俤 -something close-

同人誌『蝶の翅はなぜ青いか』収録作品。

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 彼は男性と寝るときは、必ず知らない土地へ来た。毎朝使う地下鉄の定期券外に降り立って、道ゆく人誰も彼を知らない彼も知らないそんな場所へいく。ときには親ほども歳の離れた相手にコーヒーを奢ってもらい、ほんとうはあまり好きではないその苦いコーヒーを舐めながら、話を聞いて、そしてホテルへ向かう。彼は別に金に困っていたわけではなかった。当然セックスが好きなわけでも、さらにいえばホモセクシュアルなわけでも実はない。どうして身体を売っていたのかは彼自身にも判然としない。ただ最近になって、あれは一種の自傷行為だったのかもしれない、と思うようになった。傷痕になると分かった上でそれでもかさぶたを剥がすような、投げやりで、孤独で、どこか清々しい心持ち。——だが彼はそうした行為のあと、いつも“後悔しなかった”。曰く、——「やって良かったとは思わないけど、悪かったとも思っていない」。
 桐生岬は顔立ちの優しい、そして背の低い少年だ。素っ気ないグレーのTシャツにだぼだぼのモッズコートを羽織り、よれたチノパンを穿いている。大体いつもこの格好らしい。なぜかスニーカーだけは何足もあり日によって変えているのだそうだ。無愛想で言葉少なだったが、それは敵意の表れというより彼が人見知りゆえだろう。内気だが、気弱ではない。少なくとも、そんな印象を受けた。
 三月二十八日から三十日までの三日間、岬は地元から上京していた。出立を両親には告げておらず家出同然だった。だがその旅は宛てのない放浪ではなく、きちんと目的があった。《兄の心臓》に会いに行くこと。
 一年前の秋。兄は事故で脳死し、心臓を東京の法学部生に提供した。

 桐生湊はひどくだらしなく責任感のない男だった。弟に限らず誰もがそのように兄を見ていた。金銭のからむ約束でさえ時間通りにはできなかったし、そもそも金自体にもルーズだった。服装は常にライブの物販で売られているような黒地のTシャツと、黒のライダース、そしてジーパン。それに履き潰されて所々破けてしまった汚れたナイキ(いつ見ても同じような格好をしている点で彼らはよく似ていた)。へらへら情けない笑みを浮かべ、両手をポケットに突っ込んで、染め直しの遅れた茶髪を適当に乱しながら気ままで怠惰な生活をしている。
 そんな兄は死に、東京の、生真面目で賢い学生が今その心臓を使っている。
 悲しみは無論長く続き今なお途切れたわけではないが、それでも多少は傷も癒え痛みの落ち着いてきたころに、ふと母がこんなことを言った。
「そうね、でも、立派な学生さんの、命になれたならよかったわね」
 岬は相槌を打てなかった。なにか素直に頷けぬわだかまりを感じていたのだ。
 母のその一言以来、心に不意に生じた靄は晴れるどころか日に日に重く、確かな質量を伴って岬の内側を占め始め、岬はそれを解消するため家を出た。会ったところでどうなるという見通しもなにもなかったが、少なくともこの靄に名前を付けることくらいはできる気がした。病院で、世話になった看護師に頼み込み提供先のメールアドレスを手にした。下書き状態のままで二、三日悩んだ挙句遂にメールを送った。返事は快いものだった。送り主の表情さえ見える気がした。
 夜中にこっそり、出発し、東京へ向かった。リビングには『すぐ帰ります』と書き置きをし、携帯も残した。寝室に向かって手をあわせ、父の財布からいくらか抜き取る。帰宅後に勿論返すつもりだ。あらかじめ手帳に写しておいた乗り換えやホテルの情報を、幾度も幾度も確かめてから靴を履いた。電車を乗り継ぎ、ちょっと居眠りし、やがて目的の駅に着いた。
 駅からさほど遠くない距離にホテルはあった。しかし慣れない都会に惑い、大きな荷物を引きずったまま右往左往し続けた結果三十分が経過してもまだ入口を見つけられずにいた。手帳に目を落とし歩いていたら、荷物の滑車で青年の足を轢いてしまった。慌てて謝る。彼は笑って許したうえで岬に尋ねた。
「もしかして、迷ってる?」
 岬は頷き、ホテルの名前を告げた。
「僕もこれからそこへ行くところだ。よかったら一緒に行く?」
 断る理由は特になかった。詐欺も一瞬疑ったが、悪い人には見えなかった。
 青年に着いていくとホテルは拍子抜けするほど近くにあって、というより自分が何度も前を通り過ぎていたことが知れて岬は少し落ち込んだが、青年に礼を伝えることは忘れなかった。彼は三青俊、と名乗り、自分もここへ泊まるから、困ったことがあったらいつでも声を掛けてくれ、と励ましてくれた。
 大学生との待ち合わせまであと三時間弱あった。先ほどの経験で岬は己の方向感覚(どちらかというと、注意力のほうに問題があったと見えるが)に多大な不安を抱いたため、今度は早めに出ようと決めた。あと、道に迷ったときはためらいなく人に聞こう、とも。

