イッセー尾形「医者の新築」(1982)

「餅は餅屋」の言葉の通り、専門的なことは専門家に任せるべきである。中途半端に身に付けた生兵法は大怪我の基になりかねない。とはいえ、この広い世間においては、頼りにならない専門家というのも少なくない。事実、近年においては、胡散臭い医療法を喧伝する医者や、何処で得たのかも分からぬ怪しげな情報を広めるジャーナリストなどの横行が、随分と話題になった。こういった類いの人間ははっきり詐欺師と断ずるべきなのだろうが、如何せん、世の常識から外れている人種を無条件に評価しようという安易な反権威主義者というのも少なくないから実にややこしい。こうなると、その良し悪しを判断するために、素人であれども最低限の知識が必要になるのだろうだが、それでは専門家が存在する意義が分からなくなってしまう。出来ることならば、素人である我々を悩ますことなく、そういった害悪になりかねない輩は専門家同士で上手く排斥していただきたいものだが、それもまた無責任な物の言い方といえるのかもしれない。

イッセー尾形の一人芝居『医者の新築』は、そんな専門家のムチャクチャなやり方を描いたものだ。施主が数日ぶりに自宅の建築現場(二階)を訪れると、予定とは違っている部分があることに気が付いてしまう。本来ならば、出窓となるべき部分が、普通の窓になってしまっているのである。図面を確認してみても、やはり間違っている。棟梁に確認し、工務店の社長と改めて打ち合わせをすることにして、昼食用のお茶を入れる……つもりだったのだが、今度は別のところが気になり始める。後でお風呂の浴槽を通さなくてはならない柱と柱の間が、どうも狭いように感じられてならないのである。聞くと、浴槽の向きを変えれば、通るという。なるほど……と、その場では納得し、またお茶を入れに行こうとする……が、今度は一部の天井が明らかに低いことを発見してしまう。どんどん不安が募り始める施主。そして疑念が生じる。自分が目を離していた隙に、彼らはテキトーな仕事をしていたのではないか、と。

しかし、問題は自宅だけに留まらない。この最中、隣家の主婦が、塀越しに施主への苦情を言い始めたのである。話題の中心は共有地について。既に主人との話し合いを済ませている筈なのに。無論、そんな話を悠長に伺っている余裕はない。とっとと棟梁と現場の様々な粗について話をつけなくてはならないからだ。しかし、そんな事情などお構いなしに、主婦は延々と文句を言い続ける。仕方がないので、階下にいるはずの自分の妻に相手をさせようと、何度も「米子~!」と呼びかけるのだが、こちらへ上がってくる様子はない。無視しているのか、聞こえていないのか。そこへ工務店の社長がやってきたので、問題の部分について説明を求め、改めて打ち合わせしようとするも、肝心の図面が風で何処かへ飛んで行ってしまったらしい。その様子を見ていたという棟梁。どうして引き留めようとしなかったのか。よもや、施主である私のことを、敵視しているのではあるまいか……。

……と、ここまで書き起こしてみると、大工や工務店にいいように振り回されている可哀想な男を演じているだけの様に見えるかもしれない。だが、この施主の正体が、「産婦人科医」というまた別の専門家であることが、このネタの重要なポイントとなっている。このやりとりの最中、実は施主が、この後に帝王切開の手術を控えていることが発覚する。それ故に、状況はより切迫し、彼はどんどん精神的に追い詰められていく。お金をかけ、理想的に作られる筈だった自宅が明らかに乱暴に作られている。打ち合わせに集中したい。だが、隣家の主婦は文句を言い続け、妻は二階に上がってこようとせず、頼りない看護師はメスを並べることもままならない。やがて施主の感情は頂点に達し、「僕ねぇ、今から帝王切開でねぇ、十五分したら戻るから! いなきゃダメだよ! チャカチャカチャカってやりゃあ、あんなもん簡単なんだ!」と工務店の社長に言ってのけ、そして次の台詞を口にする。

「君ねぇ、自分の仕事に責任持たなきゃあダメだよ!」

理性の限界に達してしまった男が口にした自己矛盾の一言。見事である。

ちなみに、『医者の新築』は1982年3月に初演されているが、今回は「イッセー尾形 寄席 山藤亭」(2006年収録)の映像を参考にしている。この他、『英語教師』『ピザ屋』『脳コントロール』などの傑作が再演されており、イッセー尾形の入門として最適な作品だと思うのだが、今は手に入りにくいらしい。実に勿体無い。

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