見出し画像

それにしても、恵まれている

 ボリス・カーネマンと妻のアンナは就寝前に、きまって一杯のシャルトリューズを飲む。100種類以上のハーブを調合した薬草系のリキュールで、独特の強い匂いがある。色はお手本のようなエメラルドグリーン。健康のためにと、アンナが毎晩2人分を用意する。
 「それにしても、恵まれてるわよね」アンナが言う。
 「そうだね」ボリスが答える。
 「ネイサンも立派に育ったし」
 「ああ、立派に育った」
 「お金で困ったりしないし」
 「ああ、困ったりしない」
 「恵まれてるわね、私たち」
 「ああ、恵まれている、僕たちは」

 彼らは結婚して長い。結婚当初はそうでもなかったが、式を挙げた直後に2人で始めた商売が成功し、みるみるうちに、途方も無い金持ちになった。海のそばに、白い大きな、天井の高い家を建てて住んでいる。
 手入れの行き届いた、広大な面積の、芝生の庭が家を囲む。ガレージには高級車がずらりと並び、プールもあれば、クルーザーもある。だが、なんといっても芝生の庭が自慢だ。
 芝生は弱い植物で、維持管理に大変な労働を必要とする。そして、何の役にも立たない。金持ちが、自分が金持ちであることを、知らしめるための植物なのだ。何の役にも立たないところが特に良い。

◇◆

 カーネマン家には、曜日や時間帯に応じて数名の家政婦がやってくる。皆パートタイムで、不要な部屋への入室は厳しく制限されている。自由に家の中を歩き回れる、フルタイムの家政婦は1人だけ。その1人も、ボリスとアンナはきっかり2年でクビにする。慣れると盗むようになると考えているのだ。
 フルタイム家政婦の交換時期が迫ったある日、スーザン・ババロアが面接へやってきた。明るい性格をした40過ぎの女で、バスケットボール2つ分の胸と、バスケットボール3つ分の腹と、バスケットボール4つ分の尻を持っている。太っている、とてつもなく。何もかも大きい、背も肩も手も足も。

 「お独りで寂しくないの?」アンナがよそ行きの声で尋ねた。
 「いえ、まったく。もう20年も未亡人をやってますから。奥様」スーザンは大きな声で答えた。
 「あら、ごめんなさい」
 「結婚して2年でしたよ。中古車だってもう少しマシ。詐欺にあったみたいなもんです」スーザンは笑って言った。
 「ご病気かなにか?」
 「ビル火災なんです。仕事へ行くと言って、出ていったきり。あっけないものです」
 
 スーザンが夫の死を悲しまなかったわけではない。様々深く思い悩んだこともあった。だが、もう20年も昔の話なのだ。今更塞ぎ込むこともなかった。
 数年に一度、月の出ない夜に、死んだ夫を思い出して涙が止まらなくなることがある。だが、それを人に言ったことはない。スーザン自身が、その唐突な涙の理由が分からない。分からなければ、伝えようも無い。

 亡くなった夫は工事現場で働く、タフな男だった。死や病気どころか、風邪とも無縁だった。ところが、スーザンの23歳の誕生日を祝った一週間後、何の前触れも無く、焼け死んだ。
 その日、彼は土曜日にも関わらず仕事に出かけた。
 「工事の遅れを取り戻す」それが、スーザンの聞いた、夫の最後の言葉。
 火災に見舞われたのは5階建ての雑居ビルだった。夫の焼死体は、50分230ドルの売春婦と絡み合った状態で発見された。服は着ていなかった。結婚指輪はつけたままだった。
 「処置する時間が無くて」
 若い婦人警官は申し訳なさそうに言いながら、シーツを捲り、売春婦と折り重なったままの遺体を、スーザンに見せた。
 「情けない」スーザンは静かに言った。

 シャルトリューズを飲みながらアンナが言う。
 「スーザンでいいと思うんだけれど」
 「自分の肉を運ぶだけで、ぜぇぜぇ言っちゃうんじゃないかな」
 「なにが引っかかるの?体重なんて言わないでよ」アンナは笑った。
 「明るすぎるんじゃないかと思って」
 「性格?暗い人なんて嫌よ」
 「君がいいなら、構わないさ」ボリスは言った。
 「それにしても、恵まれてるわよね」アンナが言う。
 「そうだね」ボリスが答える。
 「ネイサンも立派に育ったし」
 「ああ、立派に育った」
 「お金で困ったりしないし」
 「ああ、困ったりしない」
 「恵まれてるわね、私たち」
 「ああ、恵まれている、僕たちは」