 岬が身体を売り始めたのは十四の頃。始める前は『売春』なんてマンガやドラマの世界にしかない遠いものだと考えていたがその気になって調べてみれば案外間口は広くって、畢竟そうした世界と自分とを隔てていたのは自身の良識ただそれだけだったのだと岬は学んだ。落ちていくのは簡単だから、よくよく気を付けていなきゃならない。
 ゆえに岬は厳格なルールを定めた。月に二回以上はしない、名は明かさない、家族構成も言わない、普段と趣味の違う服を着る、怪しかったらすぐ帰る、会う場所は必ず遠方にする。自暴自棄になるような気持ちが全くなかったわけではないが岬はかなり冷静だった。そのまま人生をずるずる破滅させていくつもりはなかったのだ。常に己の立つ状況を一歩引いて観察し、把握することを忘れなかった。
 岬には幼いころから密かに抱いていた疑惑がある。ほんとうは、自分はこの家の、血の繋がった子じゃないのかもしれない。
 確たる証拠はなにも無かったが微かな違和感が降り積もっていた。両親のどちらにも似ていないこと(無論兄とも)、親戚たちの自分への態度、半年に一度ほどどこかの役員が決まって家を訪ねるらしいこと、それを両親が自分に告げないこと。疑いが生じたところで両親は変わらず優しかったし、多少つれない対応もしたが兄のことも実は慕っていたし、さしたる不満や不安はなかった。けれど一抹の寂しさが思春期の彼をすっぽりと覆い尽くして憂鬱にした。異邦人(ストレンジャー)となった身体を、どうせならもっと、切り離して、思い切り孤独にしてみたい。ほんとうにこれまでのすべての繋がりから断ち切られてしまえば、中途半端に繋がれた今より息がしやすいかもしれない。思春期でなければ疑いだけで身体まで売らなかっただろうが、思春期にしては客観的だ。
 売りを始めてしばらく経った、ある秋の暮れ。岬は初めてミスを犯した。といっても正確を期すればそれは岬のミスに起因する失敗ではなかったのだが、ともかく彼はしくじったのだ、「家族に知られる」ことを《失敗》と表現するのが正しい次元では。
 しかし人生というものを俯瞰する視点に立ったとき、岬の、——いや、湊の、——選択は、双方にとって正しかった。少なくとも、過ちではなかった。

