビニール手袋をして、黄褐色のゲル状物質を掻き出したが、浴室の淀んだ水が流れる気配はなかった。音を上げた彼女は配管工を呼んだ。やって来た配管工は、がっしりした体格の男だった。その翌日、マーガレットはクリスマスをその配管工と共に過ごした。
 「大したものじゃないけど」
 そう言って彼女は配管工に、緑の長財布をプレゼントした。男は最初目を丸くして、それから財布を手にとり少年のように喜んだ。配管工はプレゼントを用意していないことを詫びたが、マーガレットはプレゼントが欲しいわけでもなかった。
 そのまま、彼女は配管工と1年ほど交際した。男が酒に酔っても暴力を振るわないことを確信すると、彼女はそのまま配管工と結婚をした。マーガレット34歳、結婚式は二人だけで挙げた。

 結婚生活は、郊外にある公営住宅で始まった。5階建ての古いアパートメントの5階に階段で登った。配管工の収入だけで暮らすには都会は金が掛かりすぎた。マーガレットは清掃の仕事を続けた。新婚生活は存外幸せだった。期待していなかった幸せを、ささやかだが感じる、そういう瞬間が確かにあった。

◇◆

 マーガレットは47歳になっていた。結婚した翌年に産んだ子も、もう手が掛からない。結婚して13年、彼女は黙々とラブホテルの清掃員を続け、夫も黙々と配管工を続けた。彼女が、ホテルの仕事を休んだのは、出産前後の3週間だけだった。
 いつからだろう、ホテルの廊下ですれ違う男性客たちは、壁際に置かれた花瓶に向ける程度の関心しか、彼女に向けなくなっていた。気がつけば卑猥な冗談を投げかけられることもなくなっていた。

 十数年ぶりに夫以外の男に抱かれたのはその頃だ。相手はホテルのマネージャーだった。彼女が働き始めて以来、フースのマネージャーは何度か変わっていた。彼女を抱いたのはサクロニというアジア系のマネージャーだった。華奢な男で黒い髪を短く刈り上げていた。歳はマーガレットより一回り以上若かった。
 ホテルの同僚に言い寄られるのはサクロニが初めてでは無かった。中には、気の毒になるぐらい彼女に惚れ込んだ男もいた。だが、どの同僚とも深い仲にはなったことは無かった。サクロニだけだ。
 といって、彼が特別に魅力的だったわけでも、彼の愛が特別に深かったわけでもなかった。それは純粋にタイミングの問題で、マーガレットがそういう気分だったに過ぎない。いつだって女は選ぶ側にある。
 
 毎月の給金は、事務所で手渡しされる慣習で、彼女がサクロニに唇を許したのは給料日だった。サクロニは金の入った薄い茶封筒を渡しながら、マーガレットにキスをした。彼女はキスされながら、いま人に見られたら、お金をもらってキスしてると思われないかしら、と心配した。それから2人は毎日のようにセックスした。何しろ場所に困ることはなかったし、彼女は仕事中は夫のことを忘れがちだった。
 客足が増えたわけでもなかったが、サクロニはどんどん仕事が忙しくなっていった。毎日会っていたのが、3日置きになり、1週間置きになった。2人の関係が半年を過ぎる頃には、月に1〜2回、サクロニは思い出したようにマーガレットを呼び出すだけだった。
 それでも彼女はいそいそと指定された部屋で彼を待った。サクロニはサバンナの肉食獣のように素早く用を足すと、そそくさと事務所へ戻った。マーガレットは手早く部屋を清掃した。
 ある朝出勤すると、新しいマネージャーが座っていた。白人で、マーカスという名だった。マーガレットは彼と寝ることは無かった。

◇◆

 サクロニが去った後も、マーガレットは何度か恋をし、何人かの男に抱かれた。数は多く無かった。55歳を越えてからは、まるで自分から女という性別が抜け落ちてしまったように、恋もセックスも縁遠いものになった。それはそれで、心地良いものだった。

 60歳で辞めるつもりだったホテルの清掃も、65歳に延長し、結局68歳まで続けることになった。年金の受給資格が繰り延べになったからだ。 
 だんだん身体があちこち痛むようになった。一足早く年金生活に入った夫が、家事全般を手助けしてくれるようになったのは、有難いことだった。

 マネージャーが、最後の給金を渡しながらマーガレットに尋ねた。
 「今日までだよね?」
 「ええ、随分長くお世話になったわ」
 「どれぐらいここで?」
 「38年ね」
 その若いマネージャーは目を丸くした。

 ホテル・フースを出る時、涙ぐらい出るかと思ったが出なかった。いつものように8番の路面電車に乗り公営住宅へ帰った。5階まで階段であがり、玄関を開けるとポトフの匂いがした。分厚く切ったベーコンと、月桂樹の葉を入れた、夫の特製ポトフの香り。
「おかえり」
 キッチンからエプロンを付けたままの夫が顔を出した。続けてクラッカーが3つ鳴った。息子夫婦が顔を出し、孫娘が駆け寄ってきた。マーガレット・ファミリア、68歳。

END

◇◆人気のあった短編小説◆◇
頼むから返事をしてくれ
僕らはこうしてパスタに襲われる
ミランダは真上に住んでいる



この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

サポート頂いたお金でドンチャン騒ぎするのが夢です。ドンチャン騒ぎ。

ありがとうございます!好きな果物はさくらんぼです。
546

スドウナア 短編小説まとめ

noteに投稿した短編小説をまとめています
6つのマガジンに含まれています

コメント31件

ちょっと目を通すつもりが、引き込まれて読んでしまいました。素晴らしい短編。ありがとうございます。
こうわび 様
お読み頂き有り難うございました。長文は最後まで読んで頂けるかどうかが、まず最初の1歩目だと思っていて、こうわび様を引き込む魅力があったというのは励みになります。またお時間がある時に他のものぞいて貰えると嬉しいです。コメント有り難うございました。
めちゃくちゃ面白い。人間の一生を読んだ感じがしました!
A・ヒロチカ 様
お読み頂き有り難うございました。楽しんで頂けて良かったです!
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。