陣内智則のはなし。

 陣内智則の一人コントについて、適切に書かれている文章を読んだことがない。小道具や映像によるボケに対して陣内がツッコミを入れるというスタイルを「漫才を可視化している」と表現している文章を一度だけ見かけたことはあるが、それが彼のコントの本質を突いているとも思えない。そこで、今回は陣内智則のコントについて、割と真剣に解説してみようと思う。もちろん、僕が勝手に思っていることなので、「これこそが正解だ!」と断言するつもりはない。あくまで、僕が陣内のコントについて、本当に良いと思っていることをしっかりと説明したいだけだ。……なんてことを書くと、なんだか逃げ道を作っているように見えるかもしれないけれど。

 結論からいうと、陣内智則のコントの最大の魅力は【孤独感】である。

 ……恐らく、この僕の主張にピンときていない人は少なくないのではないだろうか。でも、考えてみてもらいたい。今、ピン芸人として活動している人たちが演じている一人コントの多くには、語りかける相手が存在している。例えば、友近が喜々として演じているピザ屋のおっさんには、注文の電話がかかってくる。電話での応対内容によって、おっさんの魅力を引き出している。そこには確かに交流がある。柳原可奈子や横澤夏子の一人コントにも同様のことがいえる。彼女たちには対話の相手が存在し、そのやりとりを見せることによって、演じているキャラクターの際立った個性や魅力を引き出している。陣内と同様に音声を駆使することで、純然たる一人コントよりも第三者の存在を強調しているマツモトクラブのコントでさえ、その多くは対話によって成立している。

 しかし、陣内智則のコントは違う。彼がツッコミを入れる相手となっているものは、自身とは関わりを持たない存在であることが非常に多い。分かりやすい例を紹介する。『物売り屋さん』というコントがある。受験勉強をしている陣内が、外から聞こえてくる物売り屋の売り声に対してツッコミを入れていくコントである。この『物売り屋さん』において、陣内は物売り屋さんとはまったく関わりを持たない状態にある。ただ、外から聞こえてくる売り声に対して、陣内が一方的に独り言のようにツッコミを入れている。双方がコミュニケーションを取るのは、終盤で陣内がある物を買いに行く瞬間だけだ。この他のコントにも、似たような傾向が見られる。その日に買ってきたオウムが覚えた言葉に陣内が振り回される『オウム』、早く眠るために数えている羊のイメージがムチャクチャでなかなか眠れない『羊が一匹…』、転校して三日目に行われた卒業式の内容にツッコミを入れざるを得ない『卒業式』など、どのコントにおいても他者が存在しない(或いは大幅に距離を置いている)状態を保っている。その絶対的に不可侵な距離感が、彼のコントにたまらない孤独感を生み出している。

 もちろん、それはあくまでも、ツッコミという客観性が必要な立場を維持するため、そうしているに過ぎないのだろう。だが、一人で何かをしているときに独り言のようにツッコミを入れるという手法は、一人暮らしをしている人間が日常で目にした出来事に対して思わず独り言を漏らしてしまう状況を思わせ、まったく意図していなかっただろう共感を得られていたように思う。少なくとも、僕はそれが陣内のコントの良さであり魅力であると感じていた。

 だからこそ、コントにエキストラを起用する近年の彼のスタイルには、どうしても違和感を覚えてしまう。2016年5月7日に放送された「ENGEIグランドスラム」で披露していた『ペットショップ』のコントにも、来店する客として多くのエキストラが出演していた。一応、彼らの存在は、コントにおける笑いのきっかけにはなっていたが、はっきり言って陣内と売れ残りの犬の会話だけで成立していたように思う(【孤独感】の観点でいえば犬と会話している時点でどうなのかと思わなくもないけれど、そのやりとりが外には知られていないインモラルなものであると考えれば悪くない)。

 ことによると、陣内自身はエキストラを起用することで、表現の幅が広がったと考えているのかもしれない。だが、個人的にはむしろ、表面的な面白さにとらわれ過ぎて、設定そのものをより掘り下げていこうという意欲が失われてしまったように感じられた。そういう笑いは既に吉本新喜劇がやっているのだから、陣内は陣内だからこそ出来る方法で笑いを作ることに邁進してもらいたい。

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