 ホテルのある駅から二つ離れた賑やかな街で電車は止まった。指定された出口へつくと、示された通りの格好をした人物が一人立っていて、迷わず合流することができた。彼はヒラノユウキ、と名乗った。平野佑紀。確か『佑』って「人を助ける」って意味だったよな、と岬は思い、その名の通りの職業を志している彼に感心し、同時に、反感を持った。彼は弁護士を目指していた。清潔で糊の利いたシャツを纏い、整えられた黒髪と凛々しい笑顔が目についた。衒いなく正直で、善良な人だと分かっていた。でも好きになれなかった。
「どうしよう、お茶でもする? 池袋に興味があるなら少しは案内できるけど」
 自分から会いたいと申し入れてきたくせに、愛想の悪い岬に佑紀は機嫌を損ねることなく、親切に対応してくれた。けれど彼が真っ当であればあるほどなぜか岬は、心のなかの靄が黒々うずを巻いて濃くなるようで、どうして好きになれないのかも定かでないまま、随分失礼な態度を取ってしまった。岬の頑さに佑紀もさすがに困惑した様子だった。
 ぎくしゃくしつつカフェへ入った。店内は地元の喫茶店と比べて格段に洗練されていて、岬の気分はやや上向いた。改めて周りを見回せば人々は皆しゃれた服を着て、窓ガラスから高いビルが望める。何より、今ここに親はいない。自分は一人で東京にきたのだ。
 二人は外を見下ろせる窓際の席へ通された。未だきょろきょろと店内を眺め回す岬に向かって、佑紀がメニューを開きながら、尋ねる。
「何食べる? 甘いもの好きなら、ここのケーキすごくおすすめだよ」
 岬の耳に、声が重なって響いた。それは湊の声だった。記憶がたまたま拾っていただけの何気ない一言。
 その場で岬は泣き出した。理由はやはり彼自身にも分からなかった。みっともないと思ったけれど、嗚咽はひどくなるばかりだった。佑紀は焦り気味に、どうしたの、を繰り返し、それはいつしか謝罪へと変わった。あなたのせいじゃない、と伝えたかったが、呼吸が乱れて、できなかった。
 結局ろくに話もせずにその日は別れた。突然泣き出してしまった彼に、ハンカチを差し出しながら佑紀は言った。
「恨んでる? 僕のこと……僕が心臓を、とってしまったから」
 恨んではいない、と岬は思った。違う、これは違う、もっと、——
 泣きじゃくりながら首を振る。二人はカフェを出た。佑紀は駅まで送ってくれた。
「あと、どのくらいここにいる? もう一度、会えるかな」
 去り際に佑紀が尋ねた。岬は頷き、二日後の、同じ時間に約束をした。

 ホテルのロビーには誰もいなかった。部屋まで上がる元気もなくて、適当に隅のソファーを選び、腰かけ、思う存分泣いた。しばらくして、誰かが隣に座るのが分かった。じきに手のひらを背に感じた。
「大丈夫?」
 なんとか呼吸を整え、見上げる。隣にいたのは俊だった。光の加減か、青い瞳がなおさら青く綺麗に見えた。お人形さんみたいだ、と思った。ガラスでできた目のようだと。
「なにか、あった? 僕でよければ聞くよ」
 優しい人の優しさを、ついさっき無下にしたばかりだった。繰り返したくない。岬は口を開いた。
「会って、きたんです。兄が、……死んだ兄が心臓を、提供したその人に」
 ひとたび話し始めてみると案外言葉はすらすら出てきた。なぜ東京に出てきたのか、その経緯から話し始めて、涙をどうにか堪えながら事の次第を述べた。佑紀はとてもいい人だったこと、なのに好きだと思えなかったこと、優しくしてくれたのにひどい態度をとってしまったこと、挙句、いきなり泣き出して、彼を困らせてしまったこと。
「どうして、泣き出してしまったの? 悲しかった?」と俊は聞いてきた。
「いえ、……悲しい、っていうんじゃなかった、……と思います。悲しいんじゃなくて、……」
「そっか。どうしてかな、佑紀さんに嫌なところがあった?」
「ううん、それも違う、……押し付けがましいとか、嘘くさいとかそんなことはなくて、……ほんとに優しかった、頭良さそうで、ちゃんとしてて、いい人で、……でも、僕、なんか、」
 悔しくて、と言葉が出た。転がり出てきたその言葉で気付いた。湊がかつて発した台詞と同じような台詞を佑紀が口にしたとき。なぜ、自分は泣いたのか。
 あの瞬間、岬は兄と佑紀をはっきりと比べたのだ。
「……しょうもない、兄でした。バイトもすっぽかすし、時間守らないし、いっつも同じTシャツ着てるし、時々お風呂入るのもさぼってたし、」
 岬が一度だけ《失敗》した日、湊は岬をカフェに連れてきてこう言った。甘いモン、平気だっけ? ここのケーキちょーうまいぞ。
 東京の洒落たカフェとは比べようがないほど趣味の悪い内装の喫茶店だった。だけど、
「でも、僕はすごく好きで、そこのケーキも、兄も、佑紀さん、兄と比べたら、ほんと立派で、偉いと思って、ちゃんと勉強して努力して、優しくてしっかりしてて、悪いとこなくて、でも僕悔しくて、まるでなんか、兄が死んだのが、それで佑紀さんが生きたのが世の中にとってはそのほうが、よかったんだって言われてる気がして、でも、そんなのやだ、そんなの、やだ、……」
 再び嗚咽がこみ上げて、それ以上は話せなかった。俊の右手があたたかかった。少しだけ兄を思い出した。でも、少しだけだ。
「お兄ちゃんの代わりにしても、いいんだよ」と俊は言った。
「ここにいる、間だけでも」
「俊さんも、……佑紀さんも」岬は答えた。
「いい人だって知ってる。兄なんかより全然、頼りがいあって、ちゃんとしてるって、……けど、」
 しっかりと目を見た。「僕の兄は、湊だけだから」
 言った直後にむずがゆくなり、付け加える。
「それに、……僕のお兄ちゃん、俊さんみたくイケメンじゃなかった」
 俊は楽しげに、嬉しそうに笑った。そうだよね、お兄ちゃんの代わりなんて、いるわけないよ。そう言って笑った。申し出を断ったのになぜ俊が喜んでいるのか岬にはいまいち分からなかった。が、心に広がっていた靄はきれいに晴れていた。そのあとに残ったものは、昔抱いた寂しさに似た、でも、ずっと優しい何かだった。

