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書くことは、自己治癒の旅路である。

なぜ小説を書きはじめたかというと、なぜだかぼくもよくわからないのですが、ある日突然書くたくなったのです。いま思えば、それはある種の自己治癒のステップだったと思うのです。

これは、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という対談書籍の一節。この本を読んだとき、「そうそう、そうなんだよ」と、何度も膝を打った。腹に落ち過ぎて、彼女や仕事のチームメンバーに対して、この話を唾を飛ばすような勢いで語ってしまい、暑苦しがられたんじゃないかと心配している。

2巡目を読んでいる途中に、「次のコンテンツ会議のネタは、この本で決定だ」と決まった。そして、ページをめくっては戻り、めくっては戻りを繰り返し、特に心に残ったところをこんな感じでぐちゃぐちゃにノートに書き殴った。

これを数日続けて、よし書こうと決心して、パソコンに向かって書いてはみるが、なんだか納得がいかない。書いては消し、書いては消しが続いた。(削除した文字たちが成仏しますように)

その理由が、本格的に記事を作り始めてほぼ丸一日が経ってわかった。書こうとしていたものが、「つくりばなし」だったからだ。だから、心が納得しなかったのだと思う。「つくりばなし」とはなにか、河合隼雄さんに語っていただこう。

ほんとうに話にならないのは、それを頭でつくろうとしてしまうことですね。これはぜんぜんだめです。ぼくはそういうのをよく、「つくりばなし」と言うんです。「つくりばなし」というのは体が入っていないんですね、頭だけでつくっている。そんなものには、読者もあまりついてこない。

きれいごとや、どっかで聞いてきたこと、そしてゴールありきの文章は頭で書いたものになりやすい。そんな文章は、軽い。どんなにきれいで、いい感じに見えても、迫力がない。おもしろくなくて、心がちっとも動かない。ぼくは、頭でものを書きがちだから、痛いほどよくわかる。心理カウンセラーの友人からは、そんな書き方をしていたら即ツッコまれる体験を経て。

ということで、この本は大きなインパクトを与えてくれたのは確かだが、まだまだ落とし込みはできていないようだ。それどころか、やっとこさスタート地点に立った状態なのではないかと思う。なぜなら、どうしても落とし所が見つけられないからだ。(優等生的できれいごとな落とし所なら別だが)

「なにかのメッセージがあってそれを小説に書く」という方もおられるかもしれないけれど、少なくともぼくの場合はそうではない。ぼくはむしろ、自分の中にどのようなメッセージがあるのかを探し出すために小説を書いているような気がします。物語を書いている家庭で、そのようなメッセージがふっと浮かび上がってくる。

まさにぼくは、「なにかのメッセージがあってこの文章を書いた」のではない。自己治癒ということばを手がかりにして、そこに「なにか」を感じた。大げさに言うなら、これからの人生にとって大切ななにかがきっとある、と。だから、書きはじめなければならないと感じたのだろう。

ゆえに、この記事は「To Be Cotinue」。だがあえて、メッセージを見出すとしたら、なにか気になったことがあったら、ゴールや答えが見えなかったとしても書きはじめてみようということ。そこから、自己発見の旅がきっとはじまる。いまの僕の気持ちのように、スッキリはしないから気持ち悪いけど、時間をかけて向き合うことが大事だと思う。すぐ出る答えは、表層的な「つくりばなし」になってしまうから。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
あらためて、村上春樹さんの物語の創作方法に対する思考を深めよう。

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