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「好きなこと」と「信用取引」の問題。

ぼくは文学に精通しているように見られることがある。まぁ、それは言い過ぎにしても、文学が好きなんだろうな、と。もしそう思う人がいたとしたら、まんまと隠れ身の術にかかってくれた人たちだろう。

「そう、ぼくは文学に精通などしていない」

「だからなんなんだ」という、無言のツッコミを左へ受け流しながら、続きを書くこととしよう。

昔から手っ取り早く、役にたつ「だろう」ものを好んで読んできた。そう、ビジネス書や自己啓発書の類だ。高校生のころから、大前研一さん、神田昌典さん、本田健さん、ナポレオン・ヒルさんの本を読んでいた。(ま、どこまで理解していたかは疑問だが)なんだったら、受験勉強そっちのけで読むふけっていたときも多かったな。

ただ、小説やら文学に興味がなかったかというとウソになる。芥川龍之介さん、谷崎潤一郎さん、夏目漱石さん、大江健三郎さんの本も買っていた。が、途中で挫折し続けた苦い思い出がある。それは、大学や社会人になってからもそうで、最後まで読み切った本は数少ない。彼らの小説を読んでいたら知的に思われるんじゃないか、なにかが得られるんじゃないかというあこがれが先走って、何度も買っては読破に挑戦するも、惨敗を繰り返してきた。

そんな謎の自己嫌悪の闇からぼくをすくい上げてくれたのが、村上春樹さんだった。日本だけにとどまらず、世界的に言わずと知れた小説家だ。

たしか、いちばん最初に手に取ったのは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だったと思う。「今回こそ読み切るぞぉ」というやる気もむなしく、あっさりと読み終えてしまっていた。続けて読んだ『ねじまき鳥クロニクル』に至っては、もう、その不思議な世界に、我を忘れてどっぷりとのめり込んだのを体感として憶えている。

で、「よーし、小説やら文学はムリ病は治ったぞ」と、意気揚々と今度は、小説を好きにさせてくれた村上春樹さんがオススメする小説に手を出してみる。も、、、うーむ、またページをめくる手が進まない。他のことに気を取られてしょうがない。

はたと、気がついた。

好きなように好きなものを読もう。

興味を持ったら読んでみるけど、気が乗らなかったら、スパッとあきらめてしまう。それも、いいじゃないか。気が乗らないことを、無理してやる続けるほど、時間は有限じゃなさそうだし。

これは、読むことだけに限らない。ぼくたちが、「やること」にだって、おんなじことが言えると思う。

好きなように好きなことをやろう。

このことに関して、村上春樹さんのことばを見てみよう。

僕は自分自身を、基本的には長編小説作家であるとみなしています。僕は数年に一冊のペースで長編小説を書き(更に細かく分ければ、そこには長めの長編と、短めの長編の二種類があるわけですが)、ときどきまとめて短編小説を書き、小説を書いていないときにはエッセイや雑文や旅行記のようなものを書き、その合間に英語の小説の翻訳をやっています。

考えてみれば(あらためてそういう風に考えることはあまりないのですが)守備範囲は広い方かもしれません。ジャンルによって文章の書き方も少しずつ変わってきますし、長編・短編・エッセイ・翻訳、どの仕事をするのもそれぞれに好きです。要するに早い話、どんなかたちでもいいから、文章を書くという作業に携わっていることが、僕は好きなのです。

またそのときどきの気持ちに応じて、いろんなスタイルで文章を書き分けられるというのはとても楽しいことだし、精神バランスの見地から見ても、有益なことだと思っています。それは身体のいろんな部分の筋肉をまんべんなく動かすのに似ています。(『若い読者のための短編小説案内』村上春樹)

文章を書くという「好きなこと」を、長編・短編・エッセイ、翻訳と「好きなように」やっている村上春樹さんからは充実感を感じる。ぼくもそんなノリで生きたいし、そう望むすべての人がそんなノリで過ごしていけるようになるといいなとも思う。

