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たかだか「近似」でしかない言葉とどう付き合うか

思っているだけでは伝わらない、ちゃんと言葉にしないと

なかば共通認識として私たちの間に広がっているこのフレーズは、考えてみると、小説などの創作された世界と現実世界との境界を見失った、疑わしいものに感じられてくる

私たちが何かを「思う」とき、そこに言葉はどれだけ関与するだろうか。少なくとも私は言語化された思考なんてせいぜい一割くらいで、残りは言葉を与えられずにふわふわと漂い、消える。そこには痛い寒いなどの低次な感覚だけではなくて、「相手に伝えたい主張」といったある程度高次な思考も確かに存在している

そしてこれを言語化するとき、自分の語彙からちょうど良さそうな言葉を持ってきて、くっつけて、出力する。僕は、ここに相当の近似がある気がしてならないのだ。例えるなら

楕円を多角形で近似するような感覚

これは僕の口下手だけに起因するものではない

言語化されていない思考はいうなればアナログ量。どの脳細胞にどれだけの強さの信号が伝搬したかという連続的な量の作用が直接現れた結果

一方で言語化された思考はデジタル。せいぜい数万種類の語彙から選んできたいくつかの言葉の組み合わせ。離散的な結果しか現れるはずがない

こんな質の全く異なる量の間でA/D変換を行ったら量子化誤差が生じることは明らかだろう。だから「言葉にしないと伝わらない」はやはり怪しくて、「言葉にした途端、思っていたものとは別物になる」が正しいと思うのだ。この誤差を回避できるのは心中が全て言語化されている小説などの登場人物だけのはずだ

言葉による思考の塗り絵。塗れなかった部分・はみ出てしまった部分はどうやって修正できようか

表情?ボディランゲージ?はたまた歌にのせる?

いや、確かにどれもアナログかもしれないがレパートリーが少なすぎてもはやデジタルだ。分かりやすさ・好印象は与えられても言葉以上の情報量を乗せることは不可能だろう

もしかすると、塗り絵の修正は言葉によってしか不可能なのかもしれない。結局それも近似でしかないのだけれども、自分の思いにより近い言葉を探して推敲するしか、ない

誤解のないようお伝えしておくと、僕はいま何かにイラついている訳ではないし、何か強い主張をしたい訳でもない。心中は穏やかで、図形で例えるなら楕円のように滑らかな曲線からなる図形だ。わざわざ書くことでもないと思ったが、念のため釈明させていただくことにした

角が立つといけないので

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