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電車の遅延と「公教育2.0」

まずこちらの記事を見てほしいんですよ。


噺家の立川談慶師匠の記事なんですが、ちょっとハッとさせられませんか?

自分が急いでる時に電車の遅延があったりすると、
言葉にしないまでも、内心「どうなってんだよ」「勘弁してくれよ」
って思ったりすること、ありますよね。

個人的には読んでて胸がちょっと痛かったです。

ただ電車に乗るというだけでも、運転士さんはもちろん、整備や清掃、駅の安全確保等、数え切れないほど多くの人の頑張りの上に成り立ってるわけですが、

そこへの感謝を伝えもせず、トラブル時には偉そうに不平不満を言うなんてことは無くしていきたいですよねー。


という反省の一方で、

「この構造って教育現場で良く見るやつだなぁ…」

とも思ったわけなんですね。


学校に通う事を褒めたことが無いのに、休んだら叱られたり、

これまでずっと良い点数だったことは褒められたことないのに、成績が下がった途端に問い詰められたり、

テストで70点を取っても、残りの30点の事だけを責められる。


とかとか。


メイクしてる時は褒められないのに、スッピンだと「あれ?今日なんかブスじゃね?」とイジられたり、

ほとんど毎日作っている手作りのご飯にはノーコメントなのに、惣菜を買ってみたら「手抜きかよ」って言われたりするとかね。


どれも「あるある」な感じですが、

「あるある」であってほしくない「あるある」ですよね。


そう考えると、教育の場における課題はどうやら教育の場に限定されるものではなく、他の様々な場面にも共通している気がしますよね。

そして、その課題の根底にあるのは、

相手の立場に立って物事を考える「当事者意識の欠如」なんだろうと思います。


電車に乗るときに、「電車を動かす人達」の目線を考えられるか。

部屋の汚れが気になったときに、「これまで汚れが気にならなかったこと。(誰かが掃除をしてくれていたこと)」を考えられるか。

当事者意識が欠けた人から正論をぶつけられても子ども達は受け入れないでしょう。

時間通りに運行してくれている駅員さんに、「いつもありがとうございます」と言う大人が沢山いれば、それを見て育つ子ども達にマナー教育をする必要は無くなるんじゃないかなって思います。

「公(おおやけ)の場」で、みんなで作り上げていく、文字通りの「公教育」ってやつですよね。

流行りに乗って、「公教育2.0」とでも呼んでみましょうか。笑

そういう意味では親じゃなくても、教師じゃなくても、教育業界にいない人でも、全ての人が公教育の担い手になるわけで、

そう考えると電車の遅延に対するリアクションもやりがいが出てきますよねー。

「公教育2.0」、一緒に作っていきましょう!

それでは!

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