好きなように好きなことをやっていくときのポイントは、それを「趣味」としてやるのか、「仕事」としてやっていくのかをはっきりと決めることだ。趣味としてやるのは、気持ちの切り替えだけでできる。(とはいえ、誰かの期待に応え続けてきた人、じぶんの勝手な思い込みにぐるぐる巻きにされていた人にとっては、この転換自体が、いったん今までのじぶんを殺してしまうかのような恐ろしいことでもあるのだが)

ただ、好きなように好きなことをやって食べていくには、ラクでたのしいことばっかりではあらない。「信用取引」を成立させる必要があるのだ。信用取引についても、村上さんのことばをお借りしよう。

「一生懸命時間をかけて、丹精込めてぼくが書いたものです。決して変な者ではありませんから、どうかこのまま受け取ってください」って僕が言ったら、「はい、わかりました」と受け取ってくれる人が世の中にある程度の数いて、もちろん「なんじゃこら」といって放り出す人もいるだろうけど、そうじゃない人もある程度いる。そうやって小説が成立しているわけです。つまるところ、小説家にとって必要なのは、そういう「お願いします」「わかりました」の信頼関係なんですよ。この人は悪いことはしないだろう、変なこともしないだろうという、そういう信頼する心があればこそ、本も買ってくれる。(『みみずくは黄昏に飛びたつ』村上春樹・川上未映子)

小説と書かれた部分を仕事に置き換えると、すべての人にとって、働くうえでの大切な指針となる。いつもこのことを、じぶんの真ん中に置いておけば、道を踏み外すことはなくなるはずだし、身分不相応にじぶんを大きく見せようとしたり、誇大広告するなどといった無理をしなくてよくなるんだと思う。では、どうしたら「信用取引」を成立させることができるのか、もう一度、村上さんのことばに戻ろう。

その「信用取引」を成立させていくためには、こっちもできるだけ時間と手間をかけて、丁寧に作品を作っていかなくちゃいけない。読者というものは、集合的にはちゃんと見抜くんです。これはちゃんと手間をかけて書いている者だとか、これはそうでもないとか。手を抜いて書かれたものは、長い時間の中ではほとんど必ず消えていきます。僕らは時間を味方につけなくちゃいけないし、そのためには時間を尊重し、大事にしなくちゃいけない。(『みみずくは黄昏に飛びたつ』村上春樹・川上未映子)

いまという時代は、時間に追い立てられていて、その結果、生き急ぐ人が多い時代だ。(まさしくそれは、ぼく自身のことなのだけど)だから、小手先でなにかを生み出そうとする人が多い。みんな、焦っている。だからこそ、もう少し落ち着いて、時間を味方につけるべきなのだろう。かけた手間暇は、必ずや作品や仕事という器に蓄積されて、相手との間に信用と生み出す。だから、信用を得ようと躍起になるんじゃなくて、時間と手間暇をかけることに集中したいものだ。

今日もコンテンツ会議の記事を読んでくださり、ありがとうございました。
やー、コンテンツ会議の記事を書くのは、疲れるけど、書いた後の爽快感とまだまだ感がなんとも言えず心地よいものです。

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さて、このコンテンツ会議の運営方針にぴったりのことばを、村上さんの『若い読者のための短編小説案内』のなかに見つけました。よくぞ言ってくださった、村上さん! そうそう、ぼくがやりたいのはこれなんだよと。

どちらかというと「この作品をこういう風に僕は面白く読んだんですよ」という、作家としての僕の、手前勝手な「私的な読書案内」みたいなものになるのではないかと思います。これは文学評論ではありません。

あんまり役にたつともいえないでしょう。場合によっては「そんなこといちいち言われなくてもわかっているよ」とか「それはちょっと偏った特殊な意見じゃないかというようなことをお感じになられるかもしれません。もしそうお感じになったとしたら、申し訳なく思います。ただ自分なりに正直に素直に作品を読もうとしているだけです。

ここで僕がやっているのは、いわば草野球的な小説の読み方です。青空の下で、野っ原の真ん中で、簡単なローカル・ルールだけを作って、あとはとにかく好きに楽しくやろうじゃないかと。(『若い読者のための短編小説案内』村上春樹)

ので、読んでくださったみなさんも、好きなようにおもしろがってご自身の勝手な見解などを教えてもらえたら、さらにうれしいです。

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