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創り手に「敬意」をはらう。

最近ヘビーローテーション中のデレク・トラックス・バンド。オールマン・ブラザーズ・バンドも好きだ。そして、マイルズ・デイヴィスも、もちろん。iPhoneにズラリと並んだ音楽のリストを見ると、「今日はどれを聞こうかなぁ」と、心がウキウキしてくる。

新調した真っ赤なコードのイヤフォンを耳につっこんで、音楽を聴きながらふと気がついた。

よーく見てみると、音楽リストにはiTunesで購入したものか、CDを買ったものばっかりだ。CDをレンタルして、パソコンに落としたしたものはひとつもなかった。

そうやって考えると、本は新品でしか購入しない、音楽はiTunesかCDでしか買わない、映画は映画館で見る、アート作品は鑑賞するだけじゃなく買う。本を中古で買ったり、音楽や映画はレンタルしたりはしないなぁ、ぼくは。

そういえば、どうしてなんだろう? あんまり、ちゃんと考えたことがなかったので、これを機会に考えてみよう。

(ちなみに、そんなふうにして、最近うちにやってきた作品たち)

(『バベルの塔』ブリューゲルさん)

(安西水丸さん、横尾忠則さんポストカード)

(『太陽の塔』岡本太郎さん)

あるときベストセラー作家の方が、こんなことを話していた。「ぼく、DVDは借りたりせずに、絶対に購入するんだよね」。糸井重里さんも、こんなことをつぶやいている。(本人の意図するところと違う可能性が、たぶんにあるかもだけれど)

これらの話は、仕事というかクリエイションというか、に対する「敬意」の問題な気がしている。では、「敬意」って、どんなときに感じるんだろう? と考えてみると・・・

どれが、じぶんのやるべきことなのか。どういうことが、じぶんのやりたいことなのか。そういった、じぶんの中心を探すようなことを、とことん本気でやっている人の仕事には「敬意」が生まれる。

誰かがよろこんだり、うれしくなるように、じぶんにできることを、注意深く真剣に繰り返している人の仕事には、やっぱり「敬意」が生まれる。

これはつまり、「じぶん」と「あいて」にうそをつかず、真摯に向き合い続けたことの証のようなものじゃないだろうか、と考えた。でも、それは簡単なことではない。というか、ずいぶんとむつかしいことだ。糸井さんやリンカーンさんのことばからも、そんなことが読み解ける。

じょうずであることよりも、うそをつかないことのほうが、ずうっとすばらしいことなんだ。どれほど磨いた技術でも、凄まじいばかりの経験でも、ぜんぶ捨てられると思うけれど、それでも、「うそをつかない」という場所にたどりつくのは簡単じゃない。(『忘れてきた花束』糸井重里)

そうやって生まれた作品やら仕事には、無数の思考やら行動、悩みや工夫、迷いや発見、絶望やら希望やらが、ごった煮のようにつまっている。そんな、なんと表現したらいいかよくわからない、 "それ" こそが「敬意」の源だと思う。

だからぼくは、"それ" を感じるものに対して、ふさわしい対価をお返ししたいと感じていたんだと思う。(正直な話、返しきれずに借金状態になっている人もいるなぁ。それってどうやって返したらいいんだろう?)


今回もコンテンツ会議の記事を読んでくださって、ありがとうございます。
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