 岬が《失敗》した日。彼はいつものように客と会い、事前にメールで決めていた通りのホテルへ足を運んだ。ロビーで客が部屋を選ぶのを待つ間、ふと横顔に視線を感じて目を遣った。そして愕然とした。
 そこには兄がいたのだ。ラブホテルの制服を着て、モップを手にした清掃員の姿で。
 驚愕しているのは兄もまた同じなようだった。言葉を失って向かい合い、数十秒は経っただろうか。おもむろに客が振り返り「行こうか」と告げる。
「あ、え、えっと、」
 客のほうを向き口ごもる。瞬間、兄が叫んだ。 行くぞ。
「へ? 行くってどこ、——」
 言い切る前に手を掴まれた。兄はモップを投げ出して、そのまま出口まで突っ走った。
 客の動転する声と、ホテルの人の怒鳴り声と、出た途端にぶつかってしまった若いカップルの舌打ちとが矢継ぎ早に岬の鼓膜を叩いてすぐに遠ざかっていく。苦情を呈したが湊は止まらない。喧騒を縫うように走り、振り払う隙もないまま駅へと辿り着いてしまった。
 改札まで来て、さすがに手を引いた。 待って、ちゃんと、一緒に行くから。
「だから、……切符買わせて」
 なにかの拍子に親に知られ、問いつめられたりしないようにと、岬は売りをするときは定期は使わず切符を買っていた。湊は頷き、その場で待った。
 二人で改札を通ったときは妙な雰囲気だった。両者なにから話せばいいか分からず黙りこくってしまい、ぎこちなく電車へ乗り込んだ。時間帯ゆえか車内はがら空きだ。
 三駅分ほどの沈黙のあと、岬が先に口を開いた。
「なんで、あんなとこいたの」
「そりゃお前、」湊は一瞬聞き返そうとしたが、思い直したらしく、
「……時給、よかったから。交通費も出るし」
 ふと岬は、兄が当たり前のことながらラブホテルの制服を纏って電車に乗っていることに気付いた。少し寄りかかって背中を見てみると、薄ピンク色のその制服にはラブホテルの悪趣味なロゴがでかでかと印刷されていた。顔を覆いたくなった。
「服、どうするの。置いてきちゃったでしょ」
「え? あー……まあ安モンだし」
「その服着たまま家帰るつもり?」
「まあ、なんとかなるよ。なんとか」
 再びの沈黙。電車が揺れる。がたん、ごとん。
「……お前、さ、」多少意を決した様子で、兄が声を出す。
「……なに?」
「なんつーか、その、……」
 口を、開いたり閉じたり、横に伸ばしたり、すぼめたりしたのち、兄は言う。
「お前はさ、オレの、弟なワケじゃん」
「……うん」
「だから、こう、……なんつーの? オレとしてもさ、つまり、こう……」
 大事にして、ほしいんだよ、と。 珍しく真面目な顔をして。
 岬は自分でも、意外に思うくらい素直に頷いた。兄の言葉は、すっと胸の奥へ落ちてきて長く留まった。列車の心地よい揺れにあわせてそれは波となり岬のなかに満ちた。そのとき兄の声に宿っていたなにかの名前を、岬は知っている。
 だが口に出すこともない。口にしなくても、みんな知っている。