◇◆

 カーネマン家のキッチンに立って1ヶ月、スーザンはカーネマン夫婦が飛びきりの金持ちだと理解した。今までの雇い主達も裕福だったが、彼らは少なくとも働いていた。スーザンは、ボリスとアンナが働くのを見たことがない。
 ボリスは、大抵リビングのソファか、書斎に置かれた黒い大きなラウンジチェアの上でじっとしていた。本を読んでいる時もあったが、眠っていることが多かった。アンナはいつも家を留守にしていたが、働いてる様子は無かった。
 最初こそスーザンは、金持ちは気楽なものだと羨んだが、日々ソファに沈み込む、ボリスの虚ろな目を見るうちに、彼は病に冒されていると直感した。考え続ける病だ。
 つまらない借金や、漠然とした将来の不安ために、その病に冒されることは、しばしばある。許されない相手への抑えきれない思慕のせいで、そうなることも、珍しくはない。あるいは、夫が売春婦と絡み合って焼け死ぬことで、そうなることもある。
 スーザンはボリスに、人生を耐えられるものにするコツは、理屈をこねずに働くことだと教えたかった。だが、それは難しい。彼は何しろ途方も無い金持ちで、そんな人間に見つけてやれる仕事なんて無いのだから。
 「良いお天気ですよ」スーザンはあくまでも明るく話しかける。
 「ああ」ボリスは目を瞑ったまま答える。
 「奥様は今日も外出ですか?」
 「彼女は社交的なんだ」
 「旦那様も一緒に出てみたらどうです?」
 「ボリスでいいよ」
 「え?」スーザンは小さな瞳(彼女の身体の中で唯一小さい部分)をパチクリさせた。
 「旦那様って言われるのが嫌いなんだ」ボリスは目を開けた。そして、スーザンに尋ねた。
 「寂しくないって本当かい?」
 ボリスを見ていると、スーザンは夫を失った直後の自分を思い出す。答えの無い問題を考え続けるうちに、本当に答えが欲しいのかさえも曖昧になってしまった、ボリスはそういう目をしている。
 スーザンは、自分には仕事があって良かったと心から思う。同時に、ボリスを救いたいとも思う。もしも自分が、夫を失った直後の、若く細く美しい娘なら、あるいは彼を慰めることが出来ただろうかと思う。

◇◆

 「それにしても、私達恵まれてるわよね」シャルトリューズを舐めながらアンナが言う
 「どうして?」ボリスが答える。
 「ネイサンも立派に育ったし」
 「そうだね」
 「お金で困ったりしないし」
 「ああ、困ったりしない」
 「恵まれてるわね」
 「そうだね。君は、恵まれている」
 少し間を置いて、アンナが言った。
 「あなただって、恵まれてるわよ」
 「ネイサンは君の子供だ」
 「ネイサンは私達の子供よ」
 「僕たちは呪われている」
 「なによ、とつぜん」アンナは笑った。
 「結婚式を挙げる少し前だ。映画館からの帰り道、地下道だった。覚えてるだろ?あのホームレスだ。痩せた、小さな、汚らしい老人で、ひどい匂いだった」
 「なんのこと?」
 「その老人は僕達を呼び止めた。顔も手も吹き出物だらけで、膿んでいた」
 「覚えてないわ」
 「覚えてるさ。老人は僕達に、赤錆で汚れた空き缶を突き出して、金を入れるよう迫った。僕は断った」
 「そうだったかしら」
 「僕が断ると、老人は目を剥いて、何かわけの分からないことを僕達に向かって言った。言うというよりは、唱えるというか、歌うような感じだった。首を締められた猫みたいな声で、確かに節があった。あれは歌だった。こんな風に…」
 「やめて」アンナが鋭く言った。
 「あのとき、僕たちは呪われた」
 「いい加減にして」
 「あの、ホームレス。覚えてるだろ?」
 「ええ、覚えてるわ」
 「あのとき、僕たちは呪われたんだ」
 「そんなことないわよ」
 「あれから、僕達は上手くいかなくなった、なにもかも。あの日から、僕達は一度もベッドを共にすることはなかった。君は文字通り、誰とでも寝た。僕以外となら誰とでも。あの時、僕たちは呪われた」
 「そうね、確かに呪われた。あの老人の匂いが、あなたからするようになった。近づくのさえ不快になった。触れ合うなんて絶対にできない。あの老人の匂いさえ無ければ、誰とでも寝たわ。あなたとあの老人以外なら、誰とでも寝たの」
 「君は、シャルトリューズを飲まないと眠れない」
 「そう、シャルトリューズの香りと、アルコールの助けを借りて、どうにか私はあなたの横で眠ることができる」
 「僕たちは呪われている」
 「それにしても、私達恵まれてるわ」
 「どうして?」ボリスが尋ねる。
 「ネイサンも立派に育ったし」
 「君の子供だ」
 「私達の子供よ」
 「僕達は呪われているんだ」
 「お金で困ったりしないわ」
 「ああ、困ったりしない」
 「私たち、恵まれてるわ」

