岡崎体育といつもここからのはなし。

少し前に、関西を中心に活動しているミュージシャン、岡崎体育の楽曲『MUSIC VIDEO』のプロモーションビデオが話題となった。同映像は2016年4月19日にYouTubeでアップロードされ、同年6月現在、視聴回数は間もなく400万回を突破しようとしている。また、同曲を収録した岡崎のメジャーデビューアルバム『BASIN TECHNO』(2016年5月18日リリース)は、5月30日付のオリコンウィークリーチャートで初登場9位を記録。まさに「今が旬」の状態だ。

『MUSIC VIDEO』はいわゆる“ミュージックビデオあるある”で構成された楽曲である。「♪カメラ目線で歩きながら歌う 急に横からメンバー出てくる」「♪倍速になって スローになって コマ撮りになっていく」「♪無意味に分身するよね」などなど、ミュージックビデオで目にしがちな演出が歌詞になっている。そして、本作のプロモーションビデオには、この歌詞の内容そのままの演出が用いられている。歌詞の内容を映像が補足しているわけだ。だが、もしも本作にプロモーションビデオがなかったとしたら、これほど岡崎体育が注目されることはなかっただろう。歌詞だけでは伝わりにくい面白さを可視化したからこそ、この作品は話題となったのだ。

そんな岡崎体育の『MUSIC VIDEO』は、いつもここからの『悲しいとき』に似ているといえるのかもしれない。

いつもここからはワタナベエンターテインメントに所属するお笑いコンビだ。バンドのメンバー募集で出会った山田一成と菊地秀規によって1996年に結成された。彼らの名が世に知られるようになったのは、1999年に出演した「がぶ飲み ミルクコーヒー」のコマーシャルが大きなきっかけだったとされている。そのコマーシャルの中で披露していたネタが『悲しいとき』だった。

『悲しいとき』は、左右に並んだ二人が客席に向かって、まるで訴えかけるかのように「悲しい気持ちになってしまう状況」を紹介するネタである。披露する際には、舞台に向かって左側に立っている山田は握りこぶしを前に構え、右側に立っている菊地は開いたスケッチブックを両手で前に抱えている。スケッチブックには「悲しい気持ちになってしまう状況」のイラストが描かれており、ネタが展開するたびにめくられている。

 以下、流れを簡単に文字起こしする。

山田「悲しいときー!」

菊地「悲しいときー!」

山田「家に遊びに来た友達が絨毯で手を拭いていたときー!」

菊地「(スケッチブックをめくりながら)悲しいときー! 家に遊びに来た友達が絨毯で手を拭いていたときー!」

こうして見ると、最初に山田が言っているネタの内容だけでは説明不足なため、その具体的な状況が伝わりづらいことが分かる。しかし、続けて菊地がスケッチブックに描かれている「袋の開いたスナック菓子の横に座っている友人が絨毯で手を拭いている」イラストを見せることで、その真意がしっかりと伝わってくる。イラストがネタを補足しているわけだ。

だが、この構造は、常に一定であるとは限らない。時には、山田のネタだけで十分に面白さが伝わっているため、菊地のイラストが蛇足になってしまっていることもある。しかし、一定ではないからこそ、ワンパターンではないからこそ、観客を飽きさせない。実に卓越した技術である。

……と、ここまではパッケージについての話だ。

ここからは本質についての話になる。

先にも書いたように、岡崎体育の『MUSIC VIDEO』は純粋な“ミュージックビデオあるある”で構成されている楽曲だ。しかし、この曲を評価する言葉には、「悪意」「皮肉」「底意地が悪い」などといった言葉が付きまとっている。確かに、歌詞をよくよく確認してみると、「♪オシャレな夜の街写しとけ 光も適当にボカしとけ」のようにクリエイターの投げやりな姿勢を一方的に代弁しているような言い回しも見られる。だが、それはあくまで一つの要素に過ぎない。それなのに、どうしてこの作品に多くの人たちが、悪意を感じてしまうのだろうか。

そもそも、根本的な問題として、「あるあるネタ」という手法が誤解されているように思う。一般的に「あるあるネタ」は共感性の笑いとされている。日常生活であえて意識するようなことがなければ見過ごしてしまいがちな事物や状況を言語化し、観客に「確かにそういうことはある!」と感じさせることで、笑いが生まれる。だが、どれほど客観的な視点が含まれていようとも、「あるあるネタ」は単なる現実の切り取りではない。芸人の視点・思考を経由している以上、意識的であれ無意識的であれ、そこには批評性が組み込まれている。いわば「あるあるネタ」は、現実を端的に批評しているといっても過言ではないのだ。

とりわけ、岡崎体育の『MUSIC VIDEO』は、ミュージックビデオというジャンルに限定しているだけ、より批評性が濃密に表出してしまいる。既存のミュージックビデオにおけるちょっとカッコイイ雰囲気の映像を制作するために無視した無意味さや不自然さに対して、何の逡巡もなく批評しているように感じられる。それが「悪意」「皮肉」「底意地の悪さ」という印象として、作品を鑑賞している人たちの中に残るのである。

この「あるあるネタ」における「批評性」を踏まえた上で、いつもここからの『悲しいとき』を見てみる。お笑いを学問の観点から研究している井山弘幸氏は、『悲しいとき』を【どう見ても悲しいというより滑稽】な状態を「悲しい」と称することで【生じる落差がずれ下がりの笑いを生み出す】と解説していた(井山氏の著書『笑いの方程式』より抜粋)が、僕はもう少し、そこにおぞましいものを感じる。

先程、抜粋したネタを、改めて見てみよう。

「悲しいときー! 家に遊びに来た友達が絨毯で手を拭いていたときー!」

想像してみると、確かに悲しい。だが、どうしてそれが悲しいのか。……思うに、友達の「絨毯で手を拭いていた」行動が、彼の自分に対する評価の低さを表しているからだ。それを踏まえた上で、他の『悲しいとき』を見てみると、似たような状況に至っているシーンが少なくないことに気付かされる。

「悲しいときー! 仲がいいと思っていた友達が、他の人と班を組んだときー!」

「悲しいときー! 皆にお菓子を配ろうとしたら、皆にいらないって言われたときー!」

とはいえ、まだこの時点では、それほどえげつない印象を感じない。重要なのは、この他者の行動を描くことで自らの格の低さを対比的に表していた手法が、少しずつ、自らが他者の格の低さを直接的に表した手法へとすり替わっていく点である。しかし、観客はそのことに気付かない。何故ならば、それが「滑稽なもの」という直接的な表現ではなく、「悲しいもの」という迂回した表現によるパフォーマンスだからだ。

そして、以下のようなネタが繰り広げられることになる。

「悲しいときー! 彼女のウォークマンが変なメーカーのヤツだったときー!」

「悲しいときー! 後ろ髪伸ばされている子どもを見たときー!」

「悲しいときー! パリーグの試合を見たときー!」

そこに差別的な視点が組み込まれていることを、僕は否定できない。

ただ、だからといって、いつもここからの『悲しいとき』を否定しようとも思わない。むしろ、理性の名の元に人間が差別的な感情を表に出せなくなり、その模範的な姿勢が反社会性を唯一認められている芸能の世界においても求められるようになった今の時代において、『悲しいとき』という手法を用いて、密やかにその感情を引き出していたことに、感動すら覚える。……まあ、あくまで持論なのだが(それを言っちゃあ……)。

最後に余談だが、いつもここからがお笑いに目覚める前にやっていた音楽はパンクだったらしい。合点。

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