 二日後。佑紀に会いにいくため、荷物を持ってエレベーターへ乗った。岬の部屋は七階に、ホテルの受付は一階にあったが、三階で一度エレベーターは止まった。そこで俊と乗り合わせた。
「もう帰るの?」と俊。
「はい。俊さんも?」と岬。
 俊は頷いた。しかし彼は、荷物を一つも持っていなかった。岬が受付をしているあいだ俊はロビーで待っていたが、彼が既に手続きを済ませたわけでもないらしかった。変だな、と思ったけれど、特に問いかける理由もないのでなにも聞かずに出口まで行った。
 一度、岬は肺炎にかかって、入院する騒ぎになったことがあった。そのとき湊は慌てた様子で一枚のカードを持って病室へ駆けつけてきた。それは臓器提供の意思表示カードだった。移植が必要になるような大変な病気じゃないし、そもそも生体から移植する場合カードは別に必要ないのだ、と母に言われてしまい、湊は恥ずかしげに頭をかいていた。
 兄はしばしば岬のパソコンを勝手に使ってアダルトサイトを見ていた。それで岬と客との間のメールにたまたま気付いたのだ。直接言っても反発されるだろうと、偶然を装うことにした。あの日兄が家から遠く離れた歓楽街のラブホテルでバイトをしてたのはそういうことだった。あとあとになってそれを知り岬は少し呆れたけれど、かと言ってあの日頷いた気持ちが変わるわけではなかった。湊はだめな兄だった。だけど、優しい兄でもあった。岬の兄は彼一人だけだ。それはこれからも変わらない。
「それじゃ、さようなら」
 ホテルの正面で、俊は岬に手を振った。体は岬が向かうほうと反対側を向いていた。
「はい。お世話になりました」岬は礼を返し、駅へと足を踏み出していく。
 少し歩いたところで岬は俊の背を探し振り返った。しかしすでに彼の姿は、人波のなかに消えてしまっていた。

「この前はごめんなさい」
 再会と同時に岬は佑紀へ深く頭を下げた。佑紀は二日前とは違うグレーのVネックを着ていた。こんなとこまで兄と違うな、と顔を上げながら岬は思う。けれどそこに反感はない。
「そんな、気にしないで。君にとって僕は、複雑な存在っていうか、……好ましくは思えないだろうし」
「この前は、好きになれないって思いました。でもそれは、なんていうか、……ただの八つ当たりだったんです。だから、ごめんなさい」
 おいしいアイスクリーム屋があるんだ、と彼は岬を誘った。それは路面店で、イタリアンジェラートを扱っていた。岬はレモンを奢ってもらい、佑紀は抹茶とバニラをダブルで頼んでいた。ガードレールに腰かけてアイスを食べながら話をした。佑紀は先週恋人と別れたばかりで傷心していた。
「この店、前に彼女と二人できたことがあってさ。思い出しちゃったなあ」
 彼女は店へ寄ると必ず白桃を頼んでいたらしく、内心レモンとどちらにしようか迷っていた岬は冷や汗をかいた。湊も甘いものが好きだった。湊だったらチョコレートを頼んだだろうな、と岬は思った。
「……少し、変なお願いをしてもいいですか」
「うん。いいよ」
「心臓の音、ききたいんです」
 佑紀は、やや驚いたふうで、しかし唇を結ぶと力強く頷いた。そこまで大きな思いがあって頼んだわけではなかったのだが、佑紀の真剣さにつられ岬もなんだか改まってしまった。一つ、唾を飲み込んで、そっと左胸に耳を当てる。
 深くから、鼓動が聞こえる。確かにそこに心臓がある。けれど響きに懐かしさを覚えてなお岬は心のなかで繰り返していた。これは、兄じゃない。
 岬は目を閉じた。その裏に、兄の姿が一瞬ひらめき、声をかける間もなく消えた。


【俤】
おもかげ。顔つき。心の中に思い浮かぶ像。
『俤』という字は、兄弟は似通うものであるとし、
弟の姿や顔に兄の面影を見ることから生まれた、
日本製の漢字。

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