◇◆

 スーザンは、ボリスの心がいよいよ暗い闇に落ち込んでいくのを見て取った。彼が昼間から酒を飲み始めたのは、分かりやすい徴候だった。彼の虚ろな目は、もう死人のそれと区別がつかない。
 ウイスキー以外も口にしてもらおうと、スーザンはボリスが好んで食べるアヒージョを毎日作る。小さな鉄鍋に、オリーブオイルをたっぷり注いで火にかけ、細かく刻んだガーリックを入れようとしたとき、ボリスがキッチンに顔を出した。
 右手に上質なウイスキーのボトル、左手に大ぶりのグラスを持っていた。ロックアイスをグラスにいれ、なみなみと酒を注ぐ。一口飲んでスーザンを見つめる。
 「僕と寝て欲しいんだ」ピザでも頼むみたいにボリスは言った。
 「酔っ払いすぎですよ」スーザンは笑った。
 「真剣に言っている」
 「もっと若い女にしたらどうです?」
 「スーザン、君がいいんだ。できるなら謝礼も払いたい」
 「金持ちの考えることは分からない」スーザンはどっと笑った。
 「いくらでも構わない」
 「……50分で230ドル」
 「それだけ?」
 「それだけです」 
 「どうして?」

 ボリスは金を出し、彼女の大きく分厚い手に握らせた。緩やかに螺旋した広い階段を、スーザンの手を引いて寝室へ向かう。誰も居ないキッチンで、オリーブオイルがパチパチとはぜる音がする。
 

END

◇◆人気のあった短編小説◆◇
僕らはこうしてパスタに襲われる
頼むから返事をしてくれ
人生の大半をラブホテルで過ごした女の話し

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

パンを買います

ありがとうございます!好きな魚介類はイカです。
294

スドウ ナア

パンのみで生きてます。短編小説しかありません。

スドウナア 短編小説まとめ

noteに投稿した短編小説をまとめています
1つ のマガジンに含まれています

コメント10件

こんにちは。独特のリズム感のある文体で読みやすく、それぞれの登場人物たちの心情をぼんやりと浮かび上がらせるような書き方がとても素晴らしいと感じました。これからも楽しみにしています。
綴喜明日香 様
お読み頂き有り難うございます。また暖かいコメントも励みになります。文体はまだまだ自分の文体というものを確立できておらず、日々暗中模索なのですが、気に入って頂けたようで良かったです。登場人物もどこまで書くかの調整には頭を常に悩ませており、お褒め頂き嬉しかったです。有り難うございました。
ゆっくり読める時間が出来たときに・・・と読み進めていたら、一気に読んでしまいました。どのお話も情景が浮かんで惹きこまれました。
「おすすめ」で紹介されていましたね!おめでとうございます♪
ayamenko様
お読み頂き有り難うございます。小さめのテキストなので、最後まで一気読みして頂けるのを目指しています。一気に読んで頂けたとのことで、本当に嬉しいです。有り難うございます。「おすすめ」紹介は感激です。小説を人にすすめるのって、なかなか難しいことだと思っているので、noteに「おすすめ」してもらったのは感